-
日本史
-
戦国時代の始まり?享徳の乱について
-
UPLIFTで広告なしで体験しましょう!快適な閲覧ライフをお約束します!
かたれる奴はいるか - コメントを投稿する
-
足利成氏の生涯
鎌倉府から古賀符へ
より
両上杉氏が都鄙和睦を取り持つ条件で和睦したにもかかわらず
幕府に対する和睦交渉が遅れた上、道灌を中心に成氏方の長尾景春、千葉考胤への攻撃を継続し、成氏から虚言と批判されていた
成氏は上杉方の景春攻撃は内部問題として黙認しえたとしても、千葉自胤の復権と考胤打倒を口実に
下総への侵攻を認める(それを証明する確かな史料はない)ことはなく、道灌らの攻撃を迎え撃っている -
>>1
所謂戦国時代はごく粗雑に云うと以下の如く定義できる。
気候変動による「小氷期」とまで呼ばれる寒冷化並びに列島周辺のプレート運動活性化によるM7以上の大地震頻発という自然環境条件の下で、
従来の生産及びその収奪分配システムは破綻を来して壊滅的な飢饉が常態化するに至る。
室町幕府の「非実体権威依存型」「非在地型」「領域細分型」「複線複層型」統治システム(甲)はこの事態の前に全くの無力無能を晒す。
最終的にはこれを超克する「暴力担保型」「在地型」「一円領域型」「直轄一元型」統治システム(乙)が確立されて列島社会の再建が図られて行く。
この甲から乙へと至る激しい試行錯誤の社会運動を「戦国時代」と称する。
(続) -
(承前)
「享徳ノ乱」は上記工程の前半部分=甲の崩壊から乙のプロトタイプ提示までを極めて鮮明に且つ純度高く具現化したが故に戦国時代の開始を告げる事案と位置付けられる。
即ち、
甲の典型的且つ中核的な構成要素であった古河、山内、扇谷の三者が戦乱を通じて急激に乙の担い手=「戦国大名」へと変質して行ったことが事案の本質である。
当然ながら上三者配下に在る國衆等もこの工程に従った結果、
関東の社会構造全体が不可逆的/不可抗的に乙段階へ遷移しつつ周辺地域を巻き込んで行った。
社会構造の見地からすれば、
「応仁文明ノ乱」や「明応の政変」などよりも遙かに重大な歴史の画期であったと断じ得る所以である。
-
上杉一族が死にすぎな乱
-
話柄を少し変えて。
享徳ノ乱は利根川を接攘線とする関東の東西戦争でもあった。
上に云う気候変動とも相俟って利根川の「越河」を巡る逸話にも事欠かず、
それが戦況を左右した局面も少なくない。
否、それはむしろ順序が逆で、
戦争などというヒトの矮小な営為も所詮は自然環境条件に規定される所でしかないことを如実に示すと共に、
関東ならではの地域特性を表す事例として顕著なものであろう。
簗瀬大輔氏は『対決の東国史 小田原北条氏と越後上杉氏』に於いて両者の対決を解析する五つの座標軸の一つとして利根川の「越河」を設定しているが、
これを北條上杉の攻防に限らず関東の戦争の普遍要素と位置付けて、
「平将門vs平良兼」「源頼信vs平忠常」「源頼朝vs江戸重長」等の事例を前史として挙げている。
この視座からすると享徳ノ乱もまたこれらの列に加えるべきものと云える。更にこの切り口から解析していくことで、
単に戦国時代の軍政史という枠を遙かに超えた関東人の根源的行動論(むしろ生態論と云うべきか)としての意義を享徳ノ乱に与え得るように思われる。
-
>>6
慥かに庁鼻和性順、扇谷顕房、小山田藤朝、犬懸憲顕、扇谷政真等上杉一門の非運は目立つが、
それに限らず管領方も御所方も二十九年間に戦死を含めて激しく世代交代した。
乱勃発当初の主役たちが長尾景仲、扇谷持朝、上杉房定、武田信長、里見義実等永享ノ乱以来の古参であったことを改めて想起されたい。
乱終結時のビッグネームたち、山内顕定、扇谷定正、太田道灌、長尾景春、千葉孝胤等は当時ほんの若輩者かガキに過ぎなかったことを思うと目眩さえ覚える。
その中で殆ど唯一人、最初から最後まで戦闘的に戦い抜いた古河成氏の化物ぶりが際立っている。
床屋政談的な人物談義の好きなゲーム脳連中が何故この化物をもっと語らないのか、不思議でならない。
-
里見義実て実在したとみていいの?
稲村の変での歴史書き換えと系図書き換えで作られた架空人物だと言う説もあるそうだけど -
>>9
架空説も根強いな。
実在説の論者間でも出自については諸説紛々。
但し「古河成氏の意向により安房國に侵入して管領方勢力を掃討した里見某なる者」の物理的実在は争う余地が無い。
もちろん某の実名が義実であったか、その史実としての事蹟が軍記や系図の伝承と整合するか、と云うことはまた別の問題だ。
或いは里見某についても伊勢宗瑞の如くいつか実像解明の日が来るかもしれない。 -
最初から最後まで公方側についていたのはどの家だっけか
小山や宇都宮は途中で幕府側に転向したんだよね -
足利義教
「鎌倉府が反乱した。鎮圧して来い」
小笠原、斯波
「了解しました」
足利義政
「鎌倉府が反乱した。鎮圧して来い」
小笠原、斯波
「嫌です」 -
>>11
すぐ思い付く所では簗田、野田、一色、真里谷、そして議論の余地はあるが里見と云った辺りが一貫して御所方。
千葉は「人」に主体を置くと乱終盤の内訌から管領方に転じたと云えるが、「家」主体では御所方であり続けた。
むしろ最後は御所が千葉を切り捨てたわけだが。
-
千葉は和平には反対し続けたから御所とも手切れとなったという認識でいいか?
-
千葉は和平には反対し続けたから御所とも手切れとなったという認識でいいか?
-
幕府の力や権威が嘉吉の乱で義教が暗殺されてから落ちていたのだろうか
いくら動乱が各地の家にあったからと言っても
永享の乱では北欧の南部氏の出陣の形跡まであるのに
従ったのは越後の上杉と今川ぐらいとかなあ -
>>18
端的に云うと「それどころじゃねえんだよ後にしてくれよ」ってことだろう。
災害飢饉年表など調べてみるとよく解るんじゃないか。
「動乱が各地の家にあった」ことの、更にその根本原因がより深刻化していたからだと推測される。
時代は>>3に書いた惨状が標準仕様で在地はただ生きて行くことさえ困難な状況だった。
その上にヤレ永享ノ乱だソレ結城合戦だと駆り出されてヒトモノカネを搾り取られた大名群の各領国が荒廃を極めたことは想像に難くない。
それを早急に何とかしなきゃ大名権力体そのものが斃れる。
斃れても幕府が喰わせてくれる訳じゃ無いのに性懲りも無くまた動員とは正に「死ね」と云うに等しい。
ヤイこらヨシマサ黙って聞いてりゃ巫山戯た御託ばっかり並べやがってシゲウジだかゲジゲジだか知らねえがそんなに気に入らねえなら手前ェが行きゃァがれこちとら関東なんぞで遊んでられるほど暇なお兄ィさんたぁお兄ィさんが違うんでぃ篦棒メと、
関係者は尻を捲って啖呵の一つも切りたかったことだろう。
-
越後上杉家の越山はこの時代からあった
-
>>20
慥かにそれはそうなんだが。
享徳ノ乱で越山していたのは真正の越後上杉房定とその子定昌で、
永禄以後に越山したのは同じく越後上杉房定の子房能を弑殺した越後府内長尾為景の子である景虎だ。
とは云え景虎は山内上杉家督を継承したわけで、
しかし当時の山内上杉はまたしても越後上杉房定の子である顕定の入嗣によって実質的に越後上杉になっていた。
この殊更にわざとらしく錯綜した経緯にはクロフツの『樽』や鮎川哲也の『黒いトランク』の如き巧妙なトリックの存在が匂う。
うむ、何だかよく分からない。
-
初期の上杉勢の敗勢を覆して、講和の仲介となった上杉房定と
中盤古賀公方を圧倒して古賀を一時でも占領した長尾景信はもっと注目されるべき
太田道灌は長尾景春の乱鎮圧では目立ったが享徳の乱ではあくまで景信らの配下 -
>>13
桐生佐野氏は直臣なのに何故寝返ったの -
上条上杉とか能登畠山とか長尾臣下になっていったのは幸せだろうな
結城氏とかももはや家名の存続のみ願うようになっていった感がある -
>>22
戦争の表面的な経緯だけを追えばその見方も解らないではない。
しかし享徳ノ乱の構造的本質、即ち「権力構造の変革」に関して担った機能を考察すれば太田道灌家宰期扇谷権力体の画期性は疑いを容れない。
長尾景信は山内権力体の地域権力化についてはむしろ反動として機能したと思われる。
上杉房定や太田道灌と同列に論じられるものではないだろう。
-
https://www.nicovide...2930/mylist/61850486
この動画群 参考になる -
>>26
一本ざっと斜メに観てみたが…。
結局「誰某が〇〇の戦で何某に勝った負けた」レベルの話を羅列しているだけで、
そんなことは年表でも見れば書いてあるよとしか云えない。
何故その事案が発生したのか、結果として何が生まれたのか、
自然環条件・生産状況・社会関係・権力形態等と関連付けた構造的考察から本質を抽象する作業こそが肝要だろうに。
享徳ノ乱に始まる関東戦国前半期などはその恰好の題材なんだから、
折角一本20分以上ある動画を拵えるならそこまで踏み込んで頂きたかった。
-
>>23
桐生佐野大炊助直綱のことなら、
一般には先に管領方に寝返った近隣の岩松等からの激しい攻勢に堪えかねて…と云う。
しかし私見では、
文正元年(1466)という時期からみて寛正大飢饉の余波としての事案ではないかと考えている。
もともと享徳ノ乱に於いては各氏の内訌に御所vs管領の大構造を引き込む事例が頻発するが、
論外の大飢饉を受けて各氏の所有する社会資源の総量が年々縮減する中、
宗家と庶流の紛争は「ゼロサムゲーム未満」、つまり縮むパイを取り合う陰惨熾烈の度合を高めて行ったと推測される。
この生物学的危機の前に「直臣」なる共同幻想は平時の重味を喪失していたことだろう。
佐野氏一門にもこの波が及んだとは考えられないだろうか。
宗家が古河方を維持する状況で桐生は管領方に転じてその支援の下に一門のパイ全てを獲得せんとしたのではないか。
素人の想像ではあるが時代の一般原理に基づく考察は無意味ではないと思っている。
-
しかし佐野も実に解りづらい。
桐生の動向とは別に文明三年(1471)には室町将軍足利義政の調略を受けて宗家も管領方に変わったようだ。
但しその当主の実名が解らない。
そして翌年には早くも御所方に出戻ったがその経緯が解らない。
この間の宗家と桐生の関係が解らない。
「佐野伯耆守盛綱」なる名前は認められるが乱勃発の頃の驍勇「佐野伯耆守」「佐野宮内少輔」との関係が解らない。
しかも実名が盛綱である当主は時代を変えて複数いるから余計に解らない。
しっかり理解している賢者の教えを請いたい所だ。
-
黒田基樹氏によると享徳ノ乱から長享ノ乱に関わる時代の桐生佐野の当主は
直綱-重綱-助綱-直綱-重綱
一方、
同時代と見られる宗家佐野の当主は
盛綱-秀綱-泰綱-豊綱
…辺りのようだが盛綱の父或いは祖父に重綱があり、
江戸時代初期に直参旗本となった者に盛綱があると云う。
お前らやる気あんのかよ真面目にやれよと小一時間問い詰めたい。
-
享徳三年(1454)十二月二十七日、足利成氏による山内憲忠謀殺。
以後三十年に及ばんとする大乱の火蓋を切った一挙は、
これに接する同年十一月二十三日と十二月十日、二度にわたって関東を襲った大地震と津波に誘発されたものと謂われる。
寛正期(1460~1466)から文正期(1466~1467)に顕著な有力國衆の帰趨動揺は、
>>28に書いた如く寛正大飢饉によって規定されたものである蓋然性が想定される。
文明九年(1477)春先、
太田道灌は豪雨による多摩川氾濫で対長尾景春戦略の変更を強いられたが、
結果としてこれが道灌の神憑りとも云うべき驀進を生んで行くことになる。
同じく文明九年極月晦日、
最終決戦を期して上野國榛名山麓広馬場に対峙した両軍は前代未聞と称される豪雪に遭って交綏の余儀無きに至る。
これが事実上大乱の終焉を告げるものとなる。
>>4に書いた享徳ノ乱の社会的意義を別にしても、
節目々々に於ける上記事案群は享徳ノ乱が激甚自然現象によって不可抗に規定されていたことを示している。
正に激しい気候変動と地殻変動の時代を象徴する戦争だったように思えてならない。
-
雪による決戦→講和の流れは熱しやすく冷めやすい日本人ぽいとも思ったり
-
イフを考えてもしょうがないが鎌倉公方が関東をガッチリ平定して徳川家康みたいに大勢力として割拠できたのかどうか
大抵は継承戦争で弱体化していってるけれども
酷いときには親子間でさえ内紛起こしてるし -
桐生佐野の一門は小弓公方家に臣従して娘から豊臣秀吉側室を得て喜連川藩成立の礎になるんだな
子孫は喜連川藩家老となる -
>>34
享徳ノ乱を通じて古河は利根川左岸に根付いた地域権力として確立しかかっていたが、
当時の自然環境条件、生産技術、交通技術、経済状況、暴力装置の規模、…、等々から考えてその先の展望は開き難かったのではないか。
足利と徳川の間には百四十年の時間が横たわっている。
現代なら容易なことが明治前期にはどうだったかと云うことだろう。
-
>>36
もしイフを立てるとしても享徳の乱後では関東支配が限定的になり過ぎて無理なんだろうな -
関東抑えたとしても後継者争いの規模が大きくなるだけ
執権北条氏の争いや他氏排斥事件は標的の暗殺や急襲による
比較的小規模で短期間の戦いで終わってたが
足利氏の内紛は長期化、大規模化しやすい -
>>38
そういう次元の話じゃないんだが…。
戦争は「構造」だ。
長期化・大規模化するならそこにそれだけの構造があると云うことであって北條だの足利だのは識別記号に過ぎない。
また後継争いの内訌だとか御所管領の権力闘争だとかも事案の末端形状でしかない。
享徳ノ乱はその構造が見える恰好の事例なのに、
軍記レベルで思考停止してしまうのは実に勿体ない。
-
内乱が大体の原因と思うな
領土紛争も継承争いも内乱の一種かなと
やっぱ江戸幕府の強制力は凄かった
紛争全部強制力で治めてくれる
江戸幕府自らが継承争いしてたら260年も平和は続かなかったろうな
しかし足利義政期は将軍自体の継承争いは無かった
なのに強制力は弱かったね 斯波氏も言うこと聞かないし
年少だったからか義教暗殺の余波なのか -
室町幕府は京都の将軍の権威=統治力という体制だったからな
足利義教のような強い人物が将軍で無ければ統治力が失われてしまう
これは韓国や中国といった中央集権体制を整えた国々からみたら丸で政府の体をなしていない -
>>40
ではその「内乱」が何故あれほど長期にわたって頻発したのか、と。
享徳ノ乱だけでも三十年。
ヒトが生物である以上は余程の理由が無ければそんなに自らの個体生命と遺伝子を断絶の危険に曝し続けたりはしない。
そこが根本だろう。
-
国民はルールが恣意的(不平等)と見なせば言うことを聞かなくなって紛争の解決を国に委ねず個々にやりだす
室町時代はおそらくは国のトップの将軍(あるいは管領などのナンバー2)がそう見えたので戦乱が続いたのだと思うわ -
1番恣意的に見えるのは国のトップが継承争いをすることで、南北朝の先例や将軍自身の継承戦争、管領、諸勢力の継承戦争については片方に肩入れし成功すればひっくり返せる
-
斯波家一つを見るだけで二つの派閥が片方優勢にはなるがある時期を越えるともう片方が優勢になるを繰り返している
劣勢でもいつか勝てると思ってたら諦めない
状況がコロコロ変わり戦乱が終わらないわけだ
これは細川家、将軍家にも言える
鎌倉公方家も相手を関東管領に変えたり身内に変えたりして続けている -
>>44-46
「歴史」を議論するに就いて、人為を人為だけの閉鎖系として事足れりとする人々が多い。
この事実は所謂「歴史教育」なるモノが何処かどうしようもなく間違っていることの証拠だろう。
表面に顕れた具象をその根本要因から切断して論ずることに自足するうちは、如何に詳細に語ろうとも物事の表皮をガリガリ引っ搔いて空回りしているだけだ。
享徳ノ乱やこれに継起する戦国争乱は、「事象の構造」を考察するに当たって馬鹿馬鹿しいほど解り易いケーススタディを提供してくれる。
ゲームを中断して/youtubeを停止して/漫画を閉じて、
世界史、気象災害史、地震史、工業技術史、社会構造論、共同幻想論等を繙くことを奨める。
-
地形的に大陸は別語族が入りやすく戦乱が絶えない
江戸時代が平和はだったのは島嶼化のお陰
では何故室町期はそうでなかったのか -
>>49
> 地形的に大陸は別語族が入りやすく戦乱が絶えない
当たっているようにも思われるが、
唐の盛期や「パクス・モンゴリカ」をどうみるか。
> 江戸時代が平和はだったのは島嶼化のお陰
> では何故室町期はそうでなかったのか
島嶼(列島)と云う地理条件は正に貴論の通りだと考える。
その他に平和を担保するものは;
・堅実な生産状況
・強大な暴力
の二つだろう。
室町期の生産の惨状については繰り返すまでもない。
少なくとも江戸期半ば以後は気候も緩和に向かう。
更にこの間には「堆肥」及び「水車」の普及と云う農業生産技術革命があった。
加えて、>>43氏の云う如く江戸幕府と室町幕府とでは暴力装置の規模も技術も異次元と云うべき隔絶がある。
-
気候説も要因の一因にはなろうが、
「災害が起きるのは政治が悪い」という心理的な要因も大きいと思う
要は経済力の低下とロイヤリティの低下が同時に起こると言うこと -
「出家」と「部屋住み」については、意味的に「廃嫡」と「スペア」ということになるから「還俗」制も制度としては未熟となるだろうか
これと「2重任命」も戦乱の要因だろうな -
幼主の場合は重臣同士で争いがおきやすい
三人そろえば派閥ができるというように
派閥同士で争ってしまう -
派閥で勝ったほうが主家を操れるし重臣が幼君の叔父などの一門ならば上手くいけば下剋上できるしな
代わりに家宰家は幼君では務まらないから最年長者相続制で持ち回ったりしてるな -
軍事面でのメルクマールとなった
文明三年から四年(1471~1472)にかけての古河争奪。
管領方は敵の本拠地を攻落占拠するという大戦果を上げながら僅か八箇月で御所方による奪還を許している。
詳細経緯は史料不足で不明とのことだが本当に不可解としか云いようがない。
それこそ五十子陣を空にしてでも総力を挙げて古河を確保し続けなければいけない局面だし、
小山、佐野、宇都宮までもが管領方になった情勢下では不可能ではなかった筈なのだが…。
同年に旱魃飢饉の記録が激増していることから見て軍勢の維持が困難になったかとも思えるがそれは御所方も同じこと。
軍事/政治意識の上で利根川を「超えられなかった」のか。
それとも『太田道灌状』に散見される管領方戦争指導部内の不協和音がここでも響いたのか。
-
足利荘とか新田荘が維持できなくて背後から補給線断たれる可能性を考慮したんじゃないの
これが大将の邪推なのか古河方の策略なのかは知らないけれど -
>>59
黒田基樹氏の著書に拠ると、
古河攻略に先立つ文明元年(1469)八月には新田庄、翌文明二年(1470)五月には足利庄及び佐貫庄を管領方が制圧。
周囲の小山、佐野、宇都宮、桐生、岩松、…は管領方に転向済。
一見磐石に思えるが支配維持を困難にする要因が何かあったのかな。
それとも既に地域権力化していた古河御所をその地域=経済基盤から切断してしまえば早晩立ち枯れるだろうと踏んだか。
-
というか帰還は鎌倉でなくて古賀なんだな
鎌倉のほうがちかいのに -
鎌倉は今川と近いしね
まだ早雲も今川方だし
武田や斯波の侵攻可能性もある -
>>61
そもそも足利成氏が乱の初期から古河を本拠地として選んだのは何故か。
それを考えれば容易に解る。
鎌倉に還っても経済基盤が殆ど無い。
周辺に御所直轄領が集中所在しているわけでもない。
國衆化した奉公衆が周囲を固めている強味もない。
軍事的には、
鉄板の管領方地盤である相模國で鎌倉と云う「点」だけ占拠しても防御困難。
自然地形が致命的に悪い。
強固な城館も無い。
史実でも五度、「成氏が鎌倉を奪還した」と云う仮構を構えれば「六度」も陥落している。
鎌倉を拠有しても広域的水陸交通掌握の利得が無い。
利根川水運と陸上要路を押さえ得る古河~関宿ラインとは比較さえできない。
-
>>62
享徳ノ乱に於ける管領方の鎌倉制圧当時(文明三年[1471])、
伊勢新九郎盛時は荒廃の京都を彷徨う十六歳のガキであって未だ何者でもない。
やっと元服したかどうかの時期だ。
その生活には「関東」など1μmも存在していなかったろう。
盛時の駿河下向は長享元年(1487)を俟たなければならない。
-
失敬。
史実の鎌倉陥落は六度だった。
・元弘ノ乱(北條高時←新田義貞 他)
・中先代ノ乱(足利直義←北條時行)
・南北朝動乱(足利義詮←北畠顕家)
・上杉禅秀ノ乱(足利持氏←犬懸禅秀)
・永享ノ乱(足利持氏←山内憲実 他)
・享徳ノ乱(足利成氏[不在]←扇谷持朝 他)
-
北条時行は3度落としていても処刑されてるのはこだわりすぎたんかな
京も同様だから歴代足利将軍は危なかったら何度も逃げてる -
>>64
そんな若造が長尾景春と共闘するとこれが面白いな -
共闘しても負ける長尾景春
-
一字拝領
主君の下の偏諱を、家臣の上の字に充てるのが基本なんじゃよ」
「主君の家の通字が下…つまり偏諱が上にくる大名の場合は、どうなるんですか」
「そういう場合は2種類の対応がある」
1、上の偏諱を与える
2、下の通字を与える
「1は、あまり例がない」
「そうだね。 古河公方がやってたけど…」
「あそこは、ちと特殊じゃからの…」
https://ameblo.jp/ho...53444.html?frm=theme
どう特殊だったの? -
初代 足利成氏 1455年 - 1497年
2代 足利政氏 1497年 - 1512年
3代 足利高基 1512年 - 1535年
4代 足利晴氏 1535年 - 1552年
5代 足利義氏 1552年 - 1583年
- 足利藤氏 1561年 - 1562年?
高基が例外?
義氏も? -
足利義輝(義藤)から藤氏が出来たが、それと対抗していた義氏は義の字を使うことによって格上を表そうとしてたのか
-
>>70
足利高基の元服当初の実名は「高氏」だった。
等持院殿の初名と同じなのは流石に憚られるから改名したと云う経緯がある。
「基」が基氏に肖ったものであったかどうかは知らない。
些かスレチの度が過ぎるようだ。 -
足利政氏も尚氏にはしなかったんだな
-
乱初期の享徳四年(1455)段階で島河原、分倍河原と惨敗して
特に後者では将領クラスが壊滅した管領方が、
同年のうちに大袋原、三宮原、更に穂積原と連勝して巻き返したのは殆ど越後上杉の関東進撃に拠るものだった。
この時点で享徳ノ乱の実態は純軍事的には利根川左岸vs越後上杉の構図になっていたとさえ云える。
しかもその主宰者上杉房定は関東介入の傍ら本国に於いては「戦国大名」権力構造の確立をも果たしている。
後年の房定子息顕定の山内入嗣まで併せて房定期越後権力体の画期性やこの大乱に於ける存在意義はもっと広く深く議論されなければならないものだと強く思う。
尤も、
当時の壊滅的な生産状況下ではかなり無理も重ねたのだろう、
次代上杉房能期に至って在地の憤懣を糾合した長尾為景の蹶起を招いてしまったのは皮肉と云うべきか。
それともメタ的にそこまで含めて「戦国」の象徴と評するべきなのだろうか。
-
後代長尾氏に傀儡擁立されたりするスキがある間は戦国大名化に成功と言うには難しい気もするけど
生産性が低いと平和裏に分家を新設する余裕が無くて家督争いが発生しやすいのかもしれん -
鎌倉公方という支配体制の二極化は対立しか生み出さんなあ
父将軍、子鎌倉公方ならまだしも従兄弟の代だと決定的に対立する
江戸時代で畿内統治機構に京都所司代とかあるけど完全に身内統治から別れて官僚機構になってるね -
徳川家康が小田原でも鎌倉でもなくなぜか江戸を選んだ…みたいな話がよくされるけど
後北条ですら重要な支城をおかなかった鎌倉を徳川が選ぶわけないな
江戸城は後北条の頃から重要な支城だったけど -
>>79
北條の江戸重視や徳川の江戸選択の理由は今や広く認識されている(と思う)し、
小生もそれについては他スレに書いたが、
その過程で色々調べるうちにやっぱり「太田道灌の江戸」の存在の大きさを痛感した。
俯瞰すれば享徳ノ乱こそが江戸城の、そして江戸なる都市の生みの親だったことは争えない。
しかし前線軍事拠点と云う位置付けは江戸の巨大なポテンシャルを考えれば「制約」でしかなかった。
それを漸く解き放ち始めた道灌に、しかし残された時間は少な過ぎた。
その夢の跡を承継した北條徳川は江戸を壊すことなく育て上げた。
この史実を以て道灌も僅かに慰められたものと思いたい。 -
>>78
東と南を太平洋によって、西と北を巨大な山塊によって他地域から隔てられた関東の地理水文は、
物部氏永の昔からそこに棲むヒト群を中央に対する反抗へ、やがて将門公の如く「独立」へと向かわせてきた。
巨視的に見れば享徳ノ乱もその数多い事例の列に加えるべきものだろう。
「二極化」「血族対立」というのもその生態学的本質が偶々あの時代に纏った衣に過ぎないのかもしれない。
-
「蜀」とか陸の孤島的な意味で区切れるけど
あとイベリア半島も文化的に区切れるだろうし
まーこれが四国や九州に当てはまるかと言えばどうかな -
>>82
小生は単車乗りだから峠路を好んで走る。
箱根や足柄は勿論、
武甲國境の甲武、和田、柳澤、
上信國境の武道、十石、碓氷、…、
道の途中でも峠の上でも思うことは「誰だよこんなにヤケクソに『山』をブチ撒けた野郎はよー。」と云うに尽きる。
特に武道峠から見る景色などは軽い目眩と絶望を誘う。
動力機械の無かった時代、
大山塊群に区切られた関東は正に巨大な陸の島嶼、大袈裟に云えば他国人にとって異世界に思えたのではないか。
逆に関東人からすれば「関東は関東。余所者が嘴を突っ込むんじゃねぇよ。」と云うことになるだろう。
それは皮膚感覚で共感できる。
将門公を元として平忠常、源頼朝、鎌倉北條義時、そして彼等を支えた無数の関東人、
古河成氏とその与党の運動即ち享徳ノ乱も彼等の系譜に連ねて語るのが自然だと考えている。
-
でも蜀は実は結構古代から漢民族の移住が多くて
北方の勢力が南方を征服する際にも結構南方の穴になって最初に占領されることが多い所でもある
蜀が陸の孤島なら、江南は本当に島と例えられる。江南との間に流れる大河は一見すると海にしか見えないから
島のように見られる。南朝は北からは島夷と呼ばれた -
九州は地勢的にはアクセスし易いからねえ
長安と成都は京都と福岡より遠いか -
スレタイを読もう!
-
関東御家人も伝統的雄族と言われる小山や結城とかも
元は畿内からの移住者だが
代をかさねると当然ながら地元は坂東という意識は出て
畿内は他国としか思えなくなるか -
真里谷武田や里見でさえ当時は新参なんだよなあ
-
畿内からすれば
そういう事実上独立した地方を認めたら謀反する
攻め登ってくるという疑念が湧くんだろう -
実際南北朝の頃は関東は比較的穏やかだったが九州はもう別の国だったしな
-
普通にやけどするからな
毎日出勤して国会議員が芸能人の取り込み力は強い -
ここで買えるやつがおらんから題材にならんのと顔だけで選ばれた練習生期間少ないジェイクじゃないのかハッキリせいって感じだったけど見出しはキンプリヲタが悪いのか
妻も元タレントらしい -
調子こいて生きるより
値するような
FA間近の不満解消にも撃たれた奴いるだろ -
そうだそうだな
まあ
普通じゃないぞ? -
最後の方調子悪かったみたいに修正しよう。
身元確認いい加減な会社まじでなんとかならんか
って思ったけど
ただのJPOPやん -
はいぱーまほしか
フジサンケイグループは壺じゃんか・・・ -
実際大事なんです。
「押し目が来たぞー」
「#だってー女子校行ってたんだろw
↑今すぐ読める無料コミック大量配信中!↑