-
日本史
-
富雄丸山古墳にまつわる10の謎
-
UPLIFTで広告なしで体験しましょう!快適な閲覧ライフをお約束します!
近年最大の考古学的発見である富雄丸山古墳10の謎について考察したい
①古墳の形状、地勢について
②古墳成立年代の考察
③被葬者について
④蛇行剣の意味について
⑤盾型銅鏡の意味について
⑥木棺及びその他埋葬品について
⑦記紀や古史古伝との相違、一致点
⑧ヤマト王権との関連性と後の時代への影響
⑨周辺文化や地名との関連性
⑩埋葬品から読み取れる思想及び宗教的観念 - コメントを投稿する
-
資料を読んでいると、よくぞここまでの素晴らしい発見が現代においてなされたものだと感動する
しかも唯一無二の品と石棺墓ではなく初期古墳の文化を留める木棺墓というところに最大の特徴がある -
①古墳の形状、地勢について
現地に直接見に行ったのだが
奈良盆地内矢田丘陵の北東部、富雄川からなだらかに広がる丘陵地の途中に位置する
眺めがよく奈良盆地北東部をよく望むことが出来る場所
近隣には饒速日命ゆかりの社稷が見られ、統治した勢力の関連性を感じ取ることが出来る -
②古墳成立年代について
一般的に富雄丸山古墳は4世紀後半頃の築造と言われている
西暦では300年代
記紀では景行天皇から応神天皇、神功皇后の頃か?
木棺墓について考えると伝統的でもあり、副葬品から見ると最先端、と言った特異な印象がある
だが300年代にここまでの副葬品が製作可能だったかはかなり疑問符、ほぼオーパーツ -
③被葬者について
現段階では全く不明
富雄=登美長髄彦との関連性も囁かれる
ただし実在性、年代共にかなり疑問
登美家を先祖に持つ豪族がヤマト王権で復権を果たし隆盛した結果の産物である可能性はあるかもしれない
物部系は石上神宮にて祀られており武具の特徴などからは乖離している印象あり
また石棺墓では無いことから渡来系と言うよりも海人系、出雲由来の方が可能性が高いと思われる -
④蛇行剣について
ここは議論を重ねたい
過去出土においては西日本で宮崎での出土例が多いため隼人
一族の関連を推したい
造り出しからの出土のため、隼人出身ではなく隼人系からの献上品の可能性はあると思う -
⑤盾型銅鏡の意味について
過去最高の発掘品
見た時は身震いした
盾といえば隼人
しかし記紀での隼人の大和入りは五世紀後半以降のため謎が残る
蛇行剣と同じく献上品や嫁入り品の可能性もあるため考察を深めたい -
⑥木棺及びその他埋葬品
コウヤマキのくり抜き木棺墓に水銀朱、三角縁神獣鏡3枚、9個の竪櫛など、3世紀由来の副葬だが翡翠勾玉や貝輪はない模様
王権継承を示す三種の神器でも十種神宝でもない模様
銅鏡の詳細調査結果が待たれる -
⑦記紀や古史古伝との一致、相違点
この出土品から推察される古史古伝との一致点については未解明
品目についての伝承やヒントについて見解を乞いたい
地域的には伝垂仁天皇陵墓を見下ろす様な立地にあり関連性を考察したい -
⑧ヤマト王権との関連性と後の時代への影響
前方後円墳ではなく小さな造り出しであることからヤマト王権との関連が低い反面、ここまでの豪華な副葬品のため王権とは一線を画した有力者の墓と見られている
しかし副葬品に三角縁神獣鏡があり発掘が造り出し部のためヤマト王権が前権力者の外戚を確保するため婚姻関係を結んだ線は考えられる
とすると出雲系、登美家が想像されるが確信とするには早計か
三角縁神獣鏡を木棺に入れ、蛇行剣と盾型銅鏡を外郭部に配置している所にヒントがあるかもしれない -
⑨周辺文化や地名との関連性
矢田丘陵の先端
ここは神武東征時代、ヤマト王権成立前に重要視されていた場所と認識できる
また登美、富雄の地名は長髄彦を彷彿とさせる
近隣の生駒、交野を本拠地としたとされる饒速日命と言えば物部を想像させるがこの古墳においてはあまり関連性を見いだせない
また戦乱時ではなく戦乱後の鎮静を図るため特別な祭器を制作した、というような印象を受けるためこの祭祀方法が後世に影響を与えたとも考えにくい -
⑩埋葬品から読み取れる思想及び宗教的観念
ケガレ、怨念の封殺?
被葬者の出自に関わる文化的継承を祈った?
主被葬者への生贄として造り出しに密かに葬られた、または殉死者?
割竹型木棺墓は丸木舟を連想させる
一部の海人族由来の被葬で大王の外戚や家来の可能性
割竹といえばかぐや姫
やはり大王系から外部有力者への外戚を象徴しているような気がする
ここで浮かぶのは瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子である火闌降命(火照命)で隼人の祖
この海幸彦、山幸彦の説話が4世紀のヤマト王権とどう関わるかは不明なところ -
以上
適当に書き連ねたが、ここから考察を深めてこの特異な出土成果への理解を深めていきたいと思う -
④蛇行剣
文字が掘られていないのが残念
この時代なら石上神宮の七支刀が近似した水準かと思われるが技術、製法、地域、用途は全く違う気がする
それに七支刀は記紀に記載があるが蛇行剣は全く記載にない
多分後世には忘れ去られている
当時の七支刀に対抗する威信財とかならかなり胸熱だが -
2024/03/14
【考古学】富雄丸山古墳、木棺から「三角縁神獣鏡」発見か 被葬者は巫女の可能性 [すらいむ★]
https:
//egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1710421369/131-134
2023/02/08
奈良・富雄丸山古墳から「国宝級の大発見」…神話に秘められた「被葬者は誰か」の異説
https:
//www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20230206-OYT8T50015/
2024/05/07
国宝級の副葬品を次々と発見! 奈良「富雄丸山古墳」は誰 ...
https:
//wpb.shueisha.co.jp/news/society/2024/05/07/123073/ -
2023年01月30日
富雄丸山古墳 被葬者は・・その4 ニギハヤヒとナガスネヒコ
http:
//nanndaka1123.livedoor.blog/archives/2023-01.html
タグ:富雄丸山古墳
http:
//nanndaka1123.livedoor.blog/tag/%E5%AF%8C%E9%9B%84%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 -
2024/06/29
【文化】国内最大の鉄剣「蛇行剣」が初公開 日本最大の円墳から発掘 奈良・富雄丸山古墳 [Ikhtiandr★]
https:
//asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1688012840/
https://lavender.5ch...6/54,122,125-126,128 -
騎馬民族征服王朝説を見直す
―応神朝の成立と東アジアの騎馬文化-
https:
//www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7151760
「騎馬民族征服王朝説と大和・河内王朝交替説」〔4月〕
騎馬民族征服王朝説を見直す―応神朝の成立と東アジアの騎馬文化-
https://www.asahicul...ku.do?kozaId=7155452 -
なるほどね
王朝交代にまつわる生駒山麓勢力の駆逐と日向(隼人系)勢力の跋扈か
これにより河内系王国が建設されたと
確かに空白の4世紀に対する画期を封印した様な遺物なのかも -
円墳大王が前方後円墳大王を倒して王朝交代したんだろうな
-
記紀の王権から離れた事象なら記録から抹消されてる
ここもその1つだろうな
それにしても出土品が凄すぎて隠しきれてない感じが良い -
>>26
すぐにやり返されたな -
めまぐるしい王朝交代の嵐
-
>>26
河内王朝の人々が暮らしていた遺跡はどれ? -
>>29
詳しくは無いけど陵墓の大半が河内にあり難波高津宮が造られその後飛鳥と入れ替わったりしている
この理由を推察するに、そもそも大和は瀬戸内航路を使った交易を念頭に東国との関係性を深めるために建設され、そのために必要な難波、河内の水運土木が必要だった時代の遺物だと推察される
これが北陸航路側の交易路を推す人々との軋轢を生んだ結果、その干渉地である生駒一帯(矢田丘陵近辺)において緊張関係がもたらされたことは想像できるね -
盾型銅鏡と蛇行剣
単純に考えると、呪術的に最も攻撃的な蛇行剣と呪術的に最も防御力の高い盾型銅鏡をあえてワンオフで制作
恐らく形式的祭祀とは別に送り出した者が独自に発案し作らせた可能性が高い
鉄剣、銅鏡の製作技術集団はヤマト王権で管理されていたはずなので、造り出しの割竹形木棺の被葬者は間違いなくヤマト王権内の関係者だろう
配置の角度的に、この富雄丸山古墳中央の主葬者から造り出しの人物を守護するような意図を感じる -
日本最大の円墳だってことを最近知った
-
⑥その他出土品について
盾と言えば桜井巻向の茅原大墓古墳が思い浮かぶ
ほぼ同時期の4世紀末頃築造で帆立貝式古墳であり形状が類似しており比較検討の意義があるだろう
この古墳で特筆されるのは最初期の盾持ち埴輪の存在
盾の線刻円筒埴輪が出土している富雄丸山古墳同様、ここでも盾関連の埴輪が多量に出土している
同時代であり地理的に離れているこの2つの古墳は技術者集団を管理する一族が違うような印象があり、比較すると一種の素材別技術を競っているような、または祭祀のあり方を模索しているような印象がある
このように考えると埴輪の起源とも言える垂仁天皇の殉葬禁止令が関係しているような気がしている -
祭祀用の銅剣とか七支刀とか柄が着いてない(着けない)イメージだけど蛇行剣は着いてるよね
振るつもりだったのかな? -
長髄彦言いたいのは解るけど時代が違いすぎて解釈捻じ曲げないと無理か
それともここに真実へのヒントがあるのか -
https://i.imgur.com/AbxW7k2.jpg
もうすぐ終了です -
>>41
コスパ良いな -
長髄彦が倒されても、一族郎党皆殺しにされたわけではなく
一定の勢力を保った可能性はあるよね
大化の改新後も蘇我氏がずっと残って
初期の藤原氏は蘇我氏との婚姻で箔をつけたみたいな感じで -
忍熊皇子関連の可能性もある
日本武尊の孫であり王朝関係者なのに誉田御子に滅ぼされた
彼は剱皇子と呼ばれたがなぜそう呼ばれたかは謎だったらしい
蛇行剣がそれだとしたら -
忍熊皇子は磯城王朝最後の御子富雄丸山古墳は支配地の押熊、佐紀古墳群方角を見下ろす立地
それに忍熊皇子は確定した陵墓が無く社に墓のみ
それに逆賊扱いだから前方後円墳を許されなかったという理由も存在しているね
盛大な祭祀を禁止されたため供物は豪華に、と言ったところか
あと5世紀の応神朝から見られる甲冑類が出土しないところもピンポイントに合致する
木棺の被葬者は五十狭茅宿禰かその縁者もしれないな -
面白い
忍熊皇子として考えてみよう
①大王系譜ながら逆賊のため円墳とされた。時代的に最大級のため立場に相応しいと言える
②忍熊皇子は4世紀後半の人物であり合致
③忍熊皇子本人が主葬者。造り出し埋葬は妻または腹心の家来。この古墳を築造出来る程度に支配地に影響力が残っていたと想定される
④九州征伐(熊襲征伐)の祖父ヤマトタケル記念の剱を製作し納めた可能性あり「剱の御子」別名の由来?
⑤磯城王朝の特権である銅鏡製造の粋を集めた逸品を死後制作し、祭祀し納めた
⑥国産銅鏡埋葬の最盛期に合致
割竹形木棺及び副葬品は当時の磯城王朝のデフォルト
⑦記紀では墓の記載なし、富雄丸山古墳も記載無く可能性はある
また忍熊皇子は敦賀の剱神社に祀られており関連は不明
⑧ヤマト王権は勝者の応神朝へ移行し拠点を河内に移す
ただし神功皇后陵墓は佐紀古墳群のため旧忍熊領を支配した記念か?
⑨古墳より北東に忍熊皇子の支配地が眺められる。また登美の地名とは直接関連は無い
⑩実践的な武具ではなく祭祀的象徴的な武具の埋葬は剱御子と呼ばれた忍熊皇子に相応しいかもしれない -
磯城王朝という言葉を使うのに慎重になる必要があるな
・現地の地名が磯城郡なので、磯城王朝という言葉を使うのはもっともなことだが…
・出雲の伝承に基づく磯城王朝説は欠史八代を指して、物部王朝の崇神天皇ないし垂仁天皇に滅ぼされたとする。崇神天皇の磯城瑞籬宮は桜井市(奈良盆地の反対側)。また、物部王朝を滅ぼした応神天皇以降を平群王朝と呼ぶ(平群も磯城郡の地名)。
忍熊王のことは磯城王朝と呼ばずに
古墳が集中している土地にちなんで佐紀王朝、佐紀政権と呼ぶ方が無難ではないか -
>>49
佐紀には神功皇后陵墓があるため区別しにくかった部分があり、便宜上磯城の名を使った程度と思ってくださって結構です -
櫛があるなら被葬者は女性じゃないの?
装飾品が無いのは不思議 -
押熊の伝承を調べてみるとカオスで面白いよ
古くからあった龍神社が後から進出した八幡社に乗っ取られたとか
(応神朝と崇神朝の対比?)
押熊八幡社社の径16m高さ2m程の小さな円墳が忍熊皇子と言われてるが八幡と合祀することに意味不明で怪しくしかも未調査なのだとか
近隣にある籠坂、籠池は押熊皇子ともに決起した籠坂皇子を指している
そのため忍熊伝承はこの地域発で間違いないだとか
押熊は熊襲を討ち取ったヤマトタケルが一時帰還した土地
忍熊皇子より先に地名がありヤマトタケルの子孫の忍熊皇子はそこから名付けられているとか
いやいや熊ではなく隈で盆地の端の意味で神話とは無関係だとか
異論百出
いずれの伝承も時代が重なりすぎて記紀文献のみの民俗学的な推測も多く意味不明らしいが -
蛇行剣格好よすぎる
最大かつ最初期らしいな -
蛇行剣と縦型銅鏡の性格を鑑みると4世紀より祭祀と武具の融合が試みられている点が最も特筆すべき点だと考えることができる
それまでの威信財のあり方としては銅鐸や銅鏡、貝輪、勾玉など交易による特産威信財の頒布が主な目的であったのに対し、4世紀以降において蛇行剣を初めとした儀式的武具が出現した
その後5世紀では古墳の武具埋葬が目立つようになるため、富雄丸山古墳の出土品はこの過渡期と言えるだろう
これは3世紀後半以降に交易ベースの平和的な統合から思想的、戦闘的侵略併合のフェーズに変わったことを示唆しておりその背景にあるのが技術格差といえるだろう
鉄と銅の生産技術を一部の勢力が独占することで得られる優越性の誇示
例えば同時代の七支刀もこの理念において作られたものと考えると矛盾が無い -
武具と祭祀が融合することは、その当時征服の正当性を強調するために効果的であったと思われる
文字がないため視覚的感覚的に強烈な印象を残すことができるからだ
例えば熊襲を討ったヤマトタケルが進駐を隼人の豪族に移譲するために手渡し、また東北の蝦夷に対して派遣した将軍に手渡す
蛇行剣が地方で多く発掘される要因はこのような意図があったからだと想像できる
当然、当時の王権のトーテムは蛇であり龍であっただろう
富雄丸山古墳の被葬者はこの時代の中心に居た、祭祀と軍事を司る一族だということは疑いない -
なかなかおもしろい考察
キテレツな形の銅矛が祭祀に使われていたと推測されているのをどう考えるか
蛇行剣が蛇または龍をかたどっているというのはなるほどと思う -
日本には青銅器と鉄器が同時に伝わったということだけれども、
やはり入手や加工のしやすさに差があって、
青銅器は容易に手に入るから副葬品にされても
鉄器は貴重だから埋葬されずに、遺品として継承されたのではないかな?
そして鉄の生産量が増して、鉄を埋葬してしまってももったいなくなくなってきて
鉄製の刀剣が副葬されるようになったのが3世紀や4世紀だと -
蛇行剣出土場所は作り出し部分とされているが、円墳部ではないかと?
https://i.imgur.com/lgovINy.jpeg -
帆立貝形古墳に思える
-
私は被葬者が当時の権力者の中でも特に高貴な人物であったと推測します。
しかし、一方で、4世紀後半という時代設定に疑問も抱きます。なぜなら、「割竹形木棺+竪穴式石室」ではなく「割竹形木棺+粘土槨」という様式を採用しているからです。 -
何世紀頃と考えます?
-
時代はわりかし妥当じゃないかな
もう少し新しくてもいい気がするがいかにも纒向と河内の中間位の年代感
主に5世紀から出土する盾持ち埴輪も出土しているし4世紀だとするとかなりエポックメイキングな存在だ
あと仮説だが、この円墳の構造はそもそも前方後円墳のつもりで造営していたものを途中で中止し形状変更したような特異さがある
前方後円墳の前方部が、子孫が繁栄を祀るための基壇だとするとそれが無い、すなわち世継ぎが絶えた偉大な一族のようなイメージ -
蛇行剣
初め見た時は国産鍛治が技術不足で鍛造が足りなくて継ぎ足したり真っ直ぐ作れなかったのかと思っていたが、調べるとわざと軟鋼としていて専用の工房が必要だったり、研ぎなどが直刀よりも困難だったりして鍛治を知悉していないとかなり制作困難なものらしいね
七支刀もそうだけど、それだけしてまで製作する必要性とか意味が無いと作れないということだ
5世紀に作られる鉄製馬具や鉄製鎧の先行技術かもしれないね -
なぜ大きいのでしょうか?
-
富雄丸山古墳の築造年代は、4世紀後半から5世紀前半と推定されています。しかし、より具体的な年代を特定することは困難です。
-
風土記に
那珂郡に大櫛という岡があり、むかしとても背の高い巨人がいました。巨人は岡の上に立ったまま手を伸ばし、海辺をくじって(ほじくって)大蛤を採り食べていました。その貝殻が積もって岡となり、大きくくじったことから大櫛の岡という名がついたということです。(以下略)
大きいのは巨人が使うためだろう -
富雄丸山古墳から出土した副葬品は、単なる豪華な装飾品ではない。当時の権力者や被葬者の思想、信仰、そして社会構造を鮮やかに映し出す貴重な資料である。
中でも注目されるのは、蛇行剣と盾形銅鏡だ。蛇行剣は、朝鮮半島や中国大陸の青銅器様式を取り入れたものであり、当時の国際的な交流を象徴している。一方、盾形銅鏡は、呪術的な意味合いを持つと考えられており、被葬者の霊魂を守護する役割を担っていた可能性が高い。
その他にも、金製装身具や馬具、農具など、様々な副葬品が出土している。これらの遺物は、被葬者の日常生活や社会的地位、さらには当時の技術力や文化水準までをも推測させる貴重な手がかりとなる。 -
大きいのは何故なのか?
埋めてあるのは他に見せるためでは無いし -
>>74
鞘に立てるための細工が施してあったと言われてる
ってことは埋葬を前提に作られていない
生前から作られた示威表示というか、武将の旗印のような役割があったのではないか
つまり征服に赴く皇族将軍のような立ち位置の人 -
粘土層の端の方に埋めたのも不思議
-
>>76
確かに位置関係が不可解
盾型銅鏡と蛇行剣は円墳がわの粘土槨に重ね合わせるように埋葬
棺の真上ではなかった
主葬者から副葬者を守るため?
または祟りを封じるためか
祭祀ではなく封じの埋葬法があったのかなどはよく分からない
しかし意図は感じる -
お前ら
むしろ下痢三とダッピ
そら嫌われるよね -
蛇といえば
三輪山の大物主、大田田根子
籠神社
出雲の大注連縄
伏見稲荷大社の宇迦之御魂
など丹波や豊受大神と関連性が深い
丹波と言えば丹波道主命と彦坐王
神を宮外奉祀した崇神天皇の兄弟とされる
これらの子孫の可能性はあるだろう
それに鼉龍文盾型銅鏡のシンボルである鼉=ワニで和邇氏との関連も考慮する価値があるかもしれない -
造出付き円墳と帆立貝形墳は構造的に別物
-
直径約50センチという圧倒的な存在感を放つ富雄丸山古墳出土の盾型銅鏡は、中国南朝で作られたと考えられ、当時の中国大陸において権力の象徴として用いられていました。この華麗な副葬品は、単なる装飾品にとどまらず、被葬者が大陸の有力者と外交関係を築き、互いに認め合っていたことを示唆する重要な手がかりとなります。
鏡面には精緻な龍や虎などの文様が刻まれ、当時の高度な技術と美意識を垣間見ることができます。それは権威の誇示であると同時に、大陸との繋がりを深め、自らの地位を高めるための重要なツールでもあったのでしょう。
この盾型銅鏡は、単なる鏡以上の意味を持つ、被葬者の人物像や当時の社会情勢を解き明かす重要な鍵となる -
>>81
構造的に違うのではなくて造出しの大きさ長さで名称を付けてるだけでしょう
古墳の名称自体が後世に便宜的につけられたものなので
どっちが正しいとか考えるのもおかしいのですけど
富雄丸山古墳については三段もある立派な造り出しで
最大の円墳ということを強調したいだけのように感じます。 -
勉強になるね
造り出しが築造後増設可能な理由がこれ
蛇行剣と盾型銅鏡の配置的にも説明が着く -
盾形銅鏡は、青銅製で盾の形に鋳造されており、裏面には中国の神獣が描かれた円鏡「鼉龍(だりゅう)鏡」の文様を有しています。鏡面中央には、円形銅鏡と同様に紐を通す鈕(ちゅう)が設けられており、盾と鏡の機能を融合した特徴を持つ日本で初めての出土例となります。
-
神戸女子大学名誉教授 寺沢知子氏の挑戦
奈良県橿原市にある富雄丸山古墳は、7世紀後半に築造された巨大な前方後円墳です。その被葬者像は、日本古墳史上最大級の金銅製冠と、鮮やかに彩色された豪華な副葬品とともに発見され、考古学界に大きな衝撃を与えました。
この被葬者像の研究に長年携わってきたのが、神戸女子大学名誉教授の寺沢知子氏です。寺沢氏は、緻密な調査と分析を通して、像の制作技法や表現様式を明らかにし、被葬者がどのような人物であったのか、また当時の社会や文化を知る手がかりを探ってきました。
寺沢氏の研究成果は、単に古墳時代の歴史を解き明かすだけでなく、古代日本の美意識や精神世界、そして国際交流のあり方など、様々な分野に新たな光を投げかけています。
寺沢氏の見解によれば、富雄丸山古墳の被葬者像は、単なる肖像画ではなく、被葬者の魂魄を宿した神聖な存在として捉えられていた可能性が高いとのことです。 像の表情は厳粛で、力強く、被葬者の高貴な身分と権威を象徴しています。また、像の頭部には複雑な文様が施されており、これは被葬者の霊力を表すものと考えられています。
寺沢氏は、今後も富雄丸山古墳の被葬者像の研究を続け、古代日本の姿をより深く明らかにしていくことを目指しています。
彼女の研究は、日本考古学にとって大きな貢献となるだけでなく、現代社会における人間存在の意味や価値を考えるうえでも重要な示唆を与えてくれるでしょう。 -
鏡作坐天照御魂神社は、奈良県磯城郡田原本町にある神社で、古代の鏡作部がいた「和名抄」鏡作郷に鎮座することから、鏡作集団が製作した可能性が高いとされる龍門盾形銅鏡の製作者として注目されています。
神社の御神体とされる試製鏡は、龍門盾形銅鏡の特徴である背面の龍文様を有しており、鏡作部が皇室に納める鏡を製作する過程で試作されたものと考えられています。
さらに、神社周辺からは龍門盾形銅鏡と同時期に製作されたと考えられる土器片が出土しており、鏡作部がこの地で龍門盾形銅鏡を製作していたことを裏付ける根拠となっています。 -
>>88
このAI、被葬者像をなにか仏像のように勘違いしているな。 AIまだまだだな。 @阿波 -
>>85
富雄丸山も墳丘一段目と造出しの一段目は連続しているように見える
造出しの最上段が墳丘二段目よりも低いというなら
同じ五世紀前後の帆立貝式といわれる三重の宝塚二号墳なども同じ
早稲田の帆立貝古墳論でも読んでくれ
要は簡単に分けれるものではなくて便宜上大きさの割合で分けるのが一般的
構造に関してはそれぞれの古墳に独自のものが多くて決めきれない -
で、富雄丸山を前方後円墳と言い出した研究者はいるの?
-
こいつだけだよ。
-
ガラス
ワイパー -
>>29
自らも不器用をアピールしなきゃいいんじゃね -
そろそろぴょん吉選手権でもやろーや
↑今すぐ読める無料コミック大量配信中!↑