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心と宗教
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仏のスレ31
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安堂は脱毛器具を買いに
家電量販店にやって来た。
店員
「どうですか?今、抽選会やってます!」
安堂
「今、何時だね?」
店員
「18時24分ですけど。
安堂
「話にならない。」
安堂は発狂して時間を忘れたようだ。それにしても店員の対応は見事だったと言えよう。ここを見通せたら仏など蒸発するだろう。 -
安堂はコロナ後遺症で倦怠感と頭痛に悩まされていた。ドラッグストアで鎮痛剤を探していたがどれがいいのかわからない。
安堂
「頭が痛いのだがどの薬がいいのか?」
店員
「そうですね。これはいかがでしょうか?」
安堂
「車に轢き殺されたハトがカラスに喰われてもいいと言うのか?」
店員
「野良猫でも死に場所は選ぶでしょう」
安堂は頭が痛かったが、頭痛がカラスかハトかネコか、どれによって引き起こされているのかわからなかったらしい。ここを言い当てたら
仏というものだ。 -
即透明あぼーん😟
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🏥 🚑💨💨💨 👋😆
🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵
🫵 😂 鹿野園はサイコパス 😂 🫵
🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵 😂 🫵
🏥 🚑💨💨💨 👋😆 -
煩悩、貪瞋癡、妄念は
取らないということができる
それの応用で痛覚も極まれば
取らないということが可能
痛いという現象を眺めることが可能 -
例えば何かに気を取られてるとき
痛みを忘れる瞬間がある経験があると思うが
それのきょう -
それの強化版と思って差し支えない
倶舎論でいう刹那において一つのことしか
作用しない(眼識など)に通じる
痛覚ってのは患部から連打するように、焼けるように痛みが発する
それを取らず眺めていると
痛みも刹那刹那に生滅していることに気づく
何なら無常の体感が出来る -
痛みを取らないと簡単に言うが
刹那刹那に執拗に痛みを繰り返し
体に訴えてくるのでなかなか難しい
自我を放りすて無我状態でも
執拗に自我に繰り返し繰り返し刹那刹那に
痛みを継続してくるから
無我状態を維持するのが難しい
しかしながら自身が無常であることが
体現出来ていれば
刹那刹那に執拗に繰り返される痛みにたいし
刹那刹那に自我が生滅すれば
リンクするんよね
その感覚になれば痛みが傍観出来るようになる
まさに己が無常にある -
簡単にいうと
自身が寝てるとき気絶してるとき
あるいは全身麻酔しているとき
痛みは感じないよね
それは自我を放り投げた状態だから -
痛みもそうだが
鹿ちゃんに対する執もそう
刹那刹那に自我に働きかけ煩悩が生滅する
それを取らずに傍観し
ああ自我に対するそれは刹那に生まれ
刹那に消えていってるんだなと
体感出来たら
無常を体現したといっていいだろう -
何も妄想念や微細な自動思考を
完全に滅し、心を止める必要はない
無常を体現し、それらが隔絶され
傍観する立ち位置になれば
まさに元のまんまで良いのだとなる -
人間とは何か。自分とは何か。生きるとは何か、現実とは何か。分からず生きているのが人間です。
人間なのに、人間が分からず、生きてるのに生きるが分からず自分なのに、自分が分からず
考えるのに考えるが分からず
人間はどこから来てどこへ行くのか道は分からず、生まれても死んでもまた生まれ変わっても答えが分からず、諦め、挫折、絶望、傷だらけなのが人間です。人間はこれらを知りたくて知りたくて生きている。知るために死んで生まれ変わってまた死んで生まれ変わって。知るためにこの人生を生きている。 -
どうにもこのスレにいる人たちは
無常、無我がウィキレベルでしか分かってないように思う
マジもんの無常を体現すれば
もはや何も問題ない
今の現状で問題ない
明日死のうが問題ない
鹿ちゃんに執しようが問題ない
自我が絶望の矢を受けても問題ない
お釈迦様が無常と無我とお示しなられてる意味を禅定なり坐禅なりで真摯に探求すべし -
金利が上がりすぎて深夜にシフト組んでるときが
いかんせん部屋がないからな
https://i.imgur.com/a7ZzlBa.jpeg
https://i.imgur.com/9rW09Sc.jpg -
>>9
原作者にもウケるやろ -
思うけど
身の丈に合わないだろ -
あと五年半は在籍できる模様
大多数が反対だから
550
乗り込みキ○ガイは即通報! -
>>16
∞ノノハ∞
川^〇^ハレリダンたんが言われる無常 無我も
坐禅をされている鹿野園たんは勿論
ロンちゃんも知覚されているのでは?って思います
有るでも無いでもない三昧は鹿野園たんは勿論ロンちゃんやでおーたんも知覚されているんじゃないかなぁと麦は思います -
知る必要がありません
というか本当は知ることができないのですw -
知っていると思い込んでいるだけですw
-
見ること、眺めること、確認すること、認めること、知り留めること、掴むこと、手に入れること、悟ることが、要らないのですw
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佛に成ろうとして坐禅してはいけません
坐を忘れて坐ってくださいとかゆーらしいやんか? -
というか、無常とかもそやけど、感情的な問題を解決した方が良くないか?
と思える人が多数だがwww -
自分だけが知っている生き方がすべての人にとって共通ではなくて、自分の知らないことに謙虚に向き合う姿勢が無ければ自分の世界観は広げられない。普段から高慢に過ごすことはそこにある現実を歪んで解釈する。冷静にゆっくりでもいいから、ありのままの現実を受け入れてく、自分の世界観だけがみんなの正解になることはない。自分の価値観だけで世界を決めつけること無くあらゆる人生の側面に目を向ける。
知っているつもりで満足していても新しい世界を知ることはかなわない。自分から積極的に人生を学ぶことが希望になる。日常から高慢な態度を振りかざすこと無く自らの無知を素直に受け止める必要がある -
眼識における情報において
なかなか刹那滅を観るってのは
生活作用下においては難しい
痛みってのはそれに比べて刹那滅を観るのに
適している
普通に眺めるだけでもズキンズキンとか
キリリリリィーと連続、連打していることが
分かる
そのスパンをどんどん狭めて見ていくと
ズ、キ、ンと分解できる
そうなってくると
ズ、キ、ンと痛み現象化、具現化の原理は
言葉によるものだと理解する
信号を言葉に変換することで痛みを現象化していると気がつく
その自我の機能に気がつくと
痛みは傍観出来るようになる -
言葉によって概念化、現象化、具現化していると気がつくと
煩悩も自我の機能と知り、それらが隔絶され
傍観出来る -
>>38
∞ノノハ∞
川^〇^ハレロンちゃんは曹洞宗みたいですから
道元禅師の現成公案かもも
>諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。 -
自己とは何か?
心とは何か?
明らめないとダメに決まってるだろ。。w
答えは、もう与えられている、本来無一物、無我、空、脱落。。
心不可得、無心、心は無い。。
あったら、解決じゃない。。
だけど、無いと思い込んだり、自我を悪いものとみなしてもダメ。。 -
有=無=色=空=自己=他者=現実。。
かつ無常故に故に、脱落身心。。
しかれども、悪業を積んでいるうちは、心が休まることはない。。 -
傍観者になるとかじゃなくて、思考するときは思考と一つになる、作業するときは、作業と一つになる。。
念があ校が湧くまいが、それ自体、と一つになっていれば、いずれ、脱落します。。
自己に関わって、どうこうしようとしているうちは、解決しない。。 -
我々は誰なのか。我々はなにになったのか。我々はどこにいたのか、我々はどこに投げ込まれてしまったのか、我々はどこに向かって急いでいるのか、我々はいつ救助されるのか。
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利己的な自我、によって、否定的な思考が浮かぶのであれば、そのもとにある利己心と、それを無くそうとする利己的な自我と同根なので、それを無くそうとしている地は無くなりません。。w
意根を坐断する、とは、自分よくしよう、他より良くなりたいとか、そういう、利己心、が消えるということです。。
だから、自己を運んではダメで、お手上げして、仏さまにお任せするしかないんです。。w -
われわれは人間です。。
だけど、人間と言うのも概念に過ぎないので、観念に過ぎないので、人間に似た何かです。。w
どうでもいいんです。。
知らなくてもいい。。w -
人間と書いて、「じんかん」と読む、これは、一時、人の姿を取っているのみ、と言うことじゃないかな?
この姿形が滅びれば、また四大に還って、また宇宙を巡ることでしょう。。 -
宇宙の一部が、全体の一部が、その一部分を自己を認識してしまったがゆえに、他から分離してしまった。。
分離する以前は、全体と一つであった。。
自分、自己、なんてのは、もともと無いんだけど、今も無いんだけど、肉体あるうちは、それを維持しなけりゃならんというのもあるから、ま、その限定性を生きるしかないんですね。。
だけど、その限定性を放てば、全体。。
十方世界現全身です。。
自己を忘れれば、宇宙全体になる。。 -
訂正、宇宙の一部が、全体の一部が、その一部分を自己と認識してしまったがゆえに、他から分離してしまった。。
-
自己に拘るよりは、いったん捨てて、忘れて、全体になった方がいいよ、と言う、その点は、世俗の在り方、生き方とは全然ちがう、反対方向です。。
何かを身に着ける、とかではない。。
技法、メソッド、テクニックとかでもない。。
放てば満てり、というだけ。。
花を見れば花、蝶を見れば蝶、になっている、という、大変オメデタイ時節もあったりする。。w
だけど、幼い頃は、たいていそんな感じだったわけです。。
そこにまた戻れる、ということですね。。 -
「宇宙」を巡ったりはしないですよ
「宇宙」ってのも人の見方だから -
「宇宙」ってのももともと無いものですね
無いままに現れてるそれを「宇宙」って呼んでる
たとえ人類や地球、宇宙が滅びることがあっても
「衆生は劫尽きて、大火に焼かるると見る時も、我が此の土は安穏にして、天人は常に充満せり。」ですね -
>>42
念があ校が湧くまいが、それ自体、と一つになっていれば、いずれ、脱落します。。
↑
これが浅いと言う理由
それ自体と一つになるというのは
何も分からんのと同義語
分別がなくそのまま一つなので分からない
大事なんは分別とそのまま一つの差分に
気がつくこと
だから何も分からず随縁に右往左往していると
いってんのよ
それを良しとするのは浅いということや -
そうだな!
-
>そういう人としての、見方、が消えるわけではない。。
消えます!
消えたことが無いと分からないね -
宇宙人は?
-
ロンさんってやっぱりオカ・スピ・ニューエイジ系なんだなぁ。
まぁ、それはそれだしおかしい事でもありませんけどね。 -
まぁ、基本、他人の信教の自由を尊重してれば良いわけですなぁ。
-
>>54
何にもわからん、にいったんはなる必要がある。。w
気が付く、は二元、何にもわからんは、一如です。。
だから、いったん、何にもわからん=ものと一つになる、は必要でしょうね。。
そっから、はあっと気が付く、という順番。。 -
サイコパススレどうしますか
-
すごく目立っています
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>>59
次は何時にスクリプト荒らしやる予定ですか? -
痛みを言葉であるいはアイコンで
具現化している現象化していると気がつくと
六境を具現化しているのは前五識を思量?している意識であるとなるかな
所謂、現実は自我が現象化しているのではないだろうか -
>>53
いやいや、地球、宇宙滅んだら、一緒に滅びるしかないですよ。。w -
>>65
これは~だ、という認識が生じるのと、自他分かれるのが同時。。
認識の発生によって、自己とその他が分裂する。。
だけど、体験から言うと、認識あるままでも、我執みたいなのが弱まれば、見るものと一つになる、と言う感じにはなるね。。
そうなると、何見ても、それ自体、認識の向こうのそのものを見ているわけだから、何見ても、妙というか、味わい深い、と言う感じになる。。 -
自他が分裂する認識が迷妄であるなら、知らんが智慧なんですよ。。w
知らんは一つ、如実知見、智慧、涅槃妙心。。w
いったんは、それを体験する必要があるんでしょうね。。 -
無分別的な平等の体験、それとは別にこうしてある差別のありよう
これを二つに見ながら、仏教の法理からそれらを一つに見ておられるって感じかな -
>>71
もちろんそういうことで、このもの、も生まれたことを知らず、死ぬことも知らず、というのであれば、不生不滅です。。
だけど、ホントは、誰もが生まれたら死ぬことを知っている。。w
自身のそれを知り得ないとしても、生滅あり、とも言える。。 -
だから、生死のままに、あるほかはない。。
在家は金稼がないと。。w
老後の資金も必要だしで、大変です。。w -
生滅は生滅、それを不生不滅って呼んでる、みたいな
表現としてはそんな感じなんでしょう
解釈しようとすると意味不明ですが
一方でロンさんのは解釈として分かりやすい
彼岸の真理としては不生不滅、でも此岸としては生滅ありで生きるっていう二世界論的な -
迷いの他に悟りはないし、此岸と彼岸と、そんなに区別があるとも思えないけどな。。
仏教がどうの、が終わったら、あとは、どう娑婆で生きていくかしか残らないのでは、って気もするし。。
仏教が終わると、それ以外の世界が、どんと開ける。。w
むしろ、彼岸が無くなったという感じかな? -
此岸と彼岸に区別があるとか、ないとかではなく
此岸も彼岸もない、此岸即彼岸ってことですね
だから生滅即不生不滅、「世間でカネ稼ぎ」即ダルマってことでしょう -
まあ、この辺はあんまり人に言うのは控えておきますが
俺もあくまで理屈だけなんで -
聖地親苑。
南無真如一如南無大般涅槃経
真如双親様、真如両童子様、真如護法善神様、真如継主様
南無復権接心道場 南無復権真澄寺 -
かたや不生不滅であり
だけど、ホントは、誰もが生まれたら死ぬことを知っている。。w
↑
これが浅いんよなあ
生滅が生滅足り得ると不生不滅
自我が生滅にリンクすると無常
有為法(命根)が有為法(無常)にリンクすると不生不滅(無為法)
生滅が生滅足り得るが
分からないもしくは体現出来てないんだろうな
ロンさんは -
リダンツァーもロンも目くそ鼻くそ。
同レベル。 -
生滅が生滅足り得るがちゃんと分かっていれば
それはそれとして人には生死があるよねって発想にはならん
そこは気にならん
それこそが元のまんまであり
ロンさんが言うところの元のまんまは
何度もいうが随縁に右往左往してる元のまんま
浅いとこでドヤ顔吹聴はもうやめないかい?
なんやろ色即是空 空即是色の
空、実体を欠いているが頭だけの理解なんやろか
だから色即是色の安易な元のまんま -
一人一人に日々がある、人が生きる時間の濃さはそれぞれ異なる、時間の過ごし方の善悪を論じる前に人生を振り返ることが大切です。環境の変化に恐れを抱いても現実を思い描いたようにコントロールできない、自分が出来ることとは果たして何か。そこを忘れずに継続することで自分らしさの形を作っていく。時間に対してどんな感情を抱いているかで人生の充実感は変わってくる。無駄に時間を浪費するだけでは人生の深さに気づかない、目的を忘れない。一日一日、滲み出る幸せを搾り取る。
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>在家は金稼がないと。。w
>老後の資金も必要だしで、大変です。。w
それを釈尊は、無明→生活作用(行)と言い
生活作用が滅すれば、無明も滅びるとした
出家とは、その生活作用から遠離すること -
生活作用そのものであれば、生活作用も無いんだよ。。
だから、脱落なの。。
みんな脱落して生活している。。w -
ただ、そのものになる、ができないと、脱落もないでしょうね。。
そのものになり切れるかどうかでしょう。。
これは、出家か在家かには関係ない。。
働き、そのものになっていればいいだけ。。 -
そこは出家も在家もないというところでは
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消去法
仏教失敗作品
キリスト教失敗作品
儒教失敗
孔子失敗
ピンズー教失敗
実存主義も失敗
構造主義も失敗
言語学失敗
科学失敗
進化論失敗
マルキシズム失敗
スピリチュアル失敗新興宗教失敗
資本主義失敗
唯物論失敗 -
オレは分かるというのが不思議で仕方ない
どうして皆そんなに真理が分かるのだ?w
空とはこーであるとか悟りとはこーであるとか確信できるのが不思議で仕方ない -
外と一つであるのがいいんだとか、金儲けするのがいいんだとかw
なんたらかんたら、ほかにも、いろいろありまっせーみたいなさw -
オレはマジで何も分からんw
分かってるのは時間が来たら仕事行かないととか、世間でこう言われてるとか、本とかネットとか雑誌とかテレビとか、それこそ、仏教の本にはこう書いてあるとか、そんなんは分かるけどさw -
ろんさんはこう主張しとる
リダンツァーはこう主張しとる
だれだれはこう主張しとる
しかし、よくわからんw -
彼岸と此岸の話も出てたけど、そもそも、彼岸とは何かが、分からんw
まあパーッと消えたら涅槃、彼岸なんかねえとか想像するくらいよw -
オレは分からんことを分かったつもりになることはできるし、悟ってなくてもオレ悟っちゃったかもー笑 とか馬鹿かます時もよくあるけど、マジで、よくよく考えてみるに、ホンマに、何もわからんのよなww
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生まれたことを知ってるし死ぬことも知ってるっていうけどさー
ほんまに?w
それを言うなら生まれたことも知らないし死んだことも知ることはない
本当は今も知ることはできはしない
これ、は、まあ、そんな気がするw -
だからオレからしたら知れるというのが、そもそも、なんで?
どこで、そーなったん?
なんでなん、みたいになってしまうw -
まあしかし何でなん、どーなん、気に食わん、好きとか、なんとか、ゆーてほざいとる、俺自身が活動休止してれば悩んだり困ったりすることはないw
オレが休んでる時に悩みも愚痴もあるはずがない笑 -
俺の浅はかな考えでは、この、心で思っとるやつ、まあ、つまり、普段の感覚で言えば、俺自身が煩悩なんよwww
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