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オカルト
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被差別部落にまつわる怖い話 27
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悲田院文書
http://www.cwo.zaq.n...evolt-m/tushin51.htm
通読すると、いくつもの重要な問題点が浮かび上がってくるが、
たとえば、天保四年の非人による探案・情報収集が個別村落の米買い持ちの家を特定し、
その調査は米量や当主の年齢はもとより、支配を超えて広がっている。
同じ天保・弘化期の作柄調査も実に広域的で、幕府が地域を越えて関心を寄せていることがわかる。
続編所収の天保八年二月十日に始まる下筋道中日記には、横帳裏表紙に「大坂盗賊方手附 勘定方」とあり、
四人の同心が長堀商売米屋町の平野屋佐吉による船四艘のうち金栄丸に乗り、天満、道頓堀、飛田の小頭を連れて十五日下津井着。
このうち飛田小頭の栄三郎ら四人については、「此分者兵庫津より上陸、内山様御供ス」と注記されている。
内山もこの探索に加わっていたのである。これにつづいて、住吉丸に天王寺長吏や在村の小頭が搭乗し、十六日下津井へ着船。
讃岐金毘羅などを回っているが、一月二十八日に「内山様・関様御帰国道、和介御供致し帰」とある。
内山彦次郎と同心の関弥治者衛門が帰ることになり、道頓堀小頭の和助(小野)がお供している。
実は二月二十五日四ツ時(午前十時)頃、十九日に起こった大坂表騒動一件(大塩事件)について、
重五郎から住吉丸に乗って西行した林(悲田院長吏)と小野(悲田院小頭)あての御状が、
出張先の丸亀に直人足で届けられ、大坂出火の様子がわかった。
その後のやりとりは文意のとりにくいところがあるが、二十四日同行していた飛田小頭の助八が内山の御状をもって大坂へ帰り、
その返事が二十八日に岡山に着いて、内山が事態を知って急遽帰国となったとみられる。
つまり、乱直前に吉見九郎右衛門が密訴した文章に、内山が「此度遠方御用に参り候故に、吉見九郎右衛門が密訴も承り申間」といい、
その出立を差し延べるよう賢察を求めたとあるように、内山は当時西国筋、備前へ出張中で不在。
火事が大塩の乱と知って二月二十八日に急遽大坂へ向け出発したことが、この史料で明らかになった。
すでに乱後九日が経っていたいたのである。