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民俗・神話学
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日本の初代天皇は始皇帝を騙した徐福!?
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天皇家は朝鮮系ではなく中華の人だった! - コメントを投稿する
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スレタイ大胆
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これマジか
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時代が合わないだろ
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朝鮮顔とか言ってたやつらw
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そうなんか
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胡散臭
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徐福がいろいろ日本に教えたのかよ
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それならもっと発展が早かっただろうに
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徐福天皇か、違和感ないな
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姓+名+天皇は違和感ありまくるけどなあ
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徐福天皇なんて言い方無いだろ
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古くからの説なの?
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来ようとしたとかは言われてたけど徐福天皇説も昔からあったのかな
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実のところ神武天皇を祖とする現皇室が
日本列島で最初に誕生した王族というわけではない -
徐福天皇が他の王族を駆逐したの
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いろいろ皇帝から巻き上げた?預かった宝物とかあったんでしょ
そういうので現地民を雇ったんかな -
天皇系譜上の初代、神武天皇は、
海(天)村雲命。
徐福と出雲王国の第8代オオナモチ、八千戈さまの妹君、高光媛(天道媛)との御子、五十猛。長じて、海(天)カゴヤマと、
徐福は二度目の渡来で吉野ヶ里を本拠地とし、
宗像王家(出雲王国の分家)の末娘、市杵島媛と政略結婚して生まれた第二子のホヤ媛(第一子はホホデミ)の
異母兄妹が結婚して生まれたのが、
海(天)村雲。
出雲王国の乗っ取りを企てて出雲王国の(第8代の)主、副二人の王を殺害するテロ事件を起こした徐福ら渡来人(実効主犯はホヒとヒナドリ)らですが、侮っていた出雲王国は意外にも強固で反撃にでた事で
徐福は引率してきた二千人の海童(秦国人)と妻子を置き去りにして秦国に逃げ帰った。
取り残され、散りじりになっていた海童(秦国人)たちを五十猛/カゴヤマが呼び集めて丹波国に移住して国を建てました。
先の出雲王国の大逆テロ事件の影響で
葛城に大量移住していた出雲族(摂津三島の人々も加わる)らが大和に出雲第二王国の建設を夢見て開発に勤しんでいたところに
北の丹波国の海村雲が丹波人(元々は秦国人や子孫たち)を武装させて大量に大和に侵入してきて威勢をはって、
先住の出雲族らを凌駕した事から
海村雲を大王に推戴。出雲神族(=王族)の媛踏五十鈴日女命(三輪山の初代祭主に就任済)を大王后とする等して
丹波葛城(大和)連合王国の大倭国が成立。
海王朝、海部王朝、大王宮が葛城の笛吹(高尾張)に在った事から高尾張王朝などと呼ばれる
海村雲から11代約300年の命脈を保ちました(ホホデミの子孫(親戚)の大和侵攻(所謂、神武東征)により滅亡)。 -
徐福天皇追い出されたの!?
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来てないよ
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一世代あたり平均25か26歳ぐらいで子供を作るだろ?
神武天皇を一世代目として倭の五王に比定される大王たちが
15〜18世代目。現皇室の先祖とされる継体大王が20世代目。
推古天皇が22世代目。聖徳太子が23世代目。天智天皇と天武天皇
が25世代目。現在伝わる皇統譜と睨めっこする限りでは日本の
初代天皇は西暦1世紀の人物で、後漢の光武帝から金印を貰った
倭奴国王と同時代の人物と考えられる。ただし、皇統譜上で
神武天皇と今の天皇の間に断絶・省略があるなら話は別だ。 -
皇室の系図を見ると、神武天皇から第17代履中天皇まで
順調に次世代への王位継承が続いている。これが史実なら
神武天皇は西暦1世紀半ばの人物だ。しかし、実際には皇室系図
は他の豪族たちより世代数が5〜6世代分多いという指摘もあり、
履中天皇以前もそれ以降と同じように同世代の人物へ王位継承
していた可能性がある。神武天皇を西暦1世紀よりさらに5、6
世代分後の人物だとすると西暦2世紀末〜3世紀初頭頃の人物で
原初の大和政権は女王卑弥呼と同じ時代に誕生したことになる。 -
1世紀半ば!?やっぱり徐福天皇なのか!
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徐福は紀元前3世紀
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初代天皇が徐福である必要も無い。
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じゃぁやっぱり朝鮮のひとなのか…
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本宮先生スレ立て乙
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これは興味深いですね
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>>22
挿入されてる天皇もいると考えないと -
聖徳太子の件もそうだけど、どんどん昔の常識が変わっていくな
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>>29
架空の先祖を捏造する意味はない。どうせ建国年を紀元前660年に
合わせるならたくさん年齢の正常な架空の先祖を作ればいいのに
記紀はそうしないで天皇の年齢のほうを延ばした。天皇という表現が
誤解の原因なのだろうが、実際に大和政権が奈良盆地から日本全国へ
勢力を拡大するのは邪馬台国より後の崇神天皇の時代から。それまでの
天皇は奈良盆地に住む一豪族家の主と呼ぶのが正確で日本列島の広域を
支配した7世紀以降の天皇とは全く違う。神武が知りうる限り皇室の先祖
だった。とはいえ大和政権と邪馬台国が同じとは決まらない。違う可能
性もあるので、記紀はどうにかして中国で知名度が高い邪馬台国の歴史を
大和政権の一時期に位置づける工夫をした。神武より前の物語は他の豪族
などが持っていた神話を適当に継ぎ接ぎして創作した物語だから史実性はない。
イザナギやアマテラスが天皇の先祖だという話も神話なので疑ってかかるべき
だろう。 -
>>19
徐福=徐市(徐フツ。、、、フツ主神/フツ御魂神)/彦福。
徐市(フツ)さま。福の文字がお好きだった事から自らの名にしました。=徐福。
中国の史記には始皇帝を二度も騙して、巨万の財宝、財貨と共に前後併せて五千人の童男童女、あらゆる職業の熟練者に(こっそり?身内の者たちを紛れ混ませ)
日本列島に言った事が書かれて、
二度目の渡航は、、
、、、行きて還らず。風聞では広い領地等を得て彼の地の王となった。云々。
一度目の渡航では渡航の一年前に事前工作に
ホヒとヒナドリ(現、出雲国造家の祖)を出雲王国の王の下に送り、財宝ほか珍貴な貢ぎ物をする等して出雲王国から渡来許可を取り付けます(直ぐ連絡員が徐福らの居留地に渡来許可を伝えに向かった)。
ホヒ親子はそのまま出雲王(オオナモチ)の近習(スパイ/諜報活動)として召し抱えられました。
やがて、石見の五十猛海岸に大船団が来航して徐福が引率する二千人が上陸。
そこに居を構えました。 -
>>32
この際(第一回目の渡来時)、徐福さんは和名(偽名)にホアカリを名乗りました。(天火明/彦火明=徐福) -
これは至急教科書に載せないといけない!
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落ち着け
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でもこれは大変な事やと思うよ
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詳しい人いるね
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>>18
二千人の配下や妻子を置き去りにして慌てて母国に逃げ帰った -
徐福天皇記
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>>32
当時、日本列島最大の版図(北は新潟県。南は四国〜北九州(分家の宗像王家))を領した出雲王国の乗っ取りを企て大王にならんとした徐福さま(皇室の祖の1人。徐福の出身地の蘇州うを反転して州蘇として「スサ」スサの男でスサノオ)
ですが
主副二方の王をテロにより殺害した迄は良かった?のですが、
出雲王国側が態勢を建て直して直ぐに反撃追撃に転じた為、居場所を失って母国に逃げ帰ったようです。
その際、引率してきた二千人の海童(秦国人)や妻子を置き去りにしました。
徐福と出雲国王女の高光媛との間に生まれた五十猛は
取り残され散り散りになっていた秦国人らを呼び寄せ集めて丹波(丹後)に集団移住して
丹波国を建てました。
その際、母親の高光媛とその姪の大屋媛も一緒に丹波に移り住みました。
//大屋媛が成人して?五十猛、改め、海カゴヤマと結婚して(カゴヤマの次男の)高倉下が生まれ(後に紀伊の国に母親の大屋媛と共に移住。紀伊国造の祖となります)ます。
彼ら海童/秦国人の子孫たちが後々の秦族等と呼ばれる大集団になります。 -
読みたくなってきた
出版してほしい -
これは売れそう
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徐福宮家
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徐福天皇の子孫が取り寄せたのかな
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目が痛い><
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まさかねぇ・・・・
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天皇。は、天武天皇が始めて用いた称号。
天武天皇以前は大王(オオキミ)。
更に遡ると、
古代出雲王国の大王に当たる称号がオオナモチ(主王)。
同じく、副王の称号がスクナヒコ。
、、、古代出雲王国は主副二王制。17代約700年弱の命運
「タラシ」(帯、足、垂)。も大王の称号
神功皇后こと、息長帯媛命 はタラシと命が付与されている事から女帝で有った事が窺い知れます -
だが現在は天皇にカウントされていない
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すごい!みんな博識だねぇ
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徐福天皇!
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大正時代に歴代天皇から外された事を考えると
宮内庁は神功皇后が虚構である根拠となる何かを持っているのだろうね
是非とも公表してもらいたいところだ -
勉強になるなぁ
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周から秦の時代に戦乱や圧政を逃れて中国大陸や朝鮮半島から
日本列島へ渡った人たちは少なくなかったであろうと考えれるが、
現代に伝わる日本皇室の系図を見る限り、神武天皇が即位した
のは紀元前660年でも、徐福が生きていた前210年頃でもなく、
紀元後1世紀半ばになるとしか考えられない。これは倭国の王の
使者が光武帝に謁見し光武帝がそれに対し漢倭奴国王の金印を授
けた頃の出来事である。
しかし、天皇の系図は天皇に仕えた他の豪族たちの系図より5、6世代
ほど長いと指摘する意見もあるので、それに従うと、神武天皇は漢倭奴国
王より5、6世代は後の人物であり、邪馬台国の女王の時代かそれより少
し前を生きたと考えられる。神武〜応神までは王位継承が順調に行われず
5、6人分は同世代間の王位継承が存在したと考えられる。ただし、神武天皇
以降の天皇の系図が省略だらけというなら、神武天皇=徐福という説もあり
えなくもない。 -
中国側の記録を参考にすると、天皇家より前に存在した日本の王は
後漢の光武帝から漢倭奴国王の金印を授かった人物、安帝に生口(奴隷)
を献上し謁見を求めた帥升、邪馬台国の女王卑弥呼と台与(神武・欠史
八代と同時期の女王?)などである。
日本書紀の記録では、大己貴命・事代主神のような出雲系の神々や
饒速日命が神武天皇より前の日本の王のようである。とにかく紀元
前210年代の徐福渡来から、後2世紀末頃の神武天皇の大和定住まで
400年ほどの開きがあり、その間複数の王権が日本に存在したのではな
いかと推測される。大和政権が日本の広域を支配し始めるのは4世紀に
入ってからで、天皇家第10代目崇神天皇が天皇家で初めて大多数の豪族
に王と認められた人物だと考えられる。源氏で譬えるなら、始祖の源経基
が神武、征夷大将軍の源頼朝が崇神のようなもので、欠史八代の王の記録は
一つの豪族が天下人にのし上がるには何世代もかかるということを意味して
いるのかもしれない。徐福王朝が大和政権にどのように繋がってくるのか
今後古代史研究が進むことで解明されることを期待する。 -
ははぁ、徐福天皇は複数の王朝の一つか
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>>62
>後漢の光武帝から漢倭奴国王の金印を授かった人物、安帝に生口(奴隷)
を献上し謁見を求めた帥升、
師升。
、、、このお方は、大和(奈良)の磯城王朝の王、国押人(オシヒト)、いわゆる孝元天皇だと伝承されています。
後漢帝国に自ら出向き大和(大倭。実質的には最大限で畿内政権。王家(大和の3割程度を支配するにとどまる。有力な豪族程度)、各豪族たちが入り乱れて権力闘争に明け暮れていた)の大王と認めて貰うため。
貢ぎモノがなかったのと、漢は奴隷(生口)を喜ぶ?ということで、
行き掛けに広島の生口島で大規模な奴隷狩りをやった(故に、生口島の名前になった)
謁見の際、「オシヒト」の耳に付いたアクセントの「シヒ」を「師飛」と中国人の記録官が草書で口頭速記したモノを正式な文章に書き写す際に
飛が升に誤記され、「師升」とされたらしい(この類いの誤記は良くあることらしい)
また、人名、地名等は省略して記述することや、
中華思想の下、周辺諸国の国名、事物や人名等には獣や魚等の文字等を使い卑字化されたようです
>邪馬台国の女王卑弥呼と台与(神武・欠史
八代と同時期の女王?)などである。
ヤマトの女王媛巫女(ヒメミコが中国人にはヒミコに聞こえたらしい)
邪馬台国の女王卑弥呼。これなどは卑字使用の典型的な例。 -
ただの伝説やぜ
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それでも興味深いよ
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富士見
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不老不死の薬は日本一高い山で焼却した。
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>>64
和風諡号が日本足彦「国押人」になるのは孝元天皇じゃなくて孝安天皇だよ。
国押人の年齢にもよるけど、500年後の推古天皇や聖徳太子の何世代前の16、7世
代前の先祖にしては昔の人過ぎないかな?
ヤマトの女王媛巫女は倭迹迹日百襲媛命を指してるのかな?
彼女は西暦107年頃の国押人(孝安)の孫娘なのかな?国押人=孝元で孝元の姉妹が
百四十年も後の248年頃に亡くなったとはちょっと信じがたいな。当時の天皇家の主は
平均何歳ぐらいで子供を作っていたんだろう?もしかして古代天皇の系図には世代の
省略がいっぱいあるの??
>「シヒ」を「師飛」と
>ヒメミコが中国人にはヒミコに聞こえたらしい
例えば卑弥呼は、上古音なら「ピエグミルハグ」、中古音(呉音)なら
「ピェミェホォ」みたいな発音になるはずだが、
後漢の時代には漢字の発音は、上古漢語にあった韻母の末尾の子音が脱落して
中古漢語とほぼ変わらなくなっていたという理解でいいかな? -
倭迹迹日百襲媛命=西暦200年代の卑弥呼だとして、その兄弟の孝元天皇の
14世代後の人物が400年後の推古天皇ということは、まあありえなくはない。
でも日本書紀は、神武〜崇神までの間に女王が存在したことを認めていない。
中国人が肝心の男王を知らないで王の娘にすぎない女性を女王と誤記すること
がありうるだろうか? -
>>70
倭とトビモモソ媛は二人の媛巫女を一人の様に偽装させるため名前を合体したモノ。
モモソ媛命は、九州の遠い親戚の物部勢力が大和に侵攻してきて(第一次物部侵攻)
大和の出雲系の信仰(太陽の女神。幸の神。龍蛇神)と物部の信仰(道教。鏡祭祀)
をうまく融合した祭祀を考案なさったようです。
これは神話の天照大神の岩戸開きの際に
榊を根ごと引き抜いたモノ(出雲の信仰、幸の神の主尊(男神)の形代とした)に鏡(物部の祭祀具)の反射面を参拝者側に向け(丸いモノは女神、出雲の幸媛命/太陽の女神の形代とした)ほかを取り付け、、、云々がまさしくそのものらしい。
モモソ媛の後継者がトトビ媛との事(トビは副王家の登美家/大鴨王家、磯城県主家) -
徐福が日本に来ていたら漢字や武器食器馬農耕具など当時の中国文化が様々伝わっているはずだが痕跡がない
服装も梁職貢図を見ると中国様式とは全く異なっている
日本に来てないだろうな -
天皇は中国人なのか昔から言われてる通り朝鮮人なのか
興味深いですね -
中国人や朝鮮人よりも天皇の方が歴史が古いんですが
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ははは
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徐福出て来るとムー度上がるw
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この人が日本に文字を伝えてくれたの?
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間接的にはそうなんじゃない?
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その時に漢字が伝わってなかったら未開時代がまだまだ続いてたのか
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徐福じゃなくて英語圏の人が来てたら日本も英語になってたのかな
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出版するなら「日本を導いた徐福天皇」でお願い
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徐福&秦氏ユダヤ人説ってのもあるな
徐福=ジョセフ又はヨセフなんてのが
ユダヤ人の埴輪が多数出土してるから
古墳時代にユダヤ人が来訪しているのは間違いない -
まじかよ中国人に加えてユダヤ人にも感謝しないといけないな
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フェニキアだろ
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日本を導いてくれた国は多いんだね
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オウムなのに標準語を覚えない無能なおじいw
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ユダヤ人の埴輪なんてあるの
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いや、天皇は朝鮮人だろ
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西ばかり?ハワイ方面からは誰も来ていないの
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天皇家の方が朝鮮人より古いぞ
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応神天皇なんかは出身とされてる宇佐あたりに秦氏の拠点があるし、母親が渡来系かつ父親が誰かもよくわからないので朝鮮からの渡来系だろうな
神武東征も渡来系が東に攻めたんだろう -
渡来人は立派だったんだねぇ
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日本人は全員渡来して来た人の子孫だからね
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まぁ見た目からしてそうだもんね
ご先祖様に再び教えてもらった感じなのかな -
曹操の鏡と大分の鏡が似ているらしい
これはもう邪馬台国も徐福天皇も全員九州説濃厚よ -
徐福は朝鮮だな
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徐福は九州に来ていても天皇ではないな
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ならもともとの説の通り天皇は朝鮮人か
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徐福は九州の秦王国の開祖かもしれん。
隋の煬帝に対して自らを「日出づる處の天子」と称したのは
九州の一部を支配していた王であって大和政権の大王ではない
と思う。倭国についての隋側の記録でも阿蘇山があるなんて
書いてるぐらいだから隋の使者は畿内には行っていないだろう。
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