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心と宗教
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【イエス】 これはわたしの愛する子 Part51 【キリスト】
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愛のシリーズ 第51弾
✝
そのとき、
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
と言う声が、天から聞こえた
(マタイによる福音書 3:17)
ここは霊的な利益を受けようとする心の柔軟な人々の為に
開かれているシャロンのスレッドです。世の利益や楽しみ、或いは
病気治しを求め、煽り、荒らし、反対する為だけの意見を書き込む人は
書き込みをお控え下
前スレ
http://rio2016.5ch.n...i/psy/1539102662/l50 - コメントを投稿する
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キリストは罪を犯さず、罪とされることもなかったのですから、死ぬこともありませんでした。
一日、二日で、生き返っています。
もう一つ大切なことは、死ななかったために、いけにえの効果がなかったということ。
ユダヤ人たちは自分たちを温存するためにイエスを代わりに殺す計画を立てました。
ヨハネ11:50 ーひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体 が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だ
キリストをいけにえにして自分たちの命を救おうとしたのです。 大祭司カヤパがその案を出しました。
人間をいけにえにして国体を維持するという発想が簡単に出てくるところなんて、常習犯としか思えないですね。
しかし、人身御供にされたキリストが、蘇ってしまったので、人身御供の役を果たさず
国は2000年間絶滅しました。 -
キリストは神です。神がいけにえになれるわけないです。
こんなことを書くと、お前は贖罪を否定するのか、といびられるね。きっと。 -
生贄とされたのは、もちろん、ナザレのイエスという人でした。
専門用語ではキリストの人性。
キリストの人性と神性を簡単に区別しますね。
人性=肉 神性=ご霊魂です -
さて、イエスは死んでも、一日半か二日未満で生き返りましたので、いけにえになっておりません。生贄が途中で生き返ってしまったら、いけにえにならないじゃないですか。
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人性と神性とは別人なのですか?
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だーから、いけにえとしては不完全だったのです。それは神の思し召しですし、
そもそも、罪のない人間を殺してはダメ、って、申命記に明記されています。
ですからキリストは殺されることはできなかったし父はそれを許しませんでした。
主は自らの権威によって命を捨てて取り戻したのです。
いのちの支配者ですからね。 -
実は、パウロはそのことをよく知っておりました。
知らぬはプロ手ばかりなり -
知らぬが仏と言いますからね。
-
パウロはこんなことを書いています。
「私はキリストの十字架の苦しみの欠けた部分を補っている」と。
キリストの受難は不完全だったという意味でしょうか。
そうではなく、いけにえとして不完全なままにされたので、
キリストに続く者たちが、クリスチャンが、
それを完成させなければならないということなのです。
私たちはキリストの苦しみを共にして、世の終わりまで、
贖罪のわざをキリストとともに継続する責任があるのです。 -
これを、贖罪未完説と申します。
-
それを、キリストがいけにえになったから、僕たちの罪はすべて償われているから、
なにもしなくていい、罪は大胆に犯せ。一日千回犯せ、悔い改めれば許される、などと極論したのが、ルターです。 -
「罪人になれ。あなたの罪を大きくせよ。
しかし、キリストに対するあなたの信頼を強くせよ。
罪と死と世に勝利されたキリストを喜べ。
現世にいる間、われわれは罪を犯すだろう。
なぜならば、この世は正義が存在する場所ではないからだ。
・・・いかなる罪もわれわれをキリストから引き離すことはできない。
たとえ殺人や姦通を日に何千回繰り返したとしても。」
('Let Your Sins Be Strong, from 'The Wittenberg
Project;' 'The Wartburg Segment', translated by Erika
Flores, from Dr. Martin Luther'sSaemmtliche
Schriften, Letter No. 99, 1 Aug. 1521)
この文の真意は、罪を奨励することではなく、キリストの犠牲に基づく赦しへの絶対的信頼の勧めです。
ルターの異端的な発言について 富井健
https://search.yahoo...1AQECAEoAQ%253D%253D -
これに反対し、律法遵守に帰ったのがカルヴァンです。
ピューリタンは世俗内禁欲も徹底し、デフォで禁酒。
尚、富井健はルター並みの飲酒家。 -
>>10
またそもそものこと言ってるんだ
全てのクリスチャンにとっては贖罪は十字架で完了しており、キリストもそう語っております
苦しみの欠けた部分、はキリストに連なる、似たものになる際の彼らの十字架についてでしょう
なるみさんは基礎が出来てないから平気で基本信条ブルシットしますね
私的なものだけに留めておけばいいと思われます -
曲解による枝葉の話は幹の話をしたらそれで終わりすよ
贖罪は原罪に対する癒しで、自罪や罪に落ちる傾向、力は依然働いているため、それとは戦い続けないといけない、が普通のキリスト教の価値観す -
マチ子さんの邪説(蛇説):イエス・サタン神学人気に対抗心を燃やしているのだろうか?
-
結局、自分は希少な問題に対して悩んだ末、
他者の意向や理想に憧れや寄り添いを示すあり方に成らざる終えなかった。 -
キリストは神です。神はいけにえになりません。
生贄とされたのは、もちろん、ナザレのイエスという人でした。
専門用語ではキリストの人性。
キリストの人性と神性を簡単に区別しますね。
人性=肉 神性=ご霊魂
さて、イエスは死んでも、一日半か二日未満で生き返りましたので、いけにえになっておりません。生贄が途中で生き返ってしまったら、いけにえになりません。
それは神の思し召しですし、そもそも、罪のない人間を殺してはならないと、申命記に律法が明記されています。
ですからキリストは殺されることはできなかったし、父はそれを許しませんでした。
主は自らの権威によって命を捨てて取り戻したのです。
実は、パウロはそのことをよく知っておりました。
「私はキリストの十字架の苦しみの欠けた部分を補っている」
これは、キリストに続く者たちが、クリスチャンは
本来、キリストの苦しみを共にして、世の終わりまで、
贖罪のわざをキリストとともに継続する責を負っている
という意味です。
これをカトリックの神学用語で共同贖罪と申します。
聖ピオ神父はまさにそれを体現した人でした -
さっそく自分は他者の意志を探し始めているな...。
-
共同贖罪ねー
それが贖宥状や修道会の起因なんや -
って、共同贖罪でぐぐっても
共贖者マリアしかでてけえへんぞ -
「私はキリスト者こそ、元々頑なで、容易には
悔い改めに導かれ得ないのを認識した」
バ バルト。💇 -
>>23
確かに言ってましたけど、ネクザさんのはおそらく「表現において」でまちこさんが意味していたこととは異なると思われまつ -
キリストは生贄ではない…ではもう一度貼ろう
433 救い主である神のみ名は、年にただ一度、イスラエルの贖罪のため大祭司によって呼び求められていました。
そのとき、大祭司はいけにえの血を至聖所のあがないの座に振りまきました。あがないの座は神の臨在所でした。
聖パウロがイエスにいって、「神はこのキリストを立て、その血によって……罪を償う供え物となさいました」(ローマ3:25)というとき、イエスの人性において、「神はキリストによって世をご自分と和解させてくださった」(ニコリント5:19)ことを表しています。
536 イエスの側からすると、その洗礼は神の苦しむしもべとしての使命の受諾であり、その開始でもあります。イエスは罪びとの列に加わります。イエスはすでに「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)であり、はや、流血の死の「洗礼」を先取りしておられます。 -
>>32
洗脳されたい共依存体質なのね、再度理解した -
>>34
想像力を使えw -
>>30
おまえ昨日ニッキ牧師らの「罪そのもの」という字義的解釈に関しては
ダメ出しせえへんかったよな?
罪そのものはカトリック神学でサタンやけど
その処遇の差はなんや?
それとひとつ 引例したるわ
神は愛 、愛は心 すなわち 神は心
となるねんか? -
>>35
理想はイデアから切り取るものだ
切り取られたイデアを介してしか理想を持てないとか甘え過ぎ
個に依存しすぎ
イデアは直感を通じて直接触れるもの
それは自由の根拠でもある
依存とは正反対を志向するもんだ
筋トレしてこいw -
>>31
表現て字義のこと? -
キリストは神です。神はいけにえになりません。
生贄とされたのは、もちろん、ナザレのイエスという人でした。
専門用語ではキリストの人性。
キリストの人性と神性を簡単に区別しますね。
人性=肉 神性=ご霊魂
さて、イエスは死んでも、一日半か二日未満で生き返りましたので、
いけにえになっておりません。
生贄が途中で生き返ってしまったら、いけにえになりません。
それは神の思し召しですし、そもそも、罪のない人間を殺してはならない
と、申命記に律法が明記されています。
ですからキリストは殺されることはできなかったし、父はそれを許しませんでした。
主は自らの権威によって命を捨てて取り戻したのです。
実は、パウロはそのことをよく知っておりました。
「私はキリストの十字架の苦しみの欠けた部分を補っている」
これは、キリストに続く者たちが、クリスチャンは
本来、キリストの苦しみを共にして、世の終わりまで、
贖罪のわざをキリストとともに継続する責を負っている
という意味です。
コロサイ1;19−2:2までを熟読しましょう。
これをカトリックの神学用語で共同贖罪と申します。
聖ピオ神父はまさにそれを体現した人でした -
>>38
だから自分がどのような感情を胸に他者の理想に向き合うのかを考えるんだこれからw
そもそも他者の理想だけというのは言い過ぎた。
自分の理想に対しての謙虚な姿勢から来るおまけ的な感性でしかない(他者の理想を成し遂げようとすることは)。
そもそも、理想というものは常に自分の欠点を刺してくる。
その難易度が高度であればあるほどに自分を追い詰める。だから理想に成ろうとするよりは服従する方がよくね?でしかない。 -
表現は意味するもの
仮にこんな論理があったとする
A=B
B=C
A=C
キリストは罪人のかしら
罪人のかしらはサタンである
であるならキリストはサタンである
単語レベルで言うと上記の論理は正しいと言うことになる
しかし、単語が意味するもの、に目を向けるなら偽であることが分かる
前者の罪人のかしら、は「人類のかしら」を意味する
後者の罪人のかしら、は「罪の原因であるサタン」を意味する
従って同じ単語だから最後の「キリストはサタンである」が一見正しく見えるが、それは単語の意味するもの、コンテキストを考慮に入れない態度から導き出された偽の命題であることが分かる -
筋トレはしてない。正常な自分であれば狂乱並みにする
-
>>46
ウジウジ観念の中で引きこもってないで外の世界と触れ合えってことさw -
>>48
わかりますた。 -
キリストは神です。神はいけにえになりません。
生贄とされたのは、もちろん、ナザレのイエスという人でした。
専門用語ではキリストの人性。
キリストの人性と神性を簡単に区別すれば、人性=肉 神性=ご霊魂 です。
さて、イエスは死んでも、一日半か二日未満で生き返りましたので、
いけにえになっておりません。
生贄が途中で生き返ってしまったら、いけにえになりません。
それは神の思し召しですし、そもそも、罪のない人間を殺してはならない
と、申命記27、出エジプト記23に律法が明記されています。
ですからキリストは殺されることはできなかったし、父はそれを許しませんでした。
主は自らの権威によって命を捨てて取り戻したのです。 ヨハネ10;17
実は、パウロはそのことをよく知っておりました。
「私はキリストの十字架の苦しみの欠けた部分を補っている」
これは、キリストに続く者たちが、クリスチャンは
本来、キリストの苦しみを共にして、世の終わりまで、
贖罪のわざをキリストとともに継続する責を負っている
という意味です。
コロサイ1;19−2:2までを熟読しましょう。
これをカトリックの神学用語で共同贖罪と申します。
聖ピオ神父はまさにそれを体現した人でした -
>>49
旧まちこさんは「罪そのもの」を「キリストは自罪を犯した」と認識してたんすよね
今は違うみたいですが
だから一般的なプロテの「罪そのもの」は人類の原罪を代わりに背負った、という意味を指す「表現」なのですが
まちこ派(もはや繁栄教とすら言わないw)の「罪そのもの」はエリエリで神を呪う罪を犯した罪人イエスを「意味する」ということなのでつ
僕は繁栄教がキリストが自罪を犯した、なんて言ってることを読んだことがありません
だからキリストの自罪説はまちこ派のユニークでヘンテコな主張だと思ってます -
情緒不安定だわー...
-
>>50
取り敢えずネクザたんとエヴァンゲリオンコスしてコミケに出没して写真を撮られて、それをもらってアップするところから始めないとね…✨ -
>>37
もう一度説明を試みるが、それでも理解出来ぬなら、もう可能性はないと思う。
仮の話として、
? 残忍非道な人殺しのAという人物が居たとする。
? 一方、善良なBさんという人物が居たとする。
? BさんはAの身代わりとなり罪を償うこととなった。
? Bさんはムチ打たれ磔にされて処刑された。
さて、善良であったBさんは殺人鬼Aの身代わりとなったことで、Bさんの心や人格まで残忍非道な殺人鬼となっただろえか?
「マチ子&ネクザ」コンビは心と人格まで「そうなった」と言っているのである。
これをイエスの受難と死苦の贖罪原理の説明に応用して決して疑おうとはしない。
しかし、本当はBさんの心や人格はそのままであったよあに、イエスの人としての心と人格は無罪のままであった。
罪なき者(イエス)が罪ある者とされ、恵みに満ちた者(イエス)が呪われたものとなった。
だからこそ、「贖罪」の御業が成立して、
十字架のイエスを見上げて悔い改める罪人は誰であれ際限なく罪赦されるのである。
その「赦し」の原理に於いてイエスはキリスト(救い主)とされるのである。
マチ子さんは、当初イエスが十字架上で神を呪って罪を犯しと言っていたようであるが、それは撤回したらしいですね。
でも、イエスが万民の罪を背負ったことでイエスの心と人格までが「罪そのもの・呪いそのものとなった」と言ってるのではありませんか?
だとしたら、それは間違ったパウロ理解です。
今ここで、パウロが発明した贖罪論の原理そのものを問題としているのであって、カトリックとプロテスタントの違いではありませんよ。 -
>>57
海にぷかぷかと浮いてから眠って海の底に沈んで死にたい。 -
ヨハンネスさん、美魔女が演歌道(えんかみち)が辛すぎて壊れているようでつ
癒してあげてくだしあ -
>>55
なに?☺ -
>>63
半分冗談で半分本気のくせに😌 -
ちなみに俺の落ち込み癖はナルトの千手柱間の落ち込み癖と同じなのさ...。
すごいで!(ノ_・。) -
ランニングしてて身体に負荷をかけ過ぎたら痛みが負荷をかけ過ぎていることを俺に教えてくれる
そうするとペースを落としたり、止まってマッサージするなりして負荷を調整する
同じように苦痛の出来事が生じる時、その苦痛は自分の至らないところがあることを教えてくれる
そもそも苦とは神(の計画、創造、法など)から離れた状態の時にそれを教えるために生じる
痛みがないと身体は壊れる
苦がかいと神からさらに離れる
本来、苦とは神まで歩む道のりの、道を踏み外した時のセンサーみたいなもの
だから、苦とは最上の教師でもある
苦から何を学ぶか、それにより何を悔い改めるか、それによりどれだけ神に近づけるか、苦とそういう付き合いができる時に初めて悪は善を強化する要因になれる -
>>66
ふむふむ🤔 -
でも辛すぎる時は、キリストにーさんにお願いして、この聖句を読んで亀のようなガード戦法に限る
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
(?コリント 10:13) -
サティってマゾだね
-
>>52
いや、
主語が罪(そのもの)なら、
述語としての罪は 新規の意味を為さない、と思いますが。
すなわち 罪を犯す、負う以前に
人の代わりに罪そのものとなられたことは、
ピリピ 2:14で戒められてる罪(=不平を言うな、呟くな)すら
ご体現されたということでしょう。 -
尾木ママ似のマゾヒスト・サティ
-
ふむ🤔
-
>>69
法と運命と世界と語らう方法論の話だw -
ネクザのIDがDTなんだけどw
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>>70
うーん、言ってることの意味がよく分からない -
>>56
厳密に言葉で説明するとなると難しいものですね。
万民の罪がボワっと煙のようになって、十字架のイエスの身体の中へ凄い勢いで吸い込まれて、
それで、イエスの心・人格・肉体の全体がは罪そのもの呪いそのものとなり、地獄へ堕ちて徹底的に苦しめられて、
徹底して苦しみ抜いた代償としてイエスの罪は、神によって地獄で脱ぎ捨てられて栄光のイエスが復活した。
こんな漫画アニメのように考えてるなら誰であれパウロの贖罪原理を誤解している。
万民の罪を吸収したゆえに悪鬼(サタン)となり果てたイエスが信者自身の姿なら、慰めも救いもない。
まるでイエスはただのオモチャではないか。
無原罪の人間イエスが苦しまれたからこそ信者自身の悔い改めを通して限りない慰めと赦しが与えられる。
そこに神の愛がある。
イエスの神性が端的に示されているのである。 -
>>56
>イエスの心や人格まで 卑下されたか
プロテスタントでは、
「この杯をどけてください」「エリエリレマサバクタニ」を
卑下の骨頂、神から離れた心の叫び、とします
今度はおたくが回答する番です
一、ニッキ牧師の「罪そのもの」を許容する理由は?
二、神は愛、愛は心、だから神は心、としますか? -
もし、マチ子さんの言っているイエスの十字架が >>76 の漫画アニメのようなストーリーなら(事実その様に思えるが)、
それは「偽の福音」だと断言出来ます。 (おそらくシャロンさんはそのことを言い続けてるのだろうと思う)
人間の罪の悔い改めと赦しとは、そんな機械的なオモチャイエスを解した差引勘定で成立しているのではありません。
( パウロも長老ヨハネもその点を手紙の中で強調している。)
そんな悪魔的な発想でひたすら繁栄を連呼して祈るなら、それは反キリストです。
苦しむイエスの心を、見つめる信者の心で汲み取れないのでは無意味です。
偽りの繁栄はサタンに由来すると説かれて居りますよ。 -
>>78
また単語に戻って「意味するところ」の視点が抜け落ちてるんじゃない?
罪そのもの、はプロテスタント的に「キリストが自罪を犯した」ではないですよね?
プロテスタントの罪そのものが意味するものは贖罪や受難の「強調表現」なのであれば、それは文学的な表現でしかなく、プロテスタントにとっても、カトリックにとっても、贖罪や受難の人類におけるとてつもなく大きな価値の認識は変わらないすね -
>>79
まちこ派はもういちいち指摘しなくていいすよ
基本信条嫁、でFAすw
まちこさんの本質的な問題は(自称)牧師なところだと思います
彼女はシャロンさん的な人を量産し得る
それはとてつもなく罪深いことだから、まちこさんが心配 -
ジャン・カルヴァンって16世紀になって現れた一神学者でしょう。
聖書そのものに示される贖罪原理を自分勝手曲げて解釈して、奇妙な設定(作り話)バネにして、
何か言ってたところで・・・ 「だからなに?」としかならないよ。
カルヴァン信者以外には関係ねぇーことだよ -
>>83
んーと、ネクザさんのいうカルヴァンには文学的表現が存在しないって主張は、キリストが自罪を犯した、ということをカルヴァンが言っている、ということを意味しますか? -
当のまちこがキリストは罪を犯さなかったとはっきり言ってるんだからもうそれでいいのでは?
-
ねー、でも気になるみたいよ
-
atheistさんへ
781atheist2018/10/12(金) 01:01:05.35ID:WmS6+7rX>>785>>797
>>760
カトリック(カテキズム)の神義論ね
これを納得するにはまさに信仰が必要で
俺は納得することができない、ということね
例えば、病気になるとか苦痛を強いられるとか、あるいは奴隷になることですら
悪の結果から善を引き出しうる、とは言える
でも俺にとってはアウシュビッツや広島はその限度を超えているのね
無差別大量虐殺というだけじゃない
その殺され方のおぞましさに神の経綸としての意味を見出すことはどうしてもできない
もっとミクロには、罪なき赤ん坊が日々死していくことに神の経綸としての意味など見いだせない
ということです
797シャロン2018/10/12(金) 01:10:56.57ID:Q8ThERuu>>809
>>781
最後に
だからこそクリスチャンは祈る使命を受けていると言えるの。
それでも祈るのよ、絶望の中で。
☆上手く説明できれば良いのだけど
アウシュビッツ強制収容所や広島での絶望の叫び
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」のイエスの叫びと重なります。
彼らの叫びをイエスは叫ばれたのだと思います。と言う事は彼らをイエスは
見過ごしにされたわけではない、共におられた。どこまでも人間の叫びに心を
添わせられる。そして復活なさったのです。ここに愛があると私は思います。
そして十字架の勝利、神の栄光。私たちは見捨てられたのでは無く孤独でもない。
私はこのように受け取りました。ここにまちこさんとは相容れない悲しみがあります。 -
650 :ネオ・グノーシス・ソピア教会広報[]:2016/01/03(日) 18:59:44.98 ID:njXj951s
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>>93
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はっきり言って私はあのグループの人たちの持つ信仰は怖ろしいと思います。
心の中から一刻も早く捨て去るべきものと考えています。
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