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日本史
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江戸時代の庶民文化について詳しい人来てください [無断転載禁止]©2ch.net
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江戸だけじゃなく地方の庶民の暮らしについてしりたい
江戸文化に関するおすすめの本とかあったら教えてください!!! - コメントを投稿する
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江戸なら中公新書「馬琴一家の江戸暮らし」
瀧澤家は武家の出身(馬琴祖父は松平伊豆守信綱の重臣。馬琴父は祖父時代より待遇が悪くなりながらも、信綱分家の財政を立て直した功労者)で、息子嫁は藩医の娘という良いとこのお嬢様だから、正確には庶民てわけでもないが
植物関係なら平凡社「江戸のガーデニング」 -
流行りものについて書いてあるものなら
岩波書店「江戸名物評判記集成」
地方の記録なら鈴木牧之「北越雪譜」を読むといい
こんなことがあったという話を集めたものなら「兎園小説」
考証随筆集なら「眈奇漫録」
この二つは日本随筆大成に収録されている -
>>4
おお…どれも面白そうですし、地方の様子やらを知るのに良さそうですね!ありがとうございます!! -
『百姓の主張―訴訟と和解の江戸時代』
これ面白かった -
江戸時代は90%個人事業主だったため、
現代人にありがちな就職や転職の悩みは当然ない。
組織のなかで行動する上で避けられない
嫌な上司や同僚もいなかった(武士は宮仕えだったろうが)
国民総雇用化の現代では
自分の労働=会社と経営者の利益を生み出すための時間で
夜遅く家路についた時やっと自分の好きにできる時間が始まるわけだけど
江戸時代の農民は
自分の労働=自分のための時間だったため、
もともと休日とか余暇という概念など存在せず
誰も指図する人間などなく自分のペースで働け、
好きな様に休んだりサボったり仕事ができたわけだ
また江戸時代は皆婚社会で、
現代ではコミュ障とかアスペとか
馬鹿にされるような男でも結婚ができた
地域の共同体が個人を手取り足取り導いてくれていたから
どこが暗黒時代なのか。
誰も彼も企業組織の奴隷となるために個性を捨て去れられ
労働ロボットとして
余暇もなく結婚もできず自己疎外させられている現代よりは幸福な時代だろ。 -
棒手振りとかには上司もへったくれもないが、
商家とかはあるだろ、番頭と丁稚とか
農民も自由じゃないぞ、田植えとかいっせいに行うのが普通。
若者組と庄屋などの対立も庄屋日記に出てくる。
助郷の調整とかもあるから何でも自由じゃない。 -
別に無制限の自由があったと主張したいのではない
永遠に土地に縛り付けられ相互監視されていた恐るべき村落共同体は
実は個人の裁量性が高く、自由な時間も多く
集団に埋没することなく個々の顔が見えていた側面があるという逆説だよ。 -
貧乏なりの工夫はあった。それなりに行き倒れも多かったけど
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長屋は壁も薄かったから、自然と空気を読む能力が発達したと聞くな
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戦乱が原因で余った女性がヒステリックにならないという保証はない。
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ブラタモリでお伊勢参りやってたけど、江戸時代の庶民って、結構豊かだよね
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江戸徳川幕府が270年近く続いたのも、年貢=税金が安かったからと言われている
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50%
安すぎる!!!!!!
北欧も真っ青ブヨ!!! -
>>14
伊勢参りは現在でいえば香港旅行とかハワイ旅行とかの感覚だったそうだが、そのおかげで大変なことにもなったぞ
出発して早々に体調不良になり、今回は無理そうだからまた次の機会にと家に引き返そうとするも、同行者が
「私一人でも行きます!」
と具合の悪い人をその場に放置してすたすた進んで行ったりな
ある歴史的有名人の家族の事例 -
農村から都市部に人口が著しく流出し、
長屋という不衛生な環境で密集して暮らしていた。
田舎から出てきた小汚い農民の多くは個人商店を経営することは到底叶わず、
丁稚という奴隷制のもとでこき使われていた。
江戸時代の農村の牧歌的で自主独立の生き方はすでにそこにはない
厳格な身分制度が存在し、農民なんぞただの米製造装置としかみなされおらず
ただなんとなくムカつくというだけで
いきなり武士に切りつけられたりするのも町人・農民の日常だった -
武家が百姓・町人を斬り捨てた場合、その後どういう事になるんだろう
取り調べは、処分は? -
アメリカでは白人武士が黒人町人を切り捨て御免状態
立証責任は黒人町民。
アメリカも刀狩と明治維新が必要ということか。 -
黒人は財産だからちゃんと弁償しないといけないんだぞ
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手討、打捨には、無礼という名誉侵害の回復、正当防衛の要素があった
・斬ったあとは速やかに役所に届け出ること
・自宅謹慎のこと
・証拠品の押収に応ずること
・無礼行為を立証する証人も必要
証人がいないなど、手討として認定されない場合、処分を受けることとなる
最悪、斬首刑
家は取り潰し
そのため、本人謹慎中に家人・郎党は証人を血眼になって探すが、見通しが立たない場合、沙汰を待たずして切腹する者が絶えなかった
手討にしようとして相手に逃げられたりするのも不名誉として処罰対象であった -
226 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2016/07/30(土) 11:00:34.34 ID:2YYzQieA
江戸が栄えたのは徳川家康のお陰だから、関東人は家康に感謝しろよ。
戦国時代の政の中心は京だが、江戸なんて、湿地帯だらけのクソ田舎で、作物もロクに取れなかった
徳川250万石の力を弱めるために秀吉は土壌資源の乏しい江戸に転封させた。 -
「日本」という国号は、畿内を中心とした大和朝廷を指す国号として成立した。本来、「日本」とは畿内の政権のことを指し、「日本人」とは近畿を中心とした西日本の人々「大和民族」を意味した。
東の地(関東・東北)の人々は 吾妻 蝦夷と呼ぶ日本の外に居る被差別民。
従って現在の東日本の人々は「蝦夷」の子孫であり、正しくは「日本人」ではない。
※あるいは、大和朝廷の政策により東京関東に朝鮮半島からの奴隷・棄民等を入植させており
東京人「朝鮮人奴隷の子孫」と言える。
666年 百済人2000人を東国に移す
716年 高麗人1799人を武蔵國に移す
758年 新羅人74人を武蔵国に移す
760年 新羅人131人を武蔵国に移すetc
近畿及び西日本の人々は大和朝廷の「大和民族」の子孫であり、真の「日本人」である。
正史「日本書紀」に記されているように、日本人は単一民族ではなく「大和民族」と「朝鮮奴隷、蝦夷などのその他」に分けられる。
以上のことは過去・現在・未来において不変。 -
そんなこと言わなくても遺伝子で明らかに大陸の落ちこぼれと判明しとるわい
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当時の食料事情はどうだったの?
時代劇とか見るとかなり少量粗食
おサムライは弁当におにぎり二個+竹の水筒
川で捕った焼き魚、野菜、うどん屋、団子屋
そんなもんかな…
イクサや切り逢いや旅で長距離歩くなら全然足らないでしょ… -
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 -
江戸時代は結婚するのは長男で次男は結婚できなかったって本当ですか?
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>>27
コメは主に炭水化物をエネルギー源とするものだが、植物性蛋白質もあることはあるし、玄米ならビタミン類もある
なかなかに栄養豊富なたべものだ
ただ、たんぱく、ビタミンまで摂ろうとするには大食しなければならん
ちょいと昔の人(戦前とか)にしても、おかずは貧相だが、コメは大量に食ってた -
>>30
次・三男が実家に居ついてニート化すれば結婚困難なのは昔も今も同じだろう
家を出て何らかの職につき所帯を持つのは今も昔も同じだろう
家柄のある武家の次・三男はつぶしが利かないのか、養子に出られなければ実家で「厄介叔父」としてニート化したが
大家族農家の次・三男で労働力として実家に残った者も似たような立場になっただろう -
>>27
例にあげている弁当は江戸時代の旅人を彷彿とさせるが、軍さを為すには携行食だけでなく、食料運搬、兵站、荷駄隊が大切だ
<陣中食に利用されたもの>
握り飯、餅、ちまき、馴れ寿司、煎餅、味噌玉、梅干し、鶏卵、干物、漬物、酒、焼酎、高野豆腐、いもがら、切り干し大根、、葛湯、ぜんざい、雑煮、すいとん、うどん、そうめん、獣肉、魚介、干し柿、野草、山菜、海藻‥ -
>>27
人間はおにぎり3個で1日仕事ができる燃費のいい生物みたいですよ -
江戸の町人の生活は豊かだったんだろうな
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時代劇ではそうなっている
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名主がお祝いでうどんやお餅を食べる
これがご馳走や、どや日本は凄いだろう -
風呂とか、そうそう入れなかったんだろ
乞食の人みたいに、すごい臭かったと思うよ -
>>38
御救い米があるで -
災害でもなけりゃ官の蔵は開きますまい
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奉公に上がりゃぁ、盆、正月の休みをくださるし、春分・秋分の彼岸にゃ墓参りにも行かせてくださる
年中無休じゃないんだから有難いこってぇ -
>>40
家に盲人が生まれたら税免除さらに金融業の許認可が貰えたぞ。 -
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 -
>>43
凄すぎるホルホル -
病気、災害、飢えの悲惨というのがある。前近代社会にはそれが付きまとう。
そして、進歩思想があまりない。例えば、遊女の性病が流行って悲惨になっても、
遊郭コミュニティは必死になってそれを解決しようとするけど、今の社会みたいに
政府や関係ない人まで動いて「チャリティ」精神まで発揮して遊女を救う、みたい
な事は相対的に無かったと思う。
18さんのいう様なことだけど、圧政的な部分(意図しての庶民虐待)と、技術的
な問題(感染症や不作に対処しにくい)、政治制度の前近代性、この3つは分けて
考えないといけない。
圧制の部分で言えば、ローカルレベル(今の○○市の規模)で変な支配者が現れたら
、それはどこまでも暗黒社会になっただろう。けど、別の場所では落語文化の様な
闊達なものがあったとは思う。
精神的には、現代のネットとかの方が腐って見えてしまうんだけど、どうなんだろうね。
それとも、今と似てて、年貢に怯えつつ部落ものの服装を揶揄って喜んでたりしたんだろうか。
さっき上げた3つの領域の問題は、今の社会は総合的に遥かに高レベルにある(はず)けど、
江戸時代庶民の暮らしに夢を見てしまう面がある。
今の世の中、意図して政治設計しよう、的な方向性が衰退していってる気がするし、そうなると
封建制度の方に近づくはずなんだが、未来の姿を占ううえでも、江戸期が左翼史観の方に
近いのか(意図的に抑圧されまくってた)、もしくは楽し気な農民て方が本当だったのか、
どちらがより多くの江戸庶民に近かったのか考えるのは面白い。 -
仕事がなくなって餓死しそうになったら、非人小屋にいけば飯と寝泊りができて、さらに職業訓練まで受けられた。
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127 : 名無しさん@お腹いっぱい。2013/03/29(金) 01:58:48.90 ID:pj6DgWSO
関東東北民は、日本人では無い、
下等民族アズマエビス
ソースは日本書紀 -
江戸時代でニートが出来たのは公家、大名、豪商、豪農の子息くらいだろ
百姓なら農作業に従事させられたし、武家なら家を追い出され浪人して他家に仕官した
障害児は産婆に絞められた、親が養えなければ寺に入れられ坊さんになった
人口の大多数を占める一般庶民にニートは飼う余裕はなかった
まともに働いてる人でさえ飢饉で餓死してたくらいだし -
まあ日本でも、明治になれば高等遊民と言う言葉が出てきたよね
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関東も東北の一部
ニダッペ訛りトーホグ土人w -
葛飾北斎
ガチの発達障害だな
たいへんそっけない返事をし、態度をとる人物であった。
人に会っても一礼もしたことがなく、ただ「こんにちは」「いや」とだけこたえ、一般的な時候・健康について長話をしなかった。
だれかから「いなかものだ」と言われるのを、ひそかに喜んでいた。
また、歩くときに常に呪文を唱えているので、知人に会っても気がつかないことがあった。
画工料が送られてきても包みを解かず、数えもせず机に放置しておく。米屋、薪屋が請求にくると包みのまま投げつけて渡した。
店は意外な金額なら着服するし、少なければ催促するという形であった。
片付けが出来ない性格で、家の中が散らかると引越しし、生涯で93回引越しした。酷い時は1日3回も引越ししている。??
訪問した人の証言では「北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。
娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた」という。
包装の竹皮や箱のまま食べては、ゴミをそのまま放置した。
土瓶と茶碗2,3はもっていたが、自分で茶を入れない。
一般に入れるべきとされた、女性である娘のお栄も入れない。
客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した。
9月下旬から4月上旬まではこたつにはいり続け、どんな人が訪れようとも画を書くときも、こたつを出ることはなく、疲れたら横の枕で寝るし目覚めたら画を描き続ける。
昼夜これを続けた。夜着の袖は無駄だから着ない。
こたつに入りつづけると炭火はのぼせるから炭団を使う。
布団にはしらみが大発生した。
放送できないわw -
歌舞伎あり落語あり、はたまた版画や小説あり。
江戸は都会だし文化水準も高かったんだね。 -
江戸時代の商家の旦那とか、
三十代四十代で剃髪する人がいるけど、
剃髪したからって、即隠居ってわけじゃないよね。
剃髪しても仕事を続けた人もいるみだいだけど、
剃髪ってどんな意味があったんですか? -
それで『倭猿』というのは?
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実際は『神倭』=『倭猿』
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それとは別系統だと書いてある
『王仁』『聖化 日霊 日神 津』などは? -
詳しい事は
知らないけど
王仁さんなどが生きていた、
当時の日本(不明)には、
ジンムがいたんでしょ、ジンム(神倭)の一族? -
江戸時代に大店の商家の嫡男に生まれて吉原通ってみたかったな
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神仏習合の実態を知りたければ御嶽教に入信することだ。
これが江戸時代以来の神仏習合の実態。
それをネット上ではカルト傾向があるとか毛嫌いする
いかにも戦後の左翼知識人ぽい書き込みを見るが、
そのメンタリティは神仏分離を進めた明治政府関係者のものと
まったく変わらない。
結局、実際の神仏習合、神仏混淆のその前時代性は
とくに左翼系知識人にはとうてい受け入れられるようなものではなく、
彼らは幕末から明治期の神仏分離政策を口では批判しているが、
実際には単に明治以来の流れを汲む現在の日本の保守的な思想文化を攻撃
したいがために利用しているだけであることがこれによってあきらかになった。
彼らの江戸時代礼賛も裏に政治的意図がある姑息な戦略であることに
注意して聞かねばならないだろう。 -
日本は夏蒸し暑い国なのに、なま水飲んでも大丈夫だったり、生魚や生卵食べたり案外衛生面のリスクが少ない国だったから、大都市江戸が成り立ったのだろうか?
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生水が飲めないのでお茶が発展した
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江戸の人たちは生水飲まなかったの?
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東日本人=縄文文化、日高見国、坂東武者、鎌倉武士、封建制度、三河武士、真の日本人
関西人=倭人(笑)、宮廷政治(笑)、荘園制度(笑)、韓国朝鮮人に類似する畿内人(笑)
徳川家康の神号を朝廷の1人が提示した案が面白い
・東照大権現
・日本大権現
日本(ヒノモト)は東国の勢力が日高見国、、、日ノ本と言っていたのを大和朝廷がパクったらしい。
伊達政宗を日ノ本一のナンチャラと称えますが、東北地方が日本(ヒノモト)王国だった事を念頭(奥州=日ノ本)のモノ?との説も。
世に東海道と称するは、伊勢国鈴鹿より初まり、奥羽・常州の界なこその関にて終るなり。
海内を日の本と号するも、この常陸国より称え初めしといえり。
常陸国東方の限りにて日立と書き、これによって日の本とも称せし名の、いつとなく海内に弘まりたるなり。
(東洋文庫『東遊雑記』古川古松軒/地理学者/岡山県出身)
剣豪の故郷として歴史上で先行するのが東国の地である。関八州は古来尚武の地であった。
武技の伝統は鎌倉、室町時代を通じて、この地に脈々と生き続けた。その脈絡の一つの中心となるのが、古来から軍神ととして崇敬された鹿島、香取の両神宮の鎮座する常総の地であった。
(思文閣出版『原田伴彦著作集1』原田伴彦/大阪市立大学名誉教授/佐賀県出身)
山背大兄王事件、大化改新、壬申の乱等一連の、政治的要因を等しうする事件において、天皇または皇子が旧来の豪族に対抗するときに、東国にそのより所を求め、
その兵力に頼らんとしていることは甚だ興味あることであって、それは大化前代の親衛軍の基礎が東国にあったことからきているのである。
(岩波現代文庫『日本古代内乱史論』北山茂夫/立命館大学教授/和歌山県出身)
帰化人たちは、そのほとんど全部が奈良盆地、大阪平野、京都盆地と、その周辺地域である播磨平野、紀ノ川流域、近江盆地あたりに根をおろしたといってよい。
この点はこののちずっと古代を通じてたいしてかわらない。
(吉川弘文館『古代の帰化人』関晃/歴史学者/熊本県出身)
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し、縄文人から最も離れている。
(朝日選書『日本人のきた道』池田次郎/京都大学名誉教授) -
生水飲めない地域は酒飲むしかない状況が生まれるから
下戸遺伝子なんて生き残れるはずが無い -
江戸時代の大相撲は江戸庶民も観ることできたのかな?
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日本史より謎な金儲けできる方法とか
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