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日本史
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遼史に「日本国王府」が出る
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遼は南面官と北面官という政治組織を持っている。日本国王府は北面官に属している。日本に、北面の武士という軍事組織名がある。この驚くべき名前の一致は、白河が日本国王府の長であったことを示している。
遼史大安7年の朝貢を密貿易事件として処罰した事件は白河と朝廷の二重権力構造をしめした。白河が上だった。後世、院政と名付けられた。
白河は京の外で活動拠点を持った。岡崎の法勝寺、鳥羽離宮である。院の近臣をはじめとする貴族から雑人に至るまで,鳥羽殿周辺に宅地が与えられ,「あたかも都遷の如し」といわれた。朝廷を干上がらせようとしたのだろう。
北面の武士は、日本国王府が日本国を統治するための軍事組織。各地に配置され、源氏・平家になった。日本が急に武家社会に移行していった原因である。
遼の日本国王府設置は日本列島を制圧する意図があった。地政学的に、日本列島の北部は豆満江を通じて支配する方がたやすい。豆満江の女真大王府の下部組織として、奥州藤原があったと思われる。奥州藤原の十七万騎は遼の女真族の王府の北面官だろう。
日本を遼の異なる府が分割して支配していたことになろう。王府間の争いは遼王朝が許さないだろうから、奥州藤原は日本国王府に軍事的な介入はしない。奥州藤原が独自に北方貿易(北宋)をしていたことも、平泉が平安京に次ぐ人口を抱えていたことも二つの王府で説明できる。
遼が亡び(1125)、取り残された日本国王府の武士団が、保元平治の乱、源平合戦を起こした。勝った源氏はすでに金王朝に属していた奥州藤原を滅ぼしたことになる。奥州藤原が逃げた先は十三湊で金王朝に頼ろうとした可能性がある。
詳しくは「国際的視点からの古代史考」の「付録」を参照。
https://sites.google.com/view/jhistory - コメントを投稿する
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パヨク研究者に騙されるな
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正二位権中納言(大宰権帥を兼務)藤原伊房が職権を利用して遼と私貿易を行い、従二位に降格の上停職された。
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源氏は新羅だが
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最初から、奥州藤原は北方の民族とにらみをつけていた。
平等院も北方の民族の臭いがしていた。鳳凰を意識するのは高句麗など満州の民だからだ。
筋書きが解らなかったが、遼史の日本国王府ですべてがつながった。自然な解決だ。 -
六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、老年期に多く見られる、一種の精神障害。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化した言動を繰り返す。
簡単に言えば、「俺様偉い病」、「俺の意見は正論病」である。
現役時には社会に適合してゆくために自己の相対化に努めていたが、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。 -
六拾弐病より、日本国王府の存在を認めない者の病名を考えろ。
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高句麗時代から日本の東北って、沿海州の一部じゃないのか?
王朝が高句麗→渤海→遼と代わっただけで -
>>8
一撃で済むだろうに? 万策尽きたの? -
>>10
墓の形式の違いもあり、北部はもともと遊牧系の別民族だろうと思う。
どんな勢力が沿海州から入ってきているのかそれは誰かやってください。
現状、奥州藤原でおわり日本南部のものになった。
気候変動などで南部支配が弱まったりすれば、また東北は復活すると思う。 -
山陰北陸ももともと高句麗くさいからな
途中から新羅になったようだが -
遼の支配が日本に及んでいたってマジか?
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>>14
反日教育で洗脳されたチョンコロ坊やの願望だよ。 -
白河院政は遼の日本国王府だったのか?
遼史に書いてあるのなら検討の余地はあるかな -
>>14
後から歴史家が綴るから、歴史家の著作を使っても、当時の実態はわからない。
遼史の日本国王府の存在は事実。その解釈の問題。
支配にも、軍事支配、宗教支配、経済支配、色々手段があるから、
「日本国王府の存在=支配=制圧された」とはいえまい。 -
今なら中国史書の検索はできるから、日本国王府を知っていなけりゃ歴史家じゃない。
昔、知らなかったか、ばれないと思ったかで、院政を考えて、今まで踏襲してきた?。 -
いずれにしても、事実と違うから、捏造。こ、れ、が、日本史。
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契丹遣使事件
『中右記』寛治六年九月一三日条に、契丹に渡った商人僧明範(遼史にみえる僧応範は明範の誤記)が、左衛府において検
非違使等の勘聞をうけたことがみえる。
ここにおいて明範は、「件明範越立趣契丹国、経数月帰朝、所随身之宝貨多」・「僧明範多以兵具売却金銀」と記されている。
翌寛治七年(一O九三)年になると、二月一九日には、拷訊を受けていた明範が、前権帥藤原伊房の使として契丹に渡ったこ
とを自白し、五月二五日になってやっと、法家の勘状にしたがい、前権帥藤原伊房は正二位より一階を降して従二位とし、同
時に中納言職をとどむること、前対馬守藤原敦輔は従五位下の位記をとどむること等の処分が決定された。 -
契丹古伝とかあったな
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遣使してきた国は属国扱いということなんだろうな
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BAIDU歴史辞典
「国王府」
「遼北面屬國官署。用以統治於?屬國。
《遼史・百官志》:“遼制,屬國、屬部官,大者擬王封,小者准部使,命其酋長與契丹人區別而用,恩威兼制。”」
遼北の属国官署これをもって属国を治める。
「遼史・百官志」:「遼制、属国、属部官、大者擬王封、小者準部使、その首長を契丹人と区別して使うよう命じる。恩威兼制。」 -
平安貴族の糞なめはシャーマニズムから。
シャーマン政治の歴史書ね。理性的歴史学の史料にはなりえない。今もシャーマニズム。 -
>>1
反日教育で洗脳されたチョンコロ坊やの願望 -
北面や北府は北極の天子を護衛する軍隊のこと
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>>28はシャーマンの言いなりになってよるwww
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>>26
属国日本の酋長は誰?、契丹人は誰? -
チョンコに歴史はむりぽ
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「命其酋長與契丹人區別而用,恩威兼制」は
「酋長にそのまま支配させ、契丹人が飴と鞭でそれを包摂せよ」てなてな解釈でいかが? -
日本は遼の臣下だったのか…
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「現地政治の機構改革や人事は、酋長に介入することになる」
「無いものを付加することは介入にはならない」
鴨東の開発で新たな寺院の建設、
八角九重の遼のシンボルタワー、
鳥羽離宮の開発、
土地を与えて支配者層を自由に移動させる(都遷しのごとし)、
北面の武士団の創設、
白河のこれらの行動は、既存政治に全く関与していないと読めるなぁ。 -
平たく言えば、「なし崩し政策」=知らぬ間に既存政治秩序が新たな力で変わってしまう
これを後に院政と呼んだ。てなてな具合。 -
他の西面、滝口の武士は何なんだ?
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遼代仏教については、華厳を中心としつつ、法相・密教・浄土・禅・律・
『釈摩訶衍論』(『釈論』と略称)など幅広く行われていたことが知られている
藤原清衡の金銀字一切経には華厳経が含まれている。 -
時代が違う
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>>38
全ては解明できない -
宗教を政治と切り離して、文化と捉えてしまうのは間違い。
宗教視点からの政治というのが盲点になっているのではないか。特に遼関連では。 -
頼朝政権が院政から自立したり、奥州藤原氏を滅ぼしたのは北方騎馬民族王朝からの独立戦争?
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奥州藤原氏が日本を支配してたのか
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>>43
遼は1125年に終了して北面の武士団の立場が変わった。
源平は遼残党の内部抗争ではないか。
奥州は女真族系で、金王朝下になっているだろう。
頼朝は遼の残党、金の奥州藤原を駆逐したと思えるのだが。
この時期の院の采配を遼終焉と金勃興の背景から読んでみるのも面白いのではないか。 -
遼史にはっきり載ってるだけで、高句麗時代から
ずっと属国だったんじゃないのか? -
日本は渤海にも14回も遣使してる
遼はその渤海の後釜だから遣使を続けたんだろう -
高句麗時代からずっと朝貢国だった可能性が
高いね
高句麗→渤海→遼と王朝がコロコロ変わってる
だけで
遼が日本を攻めたとか聞いたことないから -
貢ぎ物を持ってくる国は属国扱いするんだろうな
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遼は993年に高麗に攻め込んで臣属させてる。
さて日本列島まで手を伸ばさなかったのかどうか -
林さんの多くはその頃移住して来た人だな
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遼史に記事のある朝貢は3回
本紀第二/太祖耶律阿保機 下/天賛四年(925年)
冬十月丁卯,唐以滅梁來告,即遣使報聘。庚辰,日本國來貢。辛巳,高麗國來貢。
本紀第二十五/道宗 耶律洪基 五/大安七年(1091年)
九月丙申,還上京。己亥,日本國遣鄭元、鄭心及僧應範等二十八人來貢。
<注:日本國遣鄭元鄭心及僧應範等二十八人來貢 應範,在 日本古籍如百練抄等?作明範。此似>
本紀第二十五/道宗 耶律洪基 五/大安八年(1092年)
九月乙巳,駐蹕藕絲淀。丁未,日本國遣使來貢。 -
>>55
後2回については密貿易として罰したことになっている。 -
Wikipediaでは遼との国交はなかったとしている。
これは日本の歴史学会の公式見解?。 -
日本史の研究者は唐への臣従も曖昧にしたがるからな。まして契丹だの遼だのに朝貢臣従していたなんて口が裂けても言えないだろう。
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学会にまでシャーマニズムの現実逃避が浸透しているのだな
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遼と朝廷との国交はなかったんだろ
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朝廷を温存したまま契丹人が入り込んで既存体制にないものを付加した。
鴨東の白河や鳥羽離宮は平安京の外、北面の武士団ももとはなかったものだ。
白河になってこれだけの拡張をした。
朝廷が朝貢を認めなくとも、契丹人の行き来はあったと考えるべきだろうな。
だから支配というより、包摂という概念がぴったりだ。 -
包摂????
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そういや寛仁3年(1019年)3月28日の刀伊の入寇があったな
沿海州に住む刀伊(とい)の船団およそ50隻(1隻あたりの乗船人数は約50人)が対馬・壱岐の両島を襲撃
女真族だけど、当時は遼の支配下にあった -
>>62
既存のもの(朝廷)をより大きな新しい社会(契丹人)の一部と考える…包摂 -
>>65
遼史「命其酋長與契丹人區別而用,恩威兼制」から温存と考えた。
朝廷の支配は近畿だけはありうる。
北面の武士は源氏姓や平家性が多い。源氏平家が天皇血筋は創作?。
契丹人達が地方に配備されて、源氏・平家になったとみるが、いかが?。 -
日本側の史料に契丹人の痕跡がほとんどないのがネックだな。
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何が残ってるの?
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源氏が新羅って新羅三郎からか?
兄に八幡太郎と賀茂二郎がいる
昔、新羅神社ってのがありそこで元服したときに神社の名前を貰ったのが始まり -
神社だか仏閣だかよく分からんがな
身元引受人として京都の公家なんかが務めた
元服した寺社か神社の名前をもらい一代限りの苗字とした
だからその子供は苗字を継がないの -
地元に新田氏なんかだったら自前の新田神社を作った
自分の領地の中にな
子供らがその神社で元服するから代々、苗字を引き継いだ
分家したらもちろんその連中らも苗字とする名前の神社を創建する -
それがなければ苗字は継げない
あるいは神社を放棄した場合は苗字を継がない -
徳川氏だってわざわざ徳川神社を作った
じゃなきゃ苗字継げないからな -
賀茂だから賀茂氏じゃないぞ
元服したとこの名前をもらい一代限りの苗字とする
だから賀茂氏の一族じゃないの -
まだ自前の神社持ってないときは元服する場所を借りたの
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で、日本国内の契丹人の痕跡は?
契丹神社も契丹寺もないよね。 -
苗字を継ぐための元服場所として神社を作りそこに代々の系譜だのを収めた
元服して初めて苗字を継ぐ -
契丹て東北人らが大陸との交易やったときの交易相手として名前がでる
つまり互いに商売取り引きの間柄 -
契丹から馬を購入しただの日本から何かを輸出しただのな
おそらく船が行き来してたんだろ -
結局、日本が契丹=遼に支配されたとか、白河院政が遼の日本国王府というのは与太話か。
経済交流や文化交流くらいあるだろうが、それを拡大解釈するのはいただけない。 -
だからマルコポーロにしろ契丹人らから日本の情報が西洋に初めて伝わったって言われてるだ
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この時が西洋における日本の名前が出た初めての所見
日本じゃあ金箔を貼る建造物、つまり寺院なんかでも金箔張りの建築物が作られているだ
それを見た連中らが黄金の国だの誇大誇張したんだろなとな -
てより契丹人らは商売関係においては大陸との窓口だもんよ
かなり大陸の情報も契丹通してはいったろ -
支那が沿海州放棄したわな
あの地域がまるごと旧契丹国領だよ -
日本国王府は遼史のホラ話ってことだな。
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>>81
「いただけない」は主観。逝ってよし。 -
>>86
中国史書に属すものは一応客観的事実と受けとめる気がないようだな。
邪魔をしようとしているのだww
では、遼史「命其酋長與契丹人區別而用,恩威兼制」を解釈してごらん。
私は属国を包摂せよという意味に捉える。白河の
・鴨東の開発で新たな寺院の建設、
・八角九重の遼のシンボルタワー、
・鳥羽離宮の開発、
・土地を与えて支配者層を自由に移動させる(都遷しのごとし)、
・北面の武士団の創設、
等、これらの行動は、既存政治に関与しないでおこうと読めるがのうwww -
白河は天皇だった?
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白河の
・鴨東の開発で新たな寺院の建設、
・八角九重の遼のシンボルタワー、
・鳥羽離宮の開発、
・土地を与えて支配者層を自由に移動させる(都遷しのごとし)、
・北面の武士団の創設、
等の行動はそれまでの朝廷の行動と違う。日本国王府の存在を知れば日本国王府の行動と断ぜざるを得ない。
ならば、白河は後三条の皇子となっているのは偽りとなる。
偽りでないなら、天皇がなぜ、上皇となり平安京に縛られない行動をしたのか説明しなければならない。
また、武士の世界に移行し、朝廷が自らの存在を損なう理由を作ったことも説明しなければならない。
その説明より、おそらく日本国王府の「命其酋長與契丹人區別而用,恩威兼制」に基づいた行動とみる方が説得力があるだろう。
また、北面の武士軍事集団が遼終焉にともない、統制を失って勢力を得た説明の方が説得力がある。 -
>>90は根拠を示すべきだが・・・
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白河がそんなこと許可出したんか?
かなりおかしい話だでよそれ -
なら白河が国内に遼のやつらを招き入れていたって話だよな
そのころ院政時代やっけ? -
>>69
例えば八角九重の塔の遺跡 -
中国史を事実として捉えるなんざこちらもやらんよ
それを見て検分させてもらうのが当たり前だ -
南宋からは高麗に寄ってから日本に寄港する
これが公式ルートやぞ -
契丹は裏ルートだろ(╹◡╹)
表に出る話じゃないぞ -
そゆのがもし南宋あたりにバレたら向こうで敵国と通商していたのか!(^○^)って話になり貿易取り引き停止
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白河院政が日本国王府ってことは、京都朝廷は遼の皇帝に臣下の礼をとっていたことになる。
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