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日本史
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石田光成って、結局正しかったじゃん [無断転載禁止]©2ch.net
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石田光成の予見してたこと、結局少しも間違っていなかったじゃん。
実際に徳川家康は豊臣家を滅ぼしたし、天下を乗っ取る腹積もりだったし、
豊臣に仕えるような気なんざ更々無かったし、自分の幕府開いたじゃん。
何一つ間違ってない。全く以って正当な警戒感だったじゃん。
加藤清正(笑)福島正則(笑)口だけ忠義心かよwwww
その場のノリで口だけで忠義示すなら、バカでも出来るわ脳筋wwwww
セリフと行動を違えるなやカス - コメントを投稿する
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6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり -
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co....ift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった -
三成です。人の名前は間違えないようにしましょう。
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石田三成の末裔は弘前藩で家老となった。
毛利長州藩新政府下で、
津軽家が瞬間的に奥羽旗頭となり東北統一したのは、
関ヶ原パート2 -
セリフと行動を違えるなやカス
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西から毛利
北東から津軽(石田)と佐竹
第二次関ヶ原挟撃体制は完成した
戦略の時点で
関東地方の幕府軍は負けたのだ -
これはお前が間違っていると指摘して貰いたい斜め上を行った>>1なんだろう
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三成の読みはまあ当たっていたと思うが、猛将だった福島や加藤は、官僚である三成が
天下を支配することに我慢ができなかったんだろうと思う。それが彼らを家康に走らせたと。
信長は天下統一の前に光秀が邪魔になってひどい扱いをしたし、秀吉も武功のあった福島や
加藤より三成を重用した。徳川家も勇猛第一と言われた本多正勝を房総半島の大多喜などと
いうどうでもいい所に封じ込めたし、平和な時代が訪れると武将は邪魔にされるのが歴史の
法則らしい。徳川幕府で采配を振るったのは御三家でも軍功のあった功臣の子孫でもなく、
松平伊豆守や柳沢吉保や田沼意次のような側近たちで、これによって将軍専制政治が成り
立っていたんだろう。
こう考えると福島や加藤は石田が天下を取れば豊臣政権が続いても自分たちは邪魔にされる
だけと考えていたのかもしれず、それなら家康陣営に入った方が得策だと思ったのかもしれない。 -
>>9
× 本多正勝 ○ 本多忠勝 -
>>10
前者って、元・朝日新聞の記者だっけ? -
それはホンカツ、本多勝一だろw
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先見性があってもそれを信用してくれる人望がなかった
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のぼうの城で石田三成はブンシャカ
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勝つべくして勝ったなんてのは歴史にありがちな説明だけど
後付け説明も甚だしい
まぁ歴史そのものが後付け説明の体系なんだからそりゃそうなんだが。
実際にはどっちが勝ったかなんてのは勝負がつく直前までわからない。 -
豊臣秀長が気に入ってたらしい
藤堂高吉を大和大納言家を相続させていたら、
藤堂高虎もたぶん陣替えしないので、
徳川家康と良い勝負になったかもしれない。 -
>>16
だから三成に人望がないっていうなら三成より人望がある人物をあげてみろよ -
三成の人望がーなんていってるのは司馬遼太郎()に毒された馬鹿だけ
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人望はないよ
清正も黒田も東軍についたし秀頼を担ぎ上げれなかったし
戦も下手だから西軍は負けるべくして負けた -
人望がなくても勝つことある
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三成が挙兵しなければ家康も将軍になるだけの権威を持てなかったと思うんですけど(小声
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スレタイの人物の名前すらまともに書けない>>1は相手にしてはいけない
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>>21
三成>>>>野良猫>清正くらいの差はありそうだが? -
秀吉が信長の死後、信長の孫の三法師を擁立しながら結局自分が天下人になったのを見て、
他の大名も「主君をないがしろにして」と思っただろう。どの道秀吉が実権を握ることに
なるのは明らかだが、形だけでも織田家を尊重するという態度を示さなかった。これで家康は
「豊臣に忠義を尽くさなくても先例がある」ということで天下取りに邁進したのかもしれない。
三成は豊臣家に忠義を尽くしたつもりだが、「これこそが正義」という説得力が意外に弱かった
のかもしれない。三成自身が武将ではなく官僚だったこともマイナスに作用しただろう。 -
三成も織田家への忠義を前面に立てればよかったんじゃね?
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関ヶ原時点で生き残っていた人って、織田信雄が一族一番の有力者?
なんか野心もカリスマ性も何もないと思うよ。 -
秀頼を担ぎ出せなかった三成の力の無さ
天下を奪えるチャンスが巡ってきたのに家臣団をまとめ上げれなかった毛利輝元の能力の無さ
せっかく主筋が天下取れるチャンスに家康に内応する吉川広家の空気の読め無さ
これが西軍の敗因
ついでに言えばちゃんと豊臣秀次がクーデター成功させて淀と秀頼排斥してれば徳川に政権奪われる事も無かった -
>>31
秀次はクーデターを起こす気などなかった。秀次事件は、石田三成と
増田長盛が秀吉、淀君と組んで嵌めた。(その割には、秀次の義兄の
池田輝政の排斥に失敗するなど、お粗末だったと思うがね。せっかく
家康ごと連座させる準備をしておきながら)
三成の最大の失敗は、淀君に裏切られたことではないだろうか。三成の
腹心の立花宗茂が大阪で籠城した時に切り捨てられたのがそれを物語って
いる。 -
もう一つ、三成の誤算は秀次事件後の処理の失敗にある。秀次事件で
三成は秀次の義兄の池田輝政を族滅し、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊
(すべて秀次派)を改易し、4大名の所領を乗っ取り、家康を自ら抑える
予定だった。あわよくば家康も減俸し、上野に大谷吉継を置く予定だった。 -
まだ三成と淀君の結託を信じている昭和脳がいるのかw
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>>34
その点では秀次は甘かったと言えるだろうね。ある意味、真面目で善良な
性格だったから、嵌めやすかったんだろうね。
その反面、人望はあったようで、秀次派の池田輝政、浅野幸長、田中吉晴、堀尾吉晴、
中村一氏、山内一豊らは石田三成に徹底的に復讐しているし、池田輝政、浅野幸長に
至っては関ケ原後に秀次の妻子の弔いの儀式をやっている。(これは秀頼に対する
露骨な宣戦布告だが、それを承知でやっている。ちなみに、弔う対象に池田輝政の
妹(秀次の正室)もいた。) -
>>28
>三成も織田家への忠義を前面に立てればよかったんじゃね?
三成は織田家には何の恩義もないよ。三成の誤算は関ヶ原で淀君が明確に
三成を支持しなかったことだろうな。淀君はどっちが勝っても秀頼の地位は
脅かされないという甘い考えがあったのだろう。 -
秀次派から見て
数少ない生き残った秀次の娘の末裔や秀勝の娘の末裔には
やはり特殊な感情あったのだろうか
女系も含めると皮肉なことに秀吉系統よりはるかに長持ちしてるんだよな -
お江はお市と信長の血が流れてるしずる賢いのも当然。
茶々を処理したのもお江。 -
>>40
お前、頭は確かか? w -
西軍はせっかく秀信中納言を味方にしていたので
関ヶ原本線に総大将織田秀信で望めばブランド的に勝てたか
淀殿が我儘した場合は岐阜幕府による大坂の陣が始まる可能性もゼロではないけどな -
「正しかった」と「勝てたはず」はちょっと区別して議論しないと
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石田が正しく勝つとすれば
加藤清正には要望通りに大和一カ国条件で西軍に付かせ
優柔不断な増田は他に引っ越し
あと
鹿児島県3州を条件で
島津義弘の代わりに伊集院忠真が関ヶ原本戦に来てたら
暴れてくれたな
伊集院を薩州太守とし島津は改易 -
>>43
権力の正統性から言えば多分、関白>>>征夷大将軍なんだろうな。だから
関白を実力で倒すというのは天皇に対する反逆ということも言えそう。だが、
この頃の天皇は世俗権力とは無縁の称号授与機関みたいなものだから、豊臣VS
徳川の争いには一切関与しないという立場だったに違いない。だから家康は
これを武家同士の覇権争いに過ぎないことを天皇家に認識させておけば関白を
抹殺しても幕府には影響ないことがわかっていた。淀君の失敗は関白>>>
征夷大将軍は揺るがないと思っていたことなのかもしれない。 -
淀が先手を取り
建武政府のように将軍位を複数作ればよかった
鎮守府大将軍 上杉
征夷大将軍 徳川
征西大将軍 毛利
左近衛大将 前田
右近衛大将 宇喜多 -
頼朝の例を見ると近衛大将と大将軍は違うみたいだからなあ
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宇喜多秀家は北政所の養子
小早川秀秋の実の兄弟(北政所の甥)は一人を除いて全員西軍参加
北政所の側近孝蔵主の一族は上杉軍に参加
三成の三女は北政所の養女
他にも北政所が西軍寄りだったことを白川さんという研究家がガッチリあげてるよ
逆に淀が三成と組んでいた証拠なんてどこにもないんだよね -
征夷大将軍は源氏以外はダメというルールがあったのかな。源氏→鎌倉将軍(傀儡)
→足利家とこのポジションが受け継がれたわけだが、鎌倉将軍(傀儡)は源氏の系列
だったわけ? 徳川は源氏の系列ということになっているけど。秀吉はそもそも武士
の出身じゃなかったから源氏ではあり得ず、征夷大将軍にはなれなかったと。
それで無理やり関白の座を強奪したんだろうが、これは本来藤原一門のものだから
秀吉一代限りにしてもらわないと困るというのが藤原一門の立場だったはず。しかし、
秀吉は当然これは豊臣家の世襲職にするつもりだっただろう。だが、これが無理筋で
あることに頭脳明晰な石田三成が気がつかぬはずがないのに、豊臣家に忠義立てした
のはなぜか。三成も秀吉、そして信長同様、心底天皇や藤原氏をバカにしていて、
実力のある者が天下を治めるのは当然と思っていたんだと思う。家康も基本的には
そうだが、表面上は天皇家をないがしろにすることは避けたと。家康の天下平定後、
北条氏と武田氏とでその処遇にかなり差があるのは、武田は鎌倉時代からの守護大名
だったのに対し、北条は早雲が一代で築いた成り上がりだったという違いだろう。
忠臣蔵で有名な吉良家も足利一門だから、家康の旧家尊重は筋金入りだと思う。 -
>家康の天下平定後、北条氏と武田氏とでその処遇にかなり差がある
これを痛感するのは、小田原の北条五代の墓の小さいこと。しかも、5代の墓が
並列されていること。実物を見て驚いた。これに対し、武田勝頼は甲州市にある
景徳院という寺に夫婦で埋葬されている。北条に対する徳川の粗末な扱いには驚く。 -
>>51
本家本元の田村麻呂は源氏どころか帰化人だけどん。 -
つまり源氏が帰化人という事か
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秀吉だって主家筋の織田を戦国大名としては滅ぼしたじゃねえか まあ家康とちがって一族みな殺しってわけじゃないけども
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>>54
源氏は皇統だろ。 -
>>57へー、家康も秀吉の親戚をみな殺しにしたわけじゃないのか、勉強になります
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6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり -
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co....ift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった -
家康の北条への対応は関東を支配していたって言うのもあるだろ、て言うか、そんなに雑にされたとは思わないけど
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>>61
木下家は江戸時代を通じて豊臣氏じゃなかった? -
>>55
>秀吉だって主家筋の織田を戦国大名としては滅ぼしたじゃねえか
えっ? 意味不明だなw 「戦国大名としては滅ぼした」って何?
群馬に5万石の小藩として織田家は生き残ったけどな。武田や北条とは違うだろ。 -
織田は小大名と高家と旗本と御家人で残った。
高家肝煎として、
前田分家に教育担当するも斬られた。
これで前田分家は幕府より取り潰しとなった。(所領は加賀藩に温情返還)
↑
赤穂事件より早い例たぶん。
まぁ織田一族庶流は一応は池田氏が西国将軍なので、
勝ち組として残ったほうだろう。
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家康は豊臣家を滅ぼす意思は関ヶ原の段階では持っていない
それどころか慶長15年の大坂夏の陣の直前まで持っていない -
徳川さんの下克上先への処遇
吉良 高家筆頭
今川 高家
織田 国持ち小大名
豊臣 小大名
同盟相手
北条 小大名 たまに小田原留守居役
喜連川 御所様まろ
穴山 水戸藩に吸収
柴田・佐々・滝川 旗本
福島 大名改易後 旗本
温情かけてるほうじゃねw
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徳川は関が原で大勝利ってわけじゃなかったからしかたないね
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>徳川は関が原で大勝利ってわけじゃなかった
えっ? えっ? えっ? たった1日で終わった戦いが大勝利ではない?
どういう頭の持ち主なんだ www -
要するに秀忠が遅参したから兵数を補う上で、福島正則らの活躍を許す事になり、戦後に彼らへの大幅な加増をせねばならなくなったって事では
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つーか誰かスレタイに突っ込んでやれよ
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突っ込みどころが多過ぎて俺にはできん
皆も敢えてスルーしてるでしょ明らかに -
>>1は売れない芸人でもやってんだろ
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ただの基地外
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>>70
徳川家にとっての完全な勝利ではなくね? -
秀忠軍が到着して徳川のほぼ単独勝利だったら
家康はその後易姓革命狙った可能性もあるだろうな -
戦国サバイバー
滝川雄利の進言通りに東軍につくべきだった岐阜中納言。
なぜか北陸で西軍についた前内大臣信雄。
秀吉に領土削られながらも領土削られながらも、
豊臣秀頼の側衆でいた織田信包。
方向音痴すぎたか?
織田一族で最もプロサバイバーは本能寺から関ヶ原も大坂の陣でも間違わない織田有楽だったというオチ。
真田より凄い。 -
>>79
は?易姓革命?あほ? -
なぜかというより西軍っておおかた付和雷同的に成り行きで参加したのが多いけどな
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東軍豊臣譜代は家康を江戸から引っ張り出すために必死で戦果を挙げるしかないし
家康も江戸から出るには戦況の打開が必要だし秀忠の遅参って全体的にはそれほど誤算とは思わないな
家康もストレスMaxの戦争当時はおかんむりだったけどその後に秀忠にその件で当たった様子はない -
>当時の豊臣系東軍諸将は自分等が主役で
それはないだろ。加藤も福島も秀吉に取り立てられた成り上がりだから、
よほどの偉業を成し遂げなければカリスマ性は生じない。秀吉が戦国大名
じゃないのに天下人になれたのは誰もが驚くほどの速さで光秀を討ったから。
これで「この男、タダものじゃない」というカリスマ性が生まれた。結局
秀吉の部下にはカリスマ性を持つ者はいなかった。だからこそ三成も自分は
大老にはなれず、その下の奉行として秀頼を立てつつ大老・家康に対抗する
しかなかった。本来は信長の死で他の戦国大名に大きなチャンスが生まれた
はずだが、秀吉がスゴ過ぎたので次の天下人候補は豊臣政権での大老の中から
選ばれることになったわけ。その中で結局他を大きくリードしたのが家康だった
わけで、奉行にすらなれなかった加藤や福島が天下人の座を狙うのは到底無理 w -
大老ってのは秀吉から見てもともと自分の部下でも何でもない同格の戦国大名だぞ。
子飼いの三成が大老になるはずないだろ。
奉行は行政の能力を必要とされる部門であって加藤や福島の出る幕はない。
お前さんいろいろと勘違いしているようだな。 -
>>86
天下人は加藤、福島にとっては秀頼だろw
そういう話じゃなくて、「石田を排除するのに徳川を味方にできてラッキー」という感覚だった、ということ。
藤堂あたりは頭いいから家康に天下を取らせるつもりだろうが。 -
>>87
こうも言える。
徳川は独立大名だから豊臣家の内紛は放っておいて、
江戸に引きこもっても倫理的に問題なかった。
実際にしばらく引きこもったし。
福島あたりの感覚では、それを自分等が無理に担ぎ出してやった、
というところかと。 -
豊臣家の内紛……なんのことだろう?
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ありえないけど、
毛利が関ヶ原で大活躍して将軍になったら
結局は豊臣家を滅ぼしてたんだろうな -
石田敗北後
何か理由を付け福島正則が毛利輝元を担いで徳川軍と再戦したら面白かったな
黒田・福島・徳川・伊達でベスト4決勝戦
(上杉・島津は腰重いので様子見) -
前田も何かやらかす?
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前田ってシズガ岳でも日和見していたんだよな。関ヶ原の時はもう死ぬ間際だったけど。
どっちにしろ天下人の器じゃない。 -
賤ヶ岳
関ヶ原
大坂の陣
戊辰戦争
巨大な領土を持ちながらも
上手に気配を消して生き残る術 -
>>90
関ヶ原なんてのは最初は三成のクーデター。
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