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心と宗教
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【イエス】癒し主 救い主 【キリスト】Part 228
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『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
(マタイ 22:37-38)
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
(ガラテヤ 5:19-24)
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
(ルカ 9:23)
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
(ヨハネの手紙第一 1:10)
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。
(マタイ 28:10)
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この但し書きがあるにも関わらず名前欄の記入無しで書き込む場合、それは話をする気の無い人で、このスレを荒らす人です。
荒らしは無視するようにしましょう。
「◆tZZfT7L/3w」「◆L2ew5aH3E3Qf」等の成りすましも過去の発言を追跡できないようにする荒らしなので無視しましょう。
類似スレで利用者を迷わせないために、次スレは>>970以降に立てましょう。
※前スレ
【イエス】癒し主 救い主 【キリスト】Part 227
https://rio2016.5ch.....cgi/psy/1561039083/ - コメントを投稿する
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>>1
スレ立て、ありがとうございます。m(__)m -
主イエスよ、ふりんまちこが悔い改めますように!
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ふりんまちこは地獄行なんですか?
自業自得とはいえ、かわいそーです
主よ、ふりんまちこを救い給え
そのためには悔い改めがふりんまちこには必要条件です -
日本国の「セックス崇拝」の強烈さは素晴らしい。
李氏朝鮮の頃の「試し腹」など、行政調査・行政指導を徹底して行い、
日本国を世界第三位の経済大国として君臨させている。
これは「モーツァルト」がなければ成り立たなかったし、滝廉太郎などの影響も
あるのだろう。
https://www.youtube..../watch?v=nEKIZA6M1V8 -
1995年まで、日本国においては「ゲイ」の存在は秘密とされていた。
新宿二丁目とかさぶなどは「上流階級の噂話」の域を出なかった。
しかし、「笑えるかどうか」で、男社会の「8%」のゲイ・オカマ(肉)を公にするかを
判断した。
中国の台頭や、オウム真理教事件を経て、「オリンポス山を汚すな」という制止を
振り切る形でメディアで公表された。
しかし、そのおかげで「いじめ対策」が明確になったのだ。
https://www.youtube..../watch?v=gmbs7Xb3Csg -
詩篇2:2-5 君主は静かに暮らしていたが、王が無能な君主に「たくらみ」を行った。
君主は王たちの「たくらみ」に笑うこともあったが、怒ることもあった。
「オカマ」であるから無能な君主なのだ。
無能さをののしられることは「オカマ」をバカにされることだ。
無能な君主がいては何をやっても栄えない。
列王記1 18:21-27 エリヤとバールは神の無能さを罵った。
列王記2 18:21-27 少年たちは「禿げ頭」にすら笑うオカマであった。
ホッブスのリヴァイアサンで1651年に指摘されていた「オカマ」の問題であるが、
欽定訳聖書では1982年に「世界でオカマの受容」が行われた。
アメリカ合衆国、日本国の1995年よりもはるか前に、ソビエト連邦との戦いに
悲鳴を上げていたのだ。
しかし、このことから、冷戦は終結している。
https://www.youtube..../watch?v=u9sVrUCvMBk -
カントは「アダムがオカマでなくて助かった」とため息をついた。
男社会の8%はオカマだ。
しかし、そんなものは「国家の存続の危機」の時のためにとっておけよ。
アメリカ合衆国は1982年に、日本国は1995年に、「その時」を迎えたのだ。 -
ノイマンとモーゲンスターンは1944年に「ゲーム理論」を考え、プロスポーツの
勝敗の行方を左右する音楽作品として、それを提示している。
それは、バール信仰の核心部分を構成した。
高井麻巳子 こわれかけたピアノ
https://youtu.be/9NT-c1K9HxQ
ゲーム理論のコンセプトは「女でも死ぬか重症を負うかの勝負を思春期に行っている」
というところにあった。
メキシコを征服したスペインのコルテスもアステカ相手にこれを行っていたとされる。
コルテスは、船を燃やして、本国にはもはや帰るつもりはないという意思表示をし、
戦いへの自信を示した。
「バロック音楽があるから、我々は最後の審判を恐れていない」
そのようにヨーロッパ人は考え、裁きの場(戦場)に向かった。
シェークスピアの「ヘンリー五世」にもゲーム理論は登場する。
ホッブスのリヴァイアサンにおいては、「イエスはメディア王」とされ、バアル信仰と
イエスキリスト信仰は同じ意味であるとしていた。
裁きの場(戦場)の王であったからだ。
あくまでも「ゲーム理論」は中学生の恋を意味し、「多数派工作」(道徳)・「他人に影響を与えること」(訴訟)
を考え始める女子大生や社会人にはないものだった。
しかし、「思春期」「十代」ほど大事なものはなかった。
バアル信仰を背景にしたイエスキリストは、メディアの王であり、芸能界(行政)の長
であった。
男の子に「勉強やスポーツ」を学習させたのも、イエスキリストの都合であった。
「告白したい男子がいる」
これが重要だったのだ。
道徳や訴訟を覚えるたびに、女の子は「純粋さ」を失っていく気がした。
もう、制服じゃないの。私はもう純粋ではない。
女たちの「恋愛ゲーム」はどんどん複雑化したが、戦場で使える音楽作品は
はたしてどれほどあるかは明らかではない。
https://www.youtube..../watch?v=wmWXoHQeO2E -
主の目は義人たちに注がれ、/主の耳は彼らの祈にかたむく。しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」。
https://www.bible.com/1820/1pe.3.12.口語訳
第一ペテロ3:11 -
「名誉職」
我々も、令和の新体制がスタートして、二ヶ月が経過するが、強烈なストレスが
どれほど新体制に安定感をもたらすかを経験したところである。
しかし、そこで、上皇・上皇后の役割について指摘したい。
まず、今まで「テレビ」(行政)でよく知られていたこと、立法つまり、周囲にカネをばら撒いたこと、
そして、司法つまり、音楽作品によって恋愛に詳しかったことが名誉職の存在意義だ。
あるいは、今の天皇・皇后の「実像」をよく知る立場にある。
バロン・ド・モンテスキューは「天皇がオカマについて方っても株価が暴落しないのは
名誉職があるおかげである」とし、上皇・上皇后の存在意義を語った。
以前、私がジョゼフ・バトラーの「ヘンタイ」の研究を公表したら、日経平均株価は
千円以上の大暴落をしている。
つまり、「肉」と「魂」の研究を深めることが出来たのも名誉職が存在するおかげである。
「ペルシャ人からの手紙」とは「ペルシャ人」つまり「肉」(オカマ・いじめっ子・ジャニーズ系)
の研究のことであるが、国に混乱を引き起こさないで「いじめ撲滅」をやることは名誉職
が存在しなければ「天皇には不可能」と考えられている。
https://www.youtube..../watch?v=gmbs7Xb3Csg -
ペルシャは「イラン」と名称を変え、オカマを「ウズベキスタンへ」を追放し始めた。
ウズベキスタンとは、ヨーロッパで言う「オランダ」であった。
ウズベキスタン(肉)の、イラン(魂)崇拝は強烈なものがある。
肉は「恋愛論が理解できない」という特徴があった。
ハメネイ師を崇拝しながら、恋愛論を理解できない、イランのスター(永ちゃん)に
声援を送るのがウズベキスタン人の役割であった。
組織内部の「いじめ撲滅」を、若い指導者が自由に行うために名誉職(上皇・上皇后)
という役割が存在するのであり、もし、名誉職の立場の人間が「人を殺せ」
と言うのであれば追放するしかない。
「人事に口出しできない名誉職」というのは基本なのだ。
それさえ守れば、王朝はかなり力を持つ存在となるだろう。
いじめさえなければ「仕事は定時で終わる」とも言われる。 -
なぜ、「肉」は「魂」をいじめるのかは「そういう奴がいると下痢をしてしまうから」
という観点を指摘したが、ようするに「太か〜!」という便を経験したいからだ。 -
カントの「口説き文句」はオカマには理解できなかったし、高貴なものにしか
分からなかったため、恋とはそもそもが「高貴な」(ノーブル)ものとされた。
https://www.youtube..../watch?v=48i8OZ1zkb0 -
このようなことは、民の支持のある君主制においては必ずしも君主は書けるものではない。
むしろ、名誉職(上皇・上皇后)の存在を踏まえた専制主義において書かれるものだ。
「太い便をしたいだけのために人をいじめる」ことを明らかにすることは、
確実に「8%の男」を敵に回すからである。 -
初めて来たのですがここの糖質という人はこのスレではどうような存在ですか?
連投荒らしなら、くだらないので
見るのを止めようと思います。
下品とかよりもつまらなくて読む気もしない -
オカマは常に「解雇」「放校」を恐れながら人をいじめていた。
カント(口説き文句)やニーチェ(女心の定義・ルサンチマン・政治)を知らないまま、
組織に属していたからだ。
太い便さえできれば人生に目的などなかった。
「つぶしがきかない仕事」とも言われた。
行政(芸能界)・立法(周囲にカネをばら撒く世界)・司法(恋愛論)の三権分立は
ノンケの男にとっては区別は明確ではなかったが、オカマにとっては「テレビにしか居場所がない」
という男を確実に生み出したのだ。
三権の長(天皇)に声援を送ってさえいれば、下痢はしなかっただろうが、
非力な皇族は「下痢をするために」容赦なくいじめた。
このような「肉」の論理は処女たちに人気があったし、普通の女たちも興味を持った。
肉はとにかく「社長の悪口を言う常務会」にしか居場所がなかったし、そもそも社長には
なれなかった。
しかし、女たちに人気があった。
このことを理解することは、「外国国家の常務会」「肉」と手を組むという基本が存在することを
意味するため、やわらかな「戦争論」とも呼ばれた。
また、留学生は「体つき」で選抜しろとも言われ、貧弱な体をした男はカマを掘られた。
このことを理解しないと、どれほど今までのキャリアを台無しにされるだろうか?
「金がない」「受験に失敗した」という二つが、男がカマを掘られる理由であるが、
このような「肉が食べたい」というメッセージは、パガニーニのカプリースにこめらているとされ、
パガニーニのカプリースを流すと為替にいい影響があった。
https://www.youtube..../watch?v=bUu1Xw-dltI -
>>18
こんにちは。
今、彼は、ここが一番気が休まるところだと思います。
イエス・キリストと関係ない話しをしていますが、気になる彼のレスがあれば、話しかけてください。
イエス様の件で、あなたが聞きたいことがあれば、誰かしら出てくるので聞いてみてください。 -
>>20
イエス様が十字架で悪魔の性質になったというのは本当ですか? -
オカマが統計的に多いプロテスタントにおいては「民の支持のある君主制」がいいとされ、
オカマが少ないカトリックにおいては「専制主義」がいいとされる。
私は、現在、芸能界(行政・プロテスタント)と密接に関わっているため、
オカマの話しをしなければならない。
横浜市民(カトリック)にはふさわしくない話題かもしれないが、「都市伝説」の域を出ない
とされながらも、専制主義の救いとなるのが「オカマ」の話題なのだろう。 -
イエスキリストが「オカマの論理」「太か〜!」を本当に理解した時に、
そもそもが「民の支持のある君主」であったために、イエスは「悪魔の本質」
と人々に噂された。
民の支持のある君主制が、もし民の支持を失うことがあっても、専制主義に
堕することなく、いつでも人気を復活させることが出来るようになったのだ。
それのみにとどまらず、外国国家もイエスキリストの「主権」の範囲に
含まれることを望んだ。 -
>>21
ハイ、イエス様は神の子でしたが、私たちの性質とチェンジして、私たちの罪を私たちの代わりに請け負ってくださいました。
あなたの教会でそのことを最初に教えてくださるはずですが。
✝キリストは、私たちの為に、呪われたものとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。
ガラテヤ3:13 -
カント(口説き文句)も、ニーチェ(女心の定義・ルサンチマン・政治)も知らないのに、
その場を仕切りたがるオカマは、犯されることに怯えていて、それでいて、声が太く、
外見も男だったため、とにかく「ファッションにこだわる」というルールをもっていた。
ファッションを知らない男を「秘密の暗号」でいじめることにしたのだ。
とにかく、カントやニーチェにはついていけなかった。
アナルセックスという快感を知っている以上、もはや、「女を口説く」「女心」
などには興味がなかったのだ。
このことから、幼い恋(みんなが噂しているから好きになる)というものも生まれている。
https://www.youtube..../watch?v=Mrq5ik3IiZU -
イエスは「磔」にならなければ、尻に「青銅の蛇」をぶち込まれることもなかったし、
「悪魔の本質」を知ることもなかっただろう。
「民の支持のある君主」が、ヨゼフとマリア(上皇と上皇后)という名誉職の存在のおかげで、
専制主義に堕する(人気を失う)ことがあっても、いつでも人気を復活させることが
可能になったのだ。
プロテスタントは、オカマの多い世界であり、「常識」というリアクションや「下品」という
反応をしたが、
カトリックは、「青銅の蛇」の話しを「都市伝説の域を出ない」「面白いね」と話し合った。 -
青銅の蛇という言葉がキリスト教社会に突如として登場したのが1981年のことであり、
今まで、哲学者が、「女心」について研究していたところ、「理解できない」「面白くない」
と言っていた「オカマ」=「肉」を、笑いの対象としてさらに深めることにつながった。
カントやニーチェなどに通じている男に「青銅の蛇」をぶち込むことは、
「クジラによる睡眠」と同様に、全体主義につながる恐れがあるとされた。 -
プロテスタントの世界では、「男が体を売るのは当たり前」と言われて、
まったくウケなかった話に過ぎない「青銅の蛇」であるが、カトリックではウケた。
イエスの尻に「青銅の蛇」をぶち込んだのかどうか?
これは当然、各宗派の解釈次第であろうが、「ウケない、笑われたくない」男は
プロテスタントの世界では「8%」ではすまない人数がいた。
このあたりの、「肉」と「魂」のバランスを「人間」という議論でどのように受け止めるべきなのか?
それも含めて、天皇・皇后は「上皇・上皇后」という名誉職の存在がなければ、
「青銅の蛇とは何か?」という議論は明らかにはならなかっただろう。 -
2004年に、シュトローソンは、「日本国でこれがウケるのならば、日本国は
カトリック国である」としている。
芸能界(行政・プロテスタント)の世界では「青銅の蛇」は「何が面白いのか?」
というリアクションであり、狙いが絞りきれなかったのだ。
https://www.youtube..../watch?v=0j2o4x226F4 -
>>24
呪われた者になったというのは、身代りになられたという意味であり、サタンの性質になったのではありません。
どこの間違った教会で習ったのですか?
ペトロの手紙一/ 01章 19節
きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。 -
そもそも、シュトローソンは1982年に「怒りを歌え」というテーマソングで
「カマを掘られる男をなくそう」という運動を起こしていた。
2006年までこのムーブメントは続き、日本国はカトリック国としてのアイデンティティを
確立していたようだ。
2009年にはアメリカの「陣営」が、その効果を確認して撤退している。
「これで日本国も法律(男らしさ)が分かるようになるね」
キス派(カトリック)か、胸派(プロテスタント)の違いも生じた。
https://www.youtube..../watch?v=N-vy52v8H88 -
胸派(プロテスタント)の、「肉」(オカマ・いじめっ子・貧弱な体)に女たちが
「吐き気」を感じたため、発言の節々に「芸能人生命」を削ぐ言葉があった。
「おっ○いも禁止」の意味が分かるようになればいいのだ。
なぜ禁止なのか?
胸は女にとって「私とは何か?」という問題だからである。
なぜ、吐き気がするのかは「計算が面倒になる」という仮説が考えられる。
男でも、非常に面倒な計算には吐き気がするし、受験時代に「吐いて」簡単な
軍師官兵衛として生きようと決めたものも多い。
学問は「やるかやらないか」という側面があり、「やらない」と決めたのならば
簡単な人生が待っているだろう。 -
ツイッターなどのSNSの使い方は「女を漁る男がいる」ことを想定して作られている。
結婚している男が「使い方」に詳しいのならばむしろ恥ずかしいよね。
外に出れば普通にすれ違う「女」目当てにツイッターかよ。
文字だけだと、どこで女が怒ったのかの見極めが困難だ。
人間は「100回発言すれば7回は相手を怒らせている」とされ、その「ポイント」
から人物像を特定していく。
言葉の数が男よりも少ない「女」を相手に「お金」=「音符でできた言葉」=「哲学」
を語る男は、なかなかおらず、閉鎖的空間だけが待っているのだろう。
https://www.youtube..../watch?v=LGfIKQZYkDA -
「文字だけならどんな学者もどんな有名芸能人も対等」であるとされ、
暖簾はほとんど通用しない分析哲学(女の嘘)の世界だとも言われる。
「ヒステリーを起こす女ほど美しい」という見解も存在する。
いずれにせよ、「肉」「魂」「人間」という三部作は「上皇・上皇后」という名誉職が
いなければ総括しきれなかったし、君主が「オカマ」について語るだけで体制不安が
引き起こされる。
その代わり、名誉職をうまく利用して「肉」「魂」「人間」という三部作をまとめきったら
かなり永続的な体制が保障されるだろう。 -
1959年に西ドイツのブラントが、「男は男であり、女は女であることに気が付いた」
とし、これを「文化の時代」と呼んだ。
ブラントは、ワルシャワのユダヤ人ゲットーにひざまずいている。
私も、同じ論法で、従軍慰安婦像にひざまずいたことがある。
ブラントの頭には「ノンケのイエスキリスト」があり、「女の子が女になるのは当たり前ではない」
ということのみならず「男の子が男になるのも当たり前ではない」という理解があった。
ノンケのイエスキリストとしては、ユダヤ人ゲットーにひざまずくのは「発想が自由でいい」
とされた。
https://www.youtube..../watch?v=oSiQ3B1MpAs -
家事審判法には「公益性の高い甲類」と「紛争性の高い乙類」があり、紛争性が高いのであれば、
「結論が女性たちにモテる」「アカデミズムへの貢献」を考えなければならない。
ニスベットは、1996年に「ノンケのイエスキリスト」が主流であるかどうかで地球の「北と南」
を区別した。 -
「美しい経験だと思った」という南半球の論理を、プロテスタントも一部にもつことになったため、
「偶像崇拝の否定」を行う論客も存在する。 -
紀元前540年〜537年のオリンピックにおいてはキセノファネスが活躍した。
旅をする「ラプソディ」(狂詩曲)の歌い手として知られた。
ラプソディが登場した時にオリンピックは始まっているため、バアル信仰は
オリンピックととも、そしてキリスト教とともにあったことになる。
「男性的観点から女心を語らないとバアル信仰は成り立たない」
このことから、イエスキリストの尻に「青銅の蛇」をぶち込めという「磔」は
行われたのだ。
想定外だったのは、イエスキリストはすでに哲学をマスターしており、
「肉」「魂」「人間」という三部作を完成させることに「青銅の蛇」はつながってしまい、
悪魔の性質を身につけたとされたことだ。
バアル信仰(プロスポーツの勝敗をコントロールする信仰)以外にも、
エンターテイメントが青銅の蛇から生まれた。 -
2006年に日本国はカトリック国としてのアイデンティティを確立しており、
イエスキリストは「スポーツとエンターテイメント」の二つの方面から祝福された。
ファッションや花言葉を用いて男性社会に優位に立つという発想以外に
オカマにはなかなか音楽作品は根付かなかった。
https://www.youtube..../watch?v=1GQ00GrRMz8
「私の16歳」は、パガニーニのカプリースを参考にしたとされる。
皇室は海から来た。
ノクターンを聴きながら男女で合体すること。
https://www.youtube..../watch?v=ckCHS4vtH3U
クジラの声を聴きながら眠ること。
https://www.youtube....P7kcr-sc&t=4671s
神は天地創造の6日目に「光よあれ」といって、女性を動物ではなくした。
つまり、「昼間」を作ったのだ。
それ以前の、皇室は明らかに「海から来た」のである。 -
夜、熟睡したら、昼間は「音楽作品とオリンピック」があった。
それで人生が成り立っているのだ。
応援する側も「音楽作品」の耳学問をやって、オリンピックに参加できることになった。 -
名前欄入れましょう
-
>>43
ヨハネの黙示録/ 12章 11節
兄弟たちは、小羊の血と/自分たちの証しの言葉とで、/彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
※ここでは、誰の血でサタンに打ち勝ったとありますか?
悪魔サタン、蛇の血ではサタンには打ち勝てないのです。
信仰の点で、素晴らしい点も持っておられるようですが、その間違った認識だけは改めて下さい。 -
>肉体的な死はあなたの罪を取り去りはしない事を!
>彼は死を全ての人の為に 味わわれた。
>彼は霊的な死について語っておられた
これは、イエスの宣教の底流にありましたね。
つまり、肉体の死よりも、霊的な死についてです。
ですから、霊的な死の贖罪をもって
勝利をもたらされたという、論理になっているのでしょうね。
生前の話とも整合性があるという事で。
肉体の死の贖罪なら、古代風習の子供の犠牲や、
それに取って変えられた、傷のない幼い動物と
変わらないからでしょう。
* >の部分はへーゲン氏の自筆書籍からの言葉です。 -
イエスの救い主たる所以は、
私たちが、霊的な死=サタンに誘惑されて、
サタンの性質帯びる事から、救うです。
神と和解し直流する愛と光の道を切り開く
超人的なイエスの十字架の贖罪の御業は、
肉体と霊が同時に死を超克するという、ということであり、
そこにおいて、霊的な死も肉体の死もなくなり、
復活体の栄光が現れます。 -
教会いきますので、いそぎコメントさせていただきます。
>>24
>>✝キリストは、私たちの為に、呪われたものとなって、私たちを
>>律法の呪いから贖い出してくださいました。
>>ガラテヤ3:13
ここは後半の文を抜かすとパウロの真意が伝わらないと思います。
口語訳聖書 ガラテヤ 3:13
キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを
律法ののろいからあがない出して下さった。
聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。 -
神殿祭司や律法主義者は、幼い動物での贖罪で罪を逃れる事を
してきました。
しかし、どう考えても、表面を取り繕う誤魔化しであるのはあきらかです。
あるいは、自分の罪を他に被せる、魔術です。
イエスが挑まれたのは、そのような律法主義の誤魔化しでなく、
霊的な死に繋がる、サタン性を帯びやすい人々を救い出す事です。
肉体と霊とを分離させず、
同時に新生させなければなりません。
しかも霊的にサタン性を帯びない、
罪のないイエスであればこその贖罪の十字架です。
なので、サタンではないが、サタンになったというのは、
動物ではない、神の子イエスの成し遂げであるのです。
そうでなければ、私たちに霊的な死から、解放される光の道を
すなわち神に繋がり、和解する道をつくりだす事はできなかった、
そのような、目も眩むほどの大いなる愛の出来事です。 -
>>46
イエス・キリストは、十字架上において、私たちの罪の性質と入れ替わったのです。
ずうっと罪の無い子羊の血です。
ですが、どのように、悪魔が騙された分かりませんが、イエス様を罪ある者として死に至らしめたのです。
そうでないと、イエス様は私たちの身代わりとなりません。
罪の報いは死です。ローマ6:23 -
とりあえずのコメントですみません。
イエス様がサタンとなったのではなく、サタンの呪いを全て背負わされて、
全人類の呪いを全て背負われて、十字架上で命を絶たれたと、解釈すべき
だと思います。 -
もし、いっときでもイエス様がサタンとなられたのであれば、その時点で
神様を呪い、被造物全体も全人類も呪うものとなったはずです。
その時点で、イエス様はわたしたちを呪われ、その存在全てを否定する者
となったはずです。
イエス様の救いとは、十字架上で精神的・肉的にはサタンに破れたけれども
逆にその事を通して霊的には、最後まで神様の子供として勝利をえられた
はずです。一時期でもご自身がサタンになってしまったのなら、救いは
完成しないと思います。 -
神は死ねない。神から離れないと
-
私は、イエス様が〜サタンに〜というのが分からなくて、
しつこく、まちこさんに聞いていた時期があります。
まちこさんも、青春時代から米国におられて、
日本語の表現が、英語的で、わかりにくく、
上手く、伝えられていなかったと、詫びられていました。
しばらく後に、まちこさんがその時より上手く説明して下さり、
私はピンときたのでした。
え〜〜サタン、だなんてというような、話ではなく、
そもそも体も処刑される悲惨さなわけですが、
サタンを処分(勝利)するとは、霊的な分野でありますから、
十字架の贖罪の意味するところは、そこまで深く・・・・・
なるほど、その理解がないと、煮え切れない事に
筋が通ると思ったのでした。
我々を目に見えない霊的に救う御業の道を開くことができたのは、
穢れない動物の贖罪と、まったく次元が違う愛。
私は、どこの教派にも所属していませんが、カトリック教会に
今、縁がある者です。 -
>>53
イエス様がサタンの性質になられたから、死が用意されたのです。
中身は違いますが、神が用意されたことです。
「彼は陰府に捨てて置かれず、その体は朽ち果てることはない」使徒2:3
だから、イエス様は、神にすべてを委ねています。
私たちも神に委ねる、ということは、肉が死んで、霊が生まれ変わる、というイエス様と同じ足取りを踏みます。
それで、この聖句があるのです。
「今日、わたしはあなたを生んだ」 -
まず、イエス様は罪はない。
それは、共通認識だと思います。
人間の罪人として十字架で、体を処刑されます。
けれどもしも、霊的な罪人は嫌だと思うのであれば、
罪人として、体の処刑も 同じぐらい抵抗し、そんなことは
なかった、贖罪などなかったとしなければ、なりません。 -
簡単にいいますと、罪なき者が人の罪を被って、
罪人として、処刑されるのですから、
罪人でないけれど、罪人になった、という表現です。
サタンでないけれど、サタンになったという表現です。 -
とりあえずですみません。^^;;
救いの本質はまさにこの部分にかかっていると思います。
サタンの支配するこの世において、肉的精神的にサタンに敗れる場合もある
と思いますが、イエス様を信じる(信じようとする)者にとっては霊的には
死に至るまでも、神様の子供としても霊的権利が保証されている。そして
後の世においては、永遠の命に預かる。
もし一時期でもイエス様がサタンになられたとすれば、その方を主と仰ぐ
わたしたちも、救いの何処かでサタンになる必要があると思います。 -
>>59
あなたは、驚くかもしれませんが、クリスチャンになる前の私たちの姿は悪魔の子だったのです。
悪魔の子から、神の子にするために、イエス様が私たちの為の贖いが必要だったのです。
なぜなら、この世の神は、悪魔だからです。
悪魔の性質がずうっと引き継がれているのです。
罪を犯す性質がその証拠です。 -
>>58
という事は、イエス様はサタンにはなっていないという事ですので、まちこさんの説明は明らかな間違いです。 -
>>63
分離できるか -
>>56
サタンの性質にはなっていません。
ヨハネの黙示録/ 07章 14節
そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
※サタンの性質になったのであれば、もはや小羊の血ではなく、蛇の血でしょう。
サタンの血では贖う事はできません。 -
>>62
異端カルトの婆るまちこさん。
あなたの神学は論理的に破綻しています。
悪魔の子から神の子となり、神の性質を分与されたのであれば
悪魔の性質である死をクリスチャンは克服して永遠の命にあるはずです。
しかしクリスチャンも死にます。
すると救われたクリスチャンは、一旦悪魔の性質へと変化して死に
その後で神の性質へと復活するのでしょうか。
なぜ神の子となったのに一旦悪魔の性質となって死ぬ必要があるのですか?
説明できないでしょ、あほうの婆るまちこさん -
>>66
イエスが私たちの身代わりになったのは、十字架上です。
その姿が死んだのです。
死んだイエスを完全に復活させたのは神です。
使徒2:24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。 -
>>とりあえずですみません。^^;;
救いの本質はこうではないでしょうか?
精神的肉的に死に至らされることが有ったとしても、信じる者の霊は守られ
それは、永遠の命につながる本当の命であるということ。もし一時期でもその
霊がサタンになったとすれば、その時点で霊の命は死を迎えることになり
救いは完成しないことになると思うのでうす。 -
>>63-64
イエス様は、体は霊も、復活されます。
両方、死んでいない。両方と言うのは変な言い方ですが、
一体となっていますから。
死とは、サタン(死霊)からもたらされるのです。
栄光の復活体は、
聖霊で満たされた体であり、この聖霊は死なないのです。
なので、体も死なない、栄光体となるのです。
私たちは、体が死んだら、霊だけになります。
その話と混同があるのでは?
サタンとは、霊の性質のことですから、
その死の性質に勝つには、その死の性質に死んでもらわなければ
なりません。
霊は死にませんが、サタンの死の性質に死んでもらうのです。 -
>>69
身代りですから罪のない方が罪人として処刑されたのです。
百歩譲って、サタンではない汚れない小羊がサタンとして処刑されたと表現したとしても、性質まではサタンにはなっていません。
神は確かにイエスを復活させましたが、サタンにはなっていません。性質に変化はありません。
ハレルヤ。 -
>>71
サタンの性質を持たないイエス様の霊が、どのようにしてサタンの性質として死ぬのでしょう。 -
人の子が神の子に至る道筋を完全に身代わり示すとすれば、
あらゆる性質を余すところなく知り尽くしているということになりますか。 -
>>74
知っている事と、サタンになるとは違うと思います。 -
>>72
私たちが神の子になれたということは、イエス様も私たちの性質となったということだと思います。 -
>>68
全き人であり全き神 -
>>71
一時的にイエス様の体は死んで墓に納められましたから死んでいます。
栄光の体は復活後でしょう。
霊が復活した?
神の霊は死ねません。
三位一体なる神の第二位格であられるイエス様の霊が、一時的でも死んだなら宇宙も何も存在できないでしょう。
神は死にません。
1ペテロ3:18
キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。
※霊においては生かされたのです。神の霊は死んでいないのです。 -
>>79
その思いは間違いです。決めつけないほうがいいでしょう。 -
>>76
> 知っている事と、サタンになるとは違うと思います。
なるほど。
全知者として、あらゆる性質を体上に表すことは可能かもしれません。克服の見本、原理として。
【サタンになった】とは、サタンの暗澹たる性質、耐え難い苦しみ、底から神に至る階へ、
その克服を知り尽くした上で、それを身代りに歩む慈しみの【最上のレトリック】なのかもしれません。 -
とりあえずですみません。^^;;
自分の間違いに気づきました。
サタンは呪いの対象ではなく、滅ぼされる対象でした。サタンは自身が呪いの対象
ではなく、人間に影響を与えて呪いを生じされる諸霊だと思います。
ですから、サタンは時々神様に呼ばれることもありました。サタンはまさに天使の
逆方向を指し示す霊であり、その道の逆方向をたどれば、天使の指し示す方向に
向かえると思います。ですからサタンは呪われる対象でなく、マイナス点を指摘
してくれる、滅ぼされるものを指し示す霊だと思います。 -
>>85
全能の神の霊が死んだのではありません。
十字架上の死や苦難は肉体としてのものです。
霊が苦しんだとも言えるかもしれませんが、神の霊が死ぬなどという事はあり得ないのです。
そこがあなたの理解のおかしな所です。 -
同じところを毎回やってて飽きないな
-
>>71
悪い性格の人がいるとしましょう(笑
その人が良い性格になったとき、悪い性格は死んだのです。
で、贖罪ですから、ユダヤの王だとか、罪名が付くわけですね、
十字架で身体を処刑するには、
冤罪ですが、罪を被ったのだから贖罪なのです。
人間のサタンの性質も、イエスは冤罪ですが、
被っての贖罪であり、
人間は体と霊を同時に使って生きていて、
むしろその人の霊の性質が体の行いを決定していくのですから、
霊の性質を変えることが、重要であり、
人間の罪を被るのは、その霊の性質も被るということです。 -
人間の罪を被るのは、その霊の性質も被るということです。
贖罪ですよ、贖罪。 -
イエスがサタンとなって、サタンがサタンを滅ぼしたということです。
だから、復活したイエスは、サタンに勝利したのです。
ハレルヤ! -
>>93
誤解を招く -
そもそも性質からしたらイエスはどこまでも神性と言えるのだから、
人間の身代りに罪を背負ったと言っても【性質上は罪はない】から身代りになりようがないし、
人間の世界に降りたと言っても、【性質上は神の御許にいるのだから人間になりようがない】のでおかしな表現なのではないでしょうか。
にもかかわらず【罪を背負った】と言われるのは、これが性質(本質でもいい)を述べたものではないからでしょう。
(神性の)性質上微動だにしていないにも関わらず、【罪を背負い磔になった】というのは、
それが、最 も 慈 悲 を 表 現 し て い る レ ト リ ッ ク だからだと思います。 -
体も霊も死んでいない証拠が、復活です。
私たちは体が死に、霊だけになって
呪縛霊になるか、 浮遊霊になるか、
死んだことを悟った、成仏霊になるか、そらわかりまへん。
イエス様は復活たいでっせ、ちゃうねん、そんなわれわれの霊と。
そろそろ あきらめよか(笑
で、いったんおひらき。 🍰☕ -
>>97
体が死んでなかったなら復活とは言えません。 -
神性は空腹になりませんし、磔にもなりませんよ。
それにも関わらず空腹になり磔になるのは、体上に表したからだと思います。
・・・
霊がサタンになり、克服したとは
単に難解なレトリックというだけではないですか。
意味がわかれば最上のレトリックたりうるのだと。
ただその表現が気に入るかいらないかの違いではないでしょうか。
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