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頼朝・義経の「スゴい兄」 500騎をわずか17騎で蹴散らした猛者・悪源太(義平)とは? [きつねうどん★]
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源氏一門の中でも、とびっきりの猛者としてその名が語られたのが、源義平(みなもとのよしひら)である。平治の乱に敗れて首をはねられるも、亡霊となって恨みを晴らしたとか。いったい、どのような人物だったのだろうか?
■叔父を討ち取った猛々しい武士・悪源太(義平)
源頼朝の兄の一人に、「悪源太」(あくげんた)と呼ばれた猛者がいたことをご存じだろうか? 父は河内源氏6代目棟梁の源義朝(よしとも)、母は橋本の遊女(三浦義明の娘とも)で、頼朝や義経の異母兄にあたる、源義平(よしひら)という人物である。
ただし、「悪」と名付けられているのもの、特段、悪人だったわけではない。当時、「勇ましい」の意を込めて、そう呼ばれただけであった。15歳の頃、父・義朝が弟の義賢(よしかた)と仲違いして戦った(大蔵合戦)際、義平が果敢にも叔父である義賢を討ち取ったところから、そう呼ばれたのである。
それでも、その猛々しさは格別で、並居る源氏の猛者たちの中でも、特筆すべき存在として語られることが多いようだ。
■500騎をわずか17騎で蹴散らした
その一例が、平治の乱(1159年)における平重盛との戦いぶりだろう。重盛率いる500騎を、義平率いるわずか17騎で追い回して蹴散らしたというのだから恐れ入る。
義平が騎兵ともども、500騎もの多勢のど真ん中に飛び込んで暴れまわったというのだ。主従3騎となって逃げ惑う重盛。これをあと一歩というところまで追い詰めながらも、残念ながら逃してしまったとか。
そんな義平らの活躍ぶりにもかかわらず、結局、義朝率いる源氏方は敗北。父・義朝は尾張へと逃げ延びたものの、臣下に裏切られて惨殺。頼朝も捕まえられて流罪となったことは、よく知られるところである。この時、長男の義平は飛騨国にまで逃げのびたものの、父の死を知って京に舞い戻ってきた。
■首を刎ねられる際にわめいた「雷電となってお前を殺す」が現実に
父の無念を晴らさんと、六波羅周辺をうろついて、清盛暗殺の機会を伺っていたのである。それでも警備が厳しく、手出しできないまま逢坂山に潜んでいたところを敵兵300騎に襲われてしまう。この時はかろうじて逃げ延びることができたが、石山寺に潜伏していたところでついに捕縛。六波羅へと連行されて首をはねられてしまったのである。
六条河原で処刑される際、首を斬ろうとする難波三郎経房(難波次郎とも)に語った言葉が印象的であった。「来世では閻魔となるか雷電となって、清盛ばかりかお前も蹴り殺してやる!」とほざいたとか。
しかしこの言葉、実はその8年後に本当のことになってしまった。三郎が摂津国の布引の滝の見物に来ていた際、空がにわかに曇り、辰巳の方角から魂のようなものが飛んで来たと思いきや、突如、三郎の頭上に雷が落ちて、焼け死んでしまったからである。
これが本当に悪源太の亡霊の仕業かどうかは定かではないが、偶然にしては、あまりにもできすぎている。その後、家臣の小代氏が、義平の屋敷跡に御霊神社(埼玉県東松山市正代)建てて、彼の霊を祀ったとか。
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役者絵「悪源太義平の霊」(歌川国貞/東京都立図書館所蔵) - コメントを投稿する
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■女になりすまし、妖怪退治も
ちなみにこの御仁、妖怪退治の名将としても名を馳せたことがあった。それが伝えられるのが、岐阜県下呂市金山町である。かつてその地にあった祖師野村で、毎年村祭りの日に、狒々(ひひ/猿の妖怪)に人身御供として若い女性を捧げるという習わしがあったという。
村人からこの狒々の退治を頼まれた義平は、女になりすまして待ち伏せた。その夜、何者かが近づいてくる気配を察した義平。すかさず、腰に帯びていた太刀でサッと斬りつけるや、大きな狒々が血だるまになって山中へと逃げていった。
血の跡をたどって岩屋の洞窟にたどり着き、そこで狒々を仕留めて無事退治に成功。この時使用した愛刀・祖師野丸は、村人たちが源氏の再興を願って創立したとされる祖師野八幡宮に保管されているとか。
ともあれ、武勇の誉れ高い悪源太義平。その御仁が20歳にも満たないうちに亡くなってしまったというのが、何とも悔やまれるのである。もし彼が生きていれば、平家の滅亡、及び源氏の再興がもっと早く実現しただろうに…と思えてならないのだ。
https://www.rekishijin.com/41427 -
初めて知ったわカッコいいな
この人の創作物とかないのかね
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