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【古代史ミステリー】邪馬台国は、九州から畿内へと「移動」した? 「まつろわぬ民」の鬼伝説に隠された真実とは ★2 [樽悶★]
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藤井勝彦
航海中に塵輪鬼が登場する『絵入名将百史伝』中村金水著 国立国会図書館蔵
https://newsatcl-pct...ishin-001-1-view.png
(省略)
第14代仲哀天皇の頃のお話である。正確な年代は定かではないが、およそ4世紀中~後半のことと考えていただきたい。『日本書紀』によれば、仲哀天皇は、「熊襲(くまそ)よりも先に新羅を攻めよ」との神託に従わなかったことで、神罰が下ったことになっている。結局、熊襲討伐を果たせなかったばかりか、病に倒れて亡くなったという。
ところが、地域によっては、その様相が大きく異なって伝えられているから面白い。例えば、岡山県瀬戸市牛窓地区の伝承を見てみよう。ここでは、仲哀天皇が熊襲討伐に向かう途上、その進軍を阻止しようと、新羅から送り込まれてきた塵輪なる悪鬼が登場して、大立ち回りを演じたという。
(省略)
実はこの塵輪伝説、似たような逸話が『日本書紀』にもさりげなく記載されているが、これは注視しておくべきである。皇后が熊襲を退治しようとした時(あるいはその後のことか)のこと。香椎宮の南に位置する荷持田村(のとりたのふれ/福岡県甘木市野鳥)で、羽白熊鷲(はじろくまわし)なる怪しげな者がいて、皇命に従わず、人民を掠(かす)めていたという。
これを皇后が退治しようと、松峡宮(まつおのみや/福岡県朝倉郡筑前町)から層増岐野(そそきの/福岡県朝倉郡夜須町)に向かい、そこにいた羽白熊鷲を殺したというのだ。翼があって高く飛ぶことができたというから、まさに塵輪とそっくり。この後、皇后は山門県(福岡県柳川市、みやま市)まで南下して、土蜘蛛(つちぐも)・田油津媛(たぶらつひめ)を殺害したとも付け加えている。
気になるのは、ここに登場する地名の多くが、筑後川流域だったという点。筑後川流域といえば、邪馬台国九州説派の多くが、邪馬台国の比定地として掲げるところである。この邪馬台国のかつての本拠地だったと思われるところが、4世紀中頃になぜか熊襲の領域になっていた…というのが引っかかるのだ。
もしかしたら、邪馬台国は、当時対立していた狗奴国(くぬのくに/熊襲の前身か、あるいはその南に熊襲が暮らしていたか)に破れて居住地を追われたか、あるいは乗っ取られたのではないかとも考えられるのだ。敗れた邪馬台国の残存勢力がここを脱出して、大和を目指した(同盟国であった伊都国や宇佐方面の一部勢力が加わった可能性もある)と考えられないだろうか? それが神武東征物語として語られたのではないか…という気がしてならないのだ。
気になることがもう一つある。それが、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰(たけしうちのすくね)の三人の関係である。応神天皇は神功皇后と武内宿禰の子であったとの説(応神天皇が神功皇后の娘婿だったとの説も)も根強いが、皇后と宿禰が示し合わせて天皇を陥れた(殺害したとも)との説も見逃せない。本来の正当な後継者は忍熊皇子(おしくまのみこ)らで、皇后と宿禰の二人が自らの子(後の応神天皇)を押し立てて、王朝を簒奪(さんだつ)したとまでいわれることもある。
ここで思い起こされるのが皇后の出自である。『日本書紀』によれば、母方の祖先が新羅から渡来してきた王子・天之日矛(あめのひぼこ)であったとする。となれば、皇后自身が新羅王族の血を受け継いだ者だったはず。自らの原郷だったにも関わらず、豊富な鉄資源に目が眩んで新羅攻略に走ったのではないか?
新羅侵攻に反対する天皇を無視して侵攻を強行した…というのが実情だったとも思えてくるのだ。それに手を貸したのが武内宿禰で、牛鬼に襲われた皇后を救ったという住吉明神が翁の姿に変じたというのも、長命であった武内宿禰のことを暗示しているかのよう。結局、新羅攻略を目的とした結果として、王朝簒奪が成し遂げられてしまったと考えられなくもないのだ。
(省略)
また、ここでいうところの新羅とは、朝鮮半島に築かれていた新羅国ではなく、倭国内に勢力を張っていた新羅王朝だとの見方があることも付け加えておきたい。備前(岡山県)に新羅王朝があったと見なすのが『古代日本の渡来勢力』を著した宋潤奎氏、下関に新羅王朝があったとするのが『倭人と韓人』を著した上垣外憲一氏である。神功皇后が攻め込んだとする新羅というのが、朝鮮半島ではなく、岡山あるいは下関で勢威を誇っていた新羅王国であった可能性も、全くゼロとは言い切れないのだ。(以下ソース)
7/29(月) 16:45配信
https://news.yahoo.c...75d92bba75fb5816d426
★1:2024/08/03(土) 23:59:20.69
https://asahi.5ch.ne...newsplus/1722697160/ - コメントを投稿する
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うんち食べたい!
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ぼくも!
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わたしも!
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古事記や日本書紀に邪馬台国や卑弥呼の記述はない
お察し -
鬼の日本語よみは「オニ」これは「イヌ」居ないつまり隠れる事を意味する(つまり死ぬ事)(鬼籍とかいう)
イヌカミも姿が見えない神の事 -
なんかドラえもんの映画で労働をすべてロボット任せにした結果
虚弱になって車椅子みたいなカプセルに乗らないと生きていけなくなった星(で遂にはロボットに国を乗っ取られる)みたいなのあったけど
日本の女さん達もそうなりつつあるよな
やれ無痛分娩だの全自動食器洗い機だのやってたらどんどん生き物として欠陥品になって
そのうちハードな環境ゆえに頑強なアジア・アフリカ諸国の人々に追い抜かされるわ -
複数の説の場所があるなら全部行き来すれば丸く収まる?
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吉備に住むある法師は即身成仏になる前に美しい娘と知り合った
生きて埋葬されながら念仏の鐘の音が鳴り響くそれは55年続いた
掘り出された法師は「あの娘が気になって成仏できない」と呟いた
村で55年前の娘を探し出し法師と面会するや成仏したという
(宗像教授シリーズのどれか) -
王朝というのは簡単に移動できない
もし移動するなら婚姻しかない -
警固断層の先にある
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20世紀は畿内説が圧倒してたけど、今になって何でこれだけ九州説が持ち上げられることが多くなったんだろう?
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坂東さんはスーパーひとしくん
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足して2で割る、みたいな
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>>5
天照大御神=日御子 -
>藤井勝彦
>歴史歴史紀行作家・写真家
ただの素人の作文
5ちゃんの素人オジサンと同レベル -
天孫降臨の地が発展しないのはなぜだろう
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その筑後地方は約200年後に筑紫磐井が…
九州王朝説をバカにしてたけど意外とそうだったのかもな -
中国から倭(乞食の意)とか呼ばれてるジャップ土人の集落がどこにあろうが関係なくね?
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>>12
果たして圧倒してたのだろうか?寧ろ九州説の方が80年代くらいに大々的に取り上げられてたような、吉野ヶ里遺跡中心に -
終わりなき論争
もっとやれ -
住吉大社神代記に、住吉の神が、吾が名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊と名乗ったと書かれている
また神功皇后と密事があったとも書かれてあり、それは夫婦の密事であるとも書かれている
これは秘密でも何でもなく普通に知れ渡っていた事柄で、和歌山にも同じ伝承が残っている -
九州の吉野ヶ里遺跡は戦争で破れたような状況
これが邪馬台国なら、襲ってきた何かに吸収されたんじゃね -
九州説だと問題が出てくるだけで畿内説ならそのままなのでは
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>>25
不要になって環壕が埋められて 矢じりや刀傷受けたしたいも片付け忘れただけかもしれない
東遷に至るまでの文化的な進化が気になる
近畿の大和政権につながらないような
邪馬台国の中か、周辺から優れた渡来系のクニが生まれて東遷ということか -
中国の赤壁が数か所あるのと同じ
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お前ら卑弥呼は縄文人だったらしいぞ
つまりガッキー
ガッキー(未婚)が国を治めるなら喜んで崇拝するだろ? -
鉄を制したものが日本を制したわけで
やたら朝鮮と親交が深い大和政権が抑えてたんじゃないか 邪馬台国より
大和政権がどのようにして勢力を拡大したか起源の方が大分重要 -
つうか首都が東遷して行くのは日本史の常じゃん
九州から奈良に移って京都経由で東京へ
そもそも遷都しまくりだし -
>>32
仙台待ってまーす -
邪馬台国は「2つ」あったッ!
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>>15
天照大神が魏と交流して金印を授かったという記述はない -
ヒミコのいたヤマタイ国は九州じゃろ
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これいつかハッキリするの?
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卑弥呼スムニダ
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纏向遺跡が凄すぎてもう畿内で確定している
大和が狗奴国を倒して吸収し邪馬台国になった
神話の国譲りがこれを証明している
そして文化的な成長を経て大化の改新を行い日本国が誕生した -
神武東征は日本国を征服するつもりでは無くて北部九州の倭人とは異民族を征服・服従させる
のが目的だったが結果的には神武の跡を継いだ大和政権が日本支配を果たしたと言う事に
なる。畿内にいた異民族支配はその第一歩 -
邪馬台国は九州にあった
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>>40
何の根拠もない -
>>27
気持ち悪 -
>>43
皮肉なんだろ、わかってやれよ -
むしろまつろう民ってなんやろ
ユダヤ人かな? -
仲哀天皇って見るとなんだか同情を禁じ得ない気持ちになる
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宮内庁潰して古墳調査しろ
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妄想は止めなさい
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大昔の歴史って知りようなくない?
権利者にとって都合のいい歴史しか残らないじゃん -
権力者
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特に、ほぼおなじ年代に、同じ皇帝の命で編纂した
『梁書』倭人伝(629年完成)と
『隋書』倭国伝(636年完成)の差が
興味深い
『梁書』倭人伝(629年完成)では
【南朝梁(502年から557年)の時代に】
邪馬臺国に行くには、
帯方郡から 一支国-末廬国-伊都国ー奴国-不弥国-投馬国を経て邪馬臺国
となっているのに、
そのあとすぐに完成した 『隋書』倭国伝(636年完成)では
【南朝梁(502年から557年)の時代から、わずか24年後の】 隋(581年 - 618年)の時代に日本の都邪靡堆、すなわち、魏志の言うところの邪馬臺に行くには、
帯方郡から都斯麻国ー一支国-竹斯国-秦王国-十余国を経て難波津と
なっている
これは、
一支国から末廬国に上陸すると
伊都国、奴国、不弥国、投馬国の4ヶ国で大和朝廷までたどり着くが
一支国から竹斯国に上陸すると
-秦王国、十余国を経て、大和朝廷までたどり着く
ということである -
>>50
そのための考古学 -
>>48
勘違いしてる人が多いけど発掘調査は基本的にやらないもんだからね
発掘は不可逆的な破壊を遺跡に及ぼしてしまうからね
崩壊しそうだとか、何かの拍子に露出したとか、工事中に出てきたとかの時にだけやる
あとは街の遺跡とかのもともと埋まってて掘らないと分からない物とか
古墳は表面に多くの情報があるからムキになって掘るまでもなく色々な情報が読み取れる
そして「皇室の秘密が暴かれるから発掘しないんだ!」とかよく言われるけど、陰謀論者のアイドルの継体天皇の本当の古墳は発掘し放題だから
むしろ宮内庁が隠蔽するつもりならもっとまじめにやれという話w -
国津神と天津神
邪馬台国と大和朝廷
ヤマト王権とエミシ
先住民と渡来民の対立に分けるのが好きな人が多いが、正解はどちらも渡来人
第一次稲作 BC.1000~ 北部九州に分布 海洋性縄文人
(突帯文土器・夜臼式土器/海に近い中小河川の流れを利用した水田/極短小米、長江下流域の松澤・銭山㵪遺跡と同一品種/
一部環濠集落/竪穴住宅・松菊里型住宅/支石墓ドルメン/青銅剣・磨製石剣・磨製鏃/半農半漁/縄文形質)
唐津大友、糸島新町、早良有田等
第二次稲作 BC.600~ 第二次稲作 全国に分布 渡来系弥生人
(遠賀川式土器/山沿いに水路を設け、排水する高度な灌漑式水田稲作、平野部や河岸段丘で耕作可能/極短小米は消滅、
やや長い小粒米、山東半島の焦圧遺跡(徐福村に近い)と同一品種で全国に分布/環濠集落/高床式住宅/方形周溝墓など/青銅剣・鉄剣・鉄鏃・連弩/農耕中心/山東半島の人々に類似・渡来形質) -
初期渡来人が全国に拡散、コロニーを築いていた
関東は最も後進地域
BC.600 鳥取平野古海、愛知名古屋朝日
BC.500 愛知豊川樫王、奈良盆地唐古鍵、大阪平野田井中
BC.400 滋賀守山服部、兵庫神戸大開、岡山平野津島
BC.300 山口下関土井ヶ浜、佐賀平野吉野ヶ里、石川小松八日、岐阜高山立石、京都京丹後扇谷、青森三戸松石橋、青森津軽垂柳、埼玉熊谷池上
BC.200 秋田平野地蔵田、岩手奥州常盤広町、宮城仙台富沢、宮城名取十三塚、新潟柏崎下谷地、島根出雲荒神谷、
福岡平野金隈、佐賀平野安永田、長野盆地伊勢宮、山梨甲府盆地油田、福島いわき番匠地、静岡平野瀬名、静岡掛川長沢、神奈川小田原中里、神奈川横浜大塚歳勝土
BC.100 群馬富岡中高瀬観音山、鳥取妻木晩田、香川三豊紫雲出山、神奈川逗子池子 -
灌漑水耕稲作は近畿地方に伝わるのとほぼ同時に紀元前5世紀の津軽平野砂沢遺跡に伝わっている
紀元前後の東北では寒冷期を迎えており弥生遺跡自体多くないが、遠賀川式土器を持ち込んだ渡来集団が北東北から太平洋側を下るように西日本と同じ技術を駆使した集落を残している
https://i.imgur.com/KZV15CP.jpg
紀元前4世紀、後に纏向遺跡が出来る目と鼻の先にある奈良県最大の弥生遺跡
唐古・鍵遺跡の住人を復顔
https://www.town.taw.../34/fukuganmokei.jpg
顔は面長、扁平で渡来系弥生人の特徴を示している。
二階または三階建ての重層構造の建物。 -
東アジア、満州≒ツングースと朝鮮と中国と日本は遺伝的近似性が認められています
7700年前のロシアウラジオストク悪魔の門人骨は現代シベリア先住民、現代韓国人、現代日本人と同程度遺伝的近似性が認められた。
6300年前の韓国ジャンハン遺跡人骨は現代日本人と高い遺伝的近似性が認められた。
4500年前の韓国ヨクチド遺跡人骨は縄文人と高い遺伝的近似性が認められた。
PCAプロット 現在まで核ゲノム解析が完了している遺跡
https://i.imgur.com/2pvYrzN.jpg
7700年前 ロシアウラジオストク悪魔の門 C2b D4、D4m
6300年前 韓国ジャンハン・縄文20% D1a2a1 D4b1、D4b2
4500年前 韓国ヨクチド・縄文95% C1a1 M7a
2700年前 佐賀大友弥生・縄文100% M7a1a6
2600年前 韓国ソウル周辺テサン・縄文28% C2a-L1373
2600年前 愛知朝日弥生・縄文5% B4c1a1a1a、D4g1b
2200年前 福岡長井弥生・縄文100% M7a1a2
2200年前 熊本笹尾弥生・縄文100% M7a1a8
2100年前 福岡安徳台弥生・縄文20% B5b6、N9a、D4e、D4g、D5a
1900年前 長崎下本山弥生・縄文60% O M7a1a4、D4a1
1850年前 鳥取青谷上寺地弥生・縄文5~20% D1a2、C1a1、O1b2
M7a、M7b、M9a、N9a、N9b3、D4a、D4b2b1d、D4c、D4g、D5a、G1、B4、B5
1750年前 宮城梨木畑弥生・縄文15% D5b2、N9b1
1700年前 熊本大坪弥生・縄文52% D1a2a1c2、C1a1 M7a1a2、C5b1
1600年前 鹿児島上浅川古墳・縄文100% B4f、D4
1600年前 香川茶臼山古墳・縄文20% C1a1 D4m1
1600年前 韓国金海市大成洞古墳・縄文34% D1a2a1、O1b2a1a2a1b1 D4a1、D4e2a、D5a2a1a1、B4c1a1a1a、M10a1b、F1b1a1a1
1550年前 山形戸塚山古墳・縄文15% M7a1
1550年前 福島灰塚山古墳・縄文20% D41
1500年前 和歌山磯間古墳・縄文56% D1a2a、O1b2a1a1 M7a1a4a、M7a1b1、N9b1*、D4b2a2a1、D5b2
1500年前 宮崎立切古墳・縄文60% M7a1a2、M7a1a7、M8、N9b、D4b2、D4a2a、D4j3
1450年前 石川岩出古墳・縄文15% O2a2b B5a2a1b、D5c1a、M7b1a1a1
1400年前 関東古墳・縄文5~20% D1a2、O M7a1、D4b2、D4a2a、D4j3
1300年前 東京山王古墳・縄文10% M7c1a、M9a1a1a
1300年前 島根猪目古墳・縄文20% O1b2a1a1 M7a1a1a、D4b1a1a、D4g1、N9a2a1 -
卑弥呼の正体はやまたのおろちってハッキリ分かんだね
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日本史は逆に読むのが正解
神功皇后が攻め込んだとする新羅→辰韓から攻め込まれた卑弥呼の邪馬台国 -
土蜘蛛の女性酋長一覧置いとくぞ
卑弥呼乱立祭りやで
https://i.imgur.com/sjwZIgD.png
田油津媛(タブラツヒメ)山門郡瀬高大草・神功紀 多くの民を従え、兄の夏羽が妹を補佐している。先代女王葛築目と同様にヤマトに帰順しなかった為に殺されてしまった。年代的に卑弥呼没後の約100年後の女王とされる
宇津羅媛(ウヅラヒメ)山門郡長島宇津・景行紀
八女津媛(ヤメツヒメ)八女郡北矢部・景行紀
神夏磯媛(カムナツソヒメ)田川郡・景行紀 景行天皇に見初められヤマトに帰順したため国を奪われた。周防国(山口県)に美人が産まれない呪いをかけた逸話が有名。
速津媛(ハヤツヒメ)海部郡宮浦・豊後国風土記 碩田の国一帯を治める土蜘蛛女王で景行天皇に道案内をした。
五馬媛(イツマヒメ)日田郡五馬・豊後国風土記
比佐津媛(ヒサツヒメ)日田郡會所・豊後国風土記 -
弥生時代後期の倭国大乱が治まり卑弥呼女王が共立された時期は在来系土器主体に畿内人の影響を受けた筑前庄内式土器が少数混ざる、並行して奈良に纏向遺跡が存在する。
台与が女王になった時期から畿内式土器が半々、優勢になっていく。
畿内勢力が北九州勢力を侵食していく段階で卑弥呼は亡くなっている。 -
阿蘇谷周辺は現在でも日本有数のリモナイトの名産地で3世紀の鍛冶工房を含む鉄器・鉄滓が大量に集積出土し、住居の床敷きやあちこちに膨大な量の赤色顔料ベンガラ(鉄炭)が見つかっている
鉄鏃の防衛ラインと免田式土器の分布から菊池川以南は邪馬台国を追い詰めた強大な狗奴国と考えられる
卑弥呼時代のものは縄文構成要素が52%とアイヌに近い
免田式土器圏であり狗奴国でありのちの肥人であり熊襲である
5世紀中頃の熊本西潤野2号墳出土人骨 松下孝幸 分部哲秋 佐伯和信 土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム
立岡古墳群の西潤野2号墳、内部主体である組合式箱式石棺から保存状態の良好な人骨が出土した。
熟年の男性で、古墳時代(5世紀中頃)に属する。顔面頭蓋は完全である。眉上弓はやや隆起している。
鼻骨もやや隆起し、鼻根部は扁平ではない。顔面には著しい低・広顔傾向が認められる。
このような傾向は、熊本県の中央町の四十八塚古墳人、鹿本町の津袋古墳人および小路古墳人と同じ傾向である。
本例は南九州の山間部の古墳人や四十八塚古墳人、津袋古墳人と同じように顔面には著しい低・広顔傾向が認められ、
縄文人的特徴を残し、三角筋がよく発達した古墳人であったと考えられる。 -
熊本蔵城遺跡出土の近世人骨(18世紀) 松下孝幸 土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム
要約
頭型は男女とも長頭に傾いていた。
顔の高径は男女ともかなり低く、その傾向は低眼窩、低鼻部にも認められる。
顔示数も上顔示数からも、男女ともかなり低顔傾向であることがわかる。
鼻根部は狭く、鼻骨が鼻骨間縫合へ向けて高く隆起しており、
鼻が高く、いわゆる鼻筋が通ったもので、近世日本人骨としては極めて珍しい。
5号墓人骨(男性)
外後頭隆起の発達は良好である。
眉上弓の隆起は強い。鼻骨も鼻骨間縫合へ向けて隆起しており、
鼻が高く、鼻根部の様態は1号墓人骨(女性)に酷似している。
頭型は長頭型である。
大腿骨体の矢状径は大きく、柱状性が強いなど、縄文人的特徴が強い。
30号墓人骨(男性)
眉上弓の隆起はやや強い。鼻根部は狭く、鼻骨は鼻骨間縫合へ向けて隆起しており、
鼻が高く、鼻根部は、1号墓人骨(女性)、5号墓人骨(男性)、19号墓人骨(男性)および21号墓人骨(女性)
によく似ている。
かなりの低顔である。
熊本出水国府跡出土の近世人骨 松下真実・松下孝幸
眉上弓は強く隆起し、鼻骨は狭く、立ち上がっており、鼻が高い。
鼻根部には扁平性は認められない。
顔示数、上顔示数は低く広顔傾向が認められる。
眼窩示数は両側とも中眼窩に属している。 -
都城市歴史シンポジウム「古墳をつくった人々」令和2年3月【竹中正巳】
この都城盆地からえびのにかけての地域というのは、本土の縄文人みたいな感じ、多様な古墳がいっぱいありますけれど、
地下式横穴墓と箱式石棺墓から出てきている人骨から言うと、本土の縄文人に近い顔つき、体つきの人たちが古墳時代のこの地域の主な住民だと思います。
南九州にだけ認められる地下式横穴墓、地下式板石積石室墓、土坑墓・立石土坑墓があります。
地下式横穴墓は、竪穴を垂直に掘り込んだ後、横方向に水平に掘り広げて、墓室を造ったものです。
最も古いもので4世紀末頃の土器を出土するものがあり、5~6世紀に築造 の最盛期があり、7~8世紀頃まで存続して造られています。
地下式横穴墓からは非常に良好な遺存状態で古人骨が出土し、その数は宮崎県内で600体を超える。
これほど大量の古墳時代人骨資料が出土しているのは全国唯一であり、考古学のみならず人類学研究においても重要かつ不可欠な資料群と言えます。
https://i.imgur.com/VEpyZQS.png
古墳時代になっても九州と北海道だけは縄文人が生き残っていました。
https://i.imgur.com/s7eFjkR.jpg -
薩摩半島の成川遺跡(4世紀~8世紀末)では390体分に上る人骨が発見されているが、成人骨が多い・男性が多いという特徴がある。
装飾品は刀装具・刀子・やりがんななどがあり、蛇行剣・曲身剣が多く含まれるのは特異である。
人骨を調査した金関丈夫博士は「古墳時代でありながら、縄文時代人の様相に近い。北九州地方の渡来系弥生人とは非常に異なっている」
と述べているが、隼人を異人とした当時の記述と一致するものである。
南九州は、火山噴出物の厚く降り積もった土質で、水田に向いていなかったので、狩猟や漁撈と畑作を主な生業としていたと思われる。いわば自然の恵をもとめて、平穏に暮らしていたのである。
といっても既に、王子遺跡や釘田遺跡をはじめ、この地方の河川の流域等では、弥生時代から水稲耕作が行われていたことは明白で、狩猟や漁撈と畑作のみが行われていたということではない。
弥生後期200年の南九州の人口は六万五千人とされており、それは当時の日本列島の総人口六十万一千五百人の一〇%になり、全人口に占める割合は、他の時代と比べると驚く程高かった。
なお、当時の住居跡についての調査に依れば、その数からみて、南九州では古代の成立期から古墳前期にかけて人口は大幅に増加したものと考えられている。
いわば南九州の人々は当時の技術によってこの土質にふさわしい生活様式を生み出していたのであり、当時南九州の人々は、それなりに平穏な生活を満喫していたのである。
それ故に、人口も大幅に増加したのであった。(吉田町郷土史-鹿児島市) -
同じ日本人といっても、住む地域によって顔や体つきに多少の違いがあることは、
日常生活の中で多くの人が実感していることだろう。
・第1、第2判別関数による府県を単位集団とする比較(男性)
近畿→身長の割に肩幅が狭く、頭長の割に顔高が大きい。
南九州→身長や顔高に比べて肩幅や頭長が大きく、がっしりとしている。
(『日本人はるかな旅』多賀谷昭・長野県看護大学教授)
薩摩半島男女5.520名の指紋の各頻度から、同地方人はジャワ島インドネシア人の指紋の頻度を中心とする南方民族のそれに接近し、
而して同地方人は甑島東海岸人のそれに最も近似する。(鹿児島大学医学部法医学教室・三上芳雄教授)
https://i.imgur.com/LzIMnL7.png
二重まぶた率
日本列島29%
薩摩半島55%
沖縄本島82%
https://pbs.twimg.co.../EN9IRDRUcAAzlpC.jpg -
日本語方言において3極を成す発音要素とその要素が比較的濃い地域
https://i.imgur.com/ggXIkrL.png
A∶沖縄・太平洋側要素(縄文語)琉球・九州・アイヌ
B∶近畿・瀬戸内要素(シナ系言語)近畿・四国
C∶裏日本要素(ウラル語)東北・出雲
日本語方言において3極を成す発音要素とその要素が比較的濃い地域
A言語の分布と、HTLV-1キャリアの日本人分布が極めて近い様相を呈している
https://i.imgur.com/8XPsDX9.jpg -
当時の自称中央の国が書いた
臣下になった野蛮な国の紹介文程度の物にどんだけ真実が書いてあるのかねってところも勘案しないとな
朝貢に来た小国をその国の主としてるだけだし
その小国目線の一方的な話を主体にまとめただけだろよ -
水稲稲作栽培は2種類あるのを知らん奴がいるようだな、最初北部九州で始めたのは
種モミを直接水田に撒く直まき方で、200年ほど後に稲を植え替える現在の田植え法に
代わっている直まき栽培はイタリアやカリフォルニアで行われている -
どっちかが本店で片方が支店やろ
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北部九州の弥生時代の墓制は、縄文末期から弥生中期初頭までは長江中流域発祥の甕棺墓
だったが、その後は古墳時代を通して箱式石棺暮に変化している。箱式石棺は縄文末期の
関東地方に多い墓制、要するに関東の縄文人が地震や津波から逃れるために北部九州に
移動してきたと言う事になる。 -
ヤメの「八女」の漢字は後からの当て字なので深い意味はなく、当時はあくまで「ヤメ」という響きの名前であった。
「ヤメ」の音が何を意味していたのかを、類似する言葉から探ろうと思う。
よく似た言葉で「アメ」という言葉がある。
「アメ」とは雨・雪・雷・雲・夕焼けなど、天よりもたらされる気象、すなわち天神の啓示を示す。
「アマ」は気象を司る神がおわす場所、すなわち空そのものを示す。
のちに両方とも「天」の漢字が当てられており、同一語の語尾変化形であることがわかる。
現代では「雨(アメ)」と「天(アマ)」に漢字は分離されたが、
「雨漏り・雨宿り」のように後に続く文字によってはアメをアマとする読み方は残っている。
では「ヤメ」とは何か?
「ヤメ」とは地震・地割れ・地すべり・落石・雪崩など、地(ツチ)にもたらされる現象、すなわち地神の啓示を示し、
「ヤマ」とは大地を司る神がおわす場所、すなわち山のことを示す。
「ヤメ」と「ヤマ」は同一語の語尾変化形だった可能性が高く、現代に至るまでにヤメ読みが消失した可能性がある。
「ヤメツヒメ」は地(ツチ)の神であり山に住んでいることからも、「ヤマツヒメ」と呼んでも差支えなく、
ヤマト・ヤマトゥ・ヤマタイの由来はヤメツに集約されると言って過言ではない。
また、天に国境がない事は空を見上げると一目瞭然であり、あくまで国を統治するのは地(ツチ)の役目であった。 -
天神の啓示は必ずしも災害だけでなく、農作には雨が必要なので天の啓示は好ましい場合がある。
しかし地神の啓示は人間にとって災厄にしかならず、ヤメツヒメは邪悪な存在として忌み嫌われていたと思われる。
当時の政治は占いによるものだったため、呪術で災いを起こす悪魔として魔女狩りのように討伐されたのだろう。
なので移動はせず純粋に滅んだ可能性が高い。
ただ滅ぼした後にも地震や噴火が止まず、これは神罰だ祟りだ呪いだとして人々は恐れおののく結果になったはずだ。
大地の怒りを鎮めるため、人々は地名だけでも復元して敬いながら拡大させる事にした。
畿内に近づくにつれ地震が大幅に減少して噴火も無くなったので、ヤマトの名前だけがそのまま拡大していく形となった。
元ヤマタイ国は蜘蛛の扱いにされたが、蜘蛛は見たまま八岐(ヤマタ)であり
禍々しさとは裏腹に益虫であるし、蜘蛛は先祖の魂だと言われており、蜘蛛の殺生が罰当たりとされる事にも繋がる。
また妖怪変化でもなく神の扱いになっているのは、鎮魂と畏敬の念が強く込められているからである。 -
陽にむけて30センチのシリコンウエーハーを掲げると、そのまばゆい光輝きに
敵はおののき、一目散に逃げ去ったのでしたというような神話はない。 -
>>75
【本店】
イザナギとイザナミから生まれた大綿津見神(豊玉彦)
これが倭奴国の漢委奴国王の嫡流
王都は「筑紫城」
博多湾沿岸の福岡県春日市の須玖遺跡群(紀元前10世紀から紀元後3世紀中頃)
勢力範囲は、九州全域・山陰中国西部・四国南西部
壱岐ー対馬ー朝鮮半島南部西岸
https://i.imgur.com/6zl2XmA.png
【支店】
イザナギと根の堅州国(出雲)の女から生まれたアマテラス、ツクヨミ、スサノオ
これが倭奴国の漢委奴国王の傍流
王都は「高天原」親魏倭王の邪馬台国
奈良盆地の奈良県桜井市の纒向遺跡群
勢力範囲は、畿内全域、山陰中国東部・四国北東部、出雲・北陸・・中京
隠岐ー磯竹島ー朝鮮半島南部東岸
https://i.imgur.com/Qx0UGe7.png -
記紀は、天皇家にまつろった家の伝記も天皇家の歴史に組み込んだらしいから歴史書としては信頼性に欠ける。
-
今でいうとパリからモスクワに遷都するみたいなものでありえないな
-
>>79
ゲルマン人の大移動 -
【本店】
イザナギとイザナミから生まれた大綿津見神(豊玉彦)
これが倭奴国の漢委奴国王の嫡流
王都は「筑紫城」
博多湾沿岸の福岡県春日市の須玖遺跡群(紀元前10世紀から紀元後3世紀中頃)
勢力範囲は、九州全域・山陰中国西部・四国南西部
壱岐ー対馬ー朝鮮半島南部西岸
https://i.imgur.com/6zl2XmA.png
【支店】
イザナギと根の堅州国(出雲)の女から生まれたアマテラス、ツクヨミ、スサノオ
これが倭奴国の漢委奴国王の傍流
王都は「高天原」親魏倭王の邪馬台国
奈良盆地の奈良県桜井市の纒向遺跡群
勢力範囲は、畿内全域(邪馬台国)、山陰中国東部(出雲)、四国北東部、北陸、信越、中京
隠岐ー磯竹島ー朝鮮半島南部東岸
https://i.imgur.com/Qx0UGe7.png
魏志倭人伝
倭女王卑弥呼は狗奴国男王、卑弥弓呼素と和せず
旧唐書
倭国は古の倭奴国である
日本国は倭国の別種である
新唐書
日本は古の倭奴国である。
彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城に存在していた。彦瀲の子の神武が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んでその地を治めた -
>>75
奴国博多において、畿内第V様式土器→庄内式土器→布留式土器が出ている。
布留式段階では元々の在来の土器や楽浪土器が消え始める。
さらに、王墓にもこの土器が供される状況となる。
これは日本の中でも奴国博多にしか見られず、奴国博多は完全に畿内化、もしくは畿内の飛び地になったことを意味する。 -
先ず倭人字磚によって170~184年に
倭国大乱が曹氏の墓作り職人レベルで
リアルタイムで情報が共有されてた事が確定。
この時代に大和に戦乱の痕跡がないので、
倭国大乱は九州である事が確定。
170~184年に大和の勢力が
九州まで支配を及ぼしていた痕跡が無く、
戦乱によって大和で王が排除された可能性もない。
従って戦乱によって女王が協立された邪馬台国は九州一択になる。 -
>>82
つまり今まで言ってきた、物の交流もない。というのは間違いだったと? -
邪馬台国と大和朝廷は全く別だろ
邪馬台国は九州 -
>>85
物の交流がないと言ってるのは素人だけでしょう -
また魏志倭人伝によって、
邪馬台国は倭国大乱の70~80年前に
男王が設立したと明記されており、
邪馬台国建国は西暦100年頃と確定しており、
100年頃に倭国で設立された国と言えば、
奴国を制圧し漢に朝貢した倭面土国となる。 -
>>87
それが今までは通説だったがな -
奴国は卑弥呼の時代に王が居ない国で、
一大卒によって支配された状態になっており、
この状態になった、奴国が他国によって支配された状態とは、
倭面土国王帥升が、
107年に奴国を差し置いて朝貢した107年になる。 -
おはよう、そして新スレありがとう。
>>82
日本においてはiPhoneが出ている。iPhone段階ではもともとの
i-Modeケータイが消え始める。
これは世界の中でも日本にしか見られず、日本は完全にアメリカ化、
もしくはアメリカの植民地になったことを意味する。 -
考古学的にも、
須玖岡本遺跡の甕棺墓に豪華な埋葬品が伴う甕棺墓3期に対して、
甕棺墓4期では奴国に以前の王墓が突如として見られなくなり、
変わって比恵那珂遺跡に大量の銅剣が出土するようになる。
第4期の甕棺墓自体は奴国以外の地域(主に佐賀平野)で認められるようになり、
コレが奴国が倭面土国=邪馬台国によって支配され、
一大卒を置かれて監視された状態を示しており、
一大卒が置かれた場所が比恵那珂遺跡という事になる。
もちろん比恵那珂遺跡に大量の銅剣を持って一大卒を置いた勢力が大和は有りえず、
王墓が急速に発展した佐賀平野付近の勢力が倭面土国=邪馬台国という事になる。 -
まつろわぬ民の意味
朝廷に逆らう勢力として「古事記」に登場する荒らぶる神やまつろわぬ人々の姿を追究し、鬼、妖怪、山人、山伏、巫女、遊女、傀儡子、忍者など、天皇を頂点とする表の世界の外に位置していたアウトサイダーのこと
このスレは邪馬台国とは関係がない身分が最下層で
異端の人たちだった「まつろわぬ民」と邪馬台国をくっつけ
邪馬台国を貶める悪意あるスレッドです -
>>54
発掘は文化財の保存行為だぞ -
また奴国の領域を山門八女の勢力が支配する状態は、
磐井の乱まで続いており、
磐井の乱によって6世紀に初めて、
大和朝廷が糟屋を屯倉にして支配する事になり、
3世紀中期に大和の勢力が
奴国に一大卒を置いて監視した状態など
有り得ない事が確定している。
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