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日本史
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漢委奴国王印の委奴国はどこにあったか?
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委は倭の略字だから倭(わ)の奴国と教えられてきたけど
略字を当てる時は同じ発音の漢字を当てるのだから
「わ」ではなく「い(ヰ)」だったのではないか?
(わ、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音)朝鮮語で왜ウェ)
では奴の発音はというと
藤堂明保編『学研漢和大字典』には、「奴」:上古音nag 中古音no(ndo) 近古音nu 現代音nu
委奴国は「わのなこく」ではなく「いな」又は「いの」だったのではないか?
んで九州にある「いな」「いの」の地名を探してみた。
福岡の北東10キロ余りに伊野天照皇大神宮という神社がある。
天照皇大神宮はこの神社の他には伊勢神宮の内宮でしか無いらしい。
ひょっとして
漢委奴国は「かんのなのわこく」ではなく
「かんいのこく」だったのでは無いだろうか? - コメントを投稿する
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倭と委の上古音、中古音は?
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倭の中古音
高本漢 ・jwie̯ [ʔjʷie̯]
李方桂 ・jwĕ [ʔi̯ʷĕ]
鄭張尚芳 [ʔɣiuᴇ]
委の中古音
高本漢 ・jwie̯ [ʔjʷie̯]
李方桂 ・jwĕ [ʔi̯ʷĕ]
鄭張尚芳 [ʔɣiuᴇ]
倭の上古音
鄭張 qrol
GSR i̯wɑ̆r
委の上古音
鄭張 qrol ʔnol
GSR i̯wɑ̆r
同じだな -
暦こねくりまわしたら
金印は孝安天皇終盤
孝安天皇兄である
天足彦国押人命の子(和邇氏)とか暇だよな
和邇氏ってことは海人族とつるんでる
関係ないが
金印洗浄前後の本で
安寧の子で継承してない
常根津日子命の名前が
あったというのは
フォトショかなんかの捏造?
事実なら博物館のサイトにあるはずだし -
>>1
↑こういう現代音韻しか認識出来ない御仁が邪馬臺を無理矢理ヤマトと読みたがるのかな。 -
>>7
現代音韻の話はしてないよ -
伊都国は、もともとは い(ヰ)ト
い(ヰ)国の門(ト)にあたるからな -
壱岐とな伊都とか邪馬"壹"とか「イ」の発音が目立つし
倭人はイジンだったのかも
邪馬壹国の市場を監督していた大倭ってオオイのことで後のオオイタ辺りを拠点にしていた豪族だったとか -
「倭」は「い」
イロハニの「イ」であり、「杖」を表す
「和」は「わ」
イロハニの「ロ」であり、「口」(くち)を表す -
「委」は「イ」(「杖」)がない
「倭」「和」「委」は、どれも「女王」または「姫」を表し、崇拝する女王像の違い -
「奴」は属する又は従うという意味
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>>10
甲類と乙類の区別。 -
倭奴国、委奴国、奴国の問題は
後漢書編纂の元になった一次資料でも見つからない限り、
実際に金印が奴国推定地から見つかったことを根拠に「倭の奴国」説が有力とされて、
それ以上の疑問点は永遠に解決されないだろうね
1. 後漢書には邪馬臺国や拘奴国も登場するのに、奴国だけ何故「倭の」を付けて「倭奴国」と書くのか
2. 金印は何故人偏を省略したのか
3. 「倭奴」「委奴」という地名だと解釈する説は、伊都国説をはじめとしてたびたび提唱されるが、大抵、後漢時代の発音と合わない -
1が提案してくれた伊野天照皇大神宮は
現地の地名が「猪野」だから
古い発音が「ゐの(=うぃの)」と推測される点で
「委奴」の比定として説得力がある。
「ゐ」と「い」の発音の区別が失われてから
猪野を好字に改めて神社名を伊野とした可能性があるが、本当にそうか、
伊野天照皇大神宮の社伝で古い名前はどんな字で書いてあるか
社伝では神功皇后の設立らしいので
卑弥呼を神功皇后とする説でも漢委奴国王金印より後だし、
卑弥呼をモモソヒメとする説ではさらに後の時代になってしまうのが難点
金印の「委奴国」なら、宗像大社ぐらいの歴史があっても良い気がするが… -
由緒
伊野天照皇大神宮は正式には「天照皇大神宮」と称しますが、一般には「伊野皇大神宮」の名で親しまれています。また地名は明治以降「猪野」に固定しましたが、それ以前は「伊野」の地名でした。
この伊野の里に天照皇大神宮が鎮座した由来は不詳ですが、仲哀天皇9年(200)の神功皇后による三韓征伐の所縁がその創始とされています。その宮所に祀られていた『日本三代實録』に見る国史見在社で、室町時代末期に豊丹生佐渡守が神託を奉じて都より斎き祀ったと考えられています。 -
倭ワが倭イ、なら
そもそも、
倭ワ国はイ国で、
倭ワ人はイ人なんだが?
国の大きさの概念で
国王が弥生集落を20~30集めたなら
博多~九州北部程度の広がりだろ?
本州は銅製品より原料とか
輸入品の傾向、差異とか
同時期拡散の範囲と一致するだろ? -
後漢書に倭の奴国と書いている、委は単なる略字だよ
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金印を貰ったのは倭の極南なんだから魏志の奴国で間違いない
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ネトウヨはバカだから、奴国をナと呼んだのに、委奴国の奴をトと読んだりするんだよな
糞笑える低知能丸出しで、これがジャップの極右翼勢力の正体かと笑いが止まらない
漢字は日本起源とか、失礼にハングルが神代文字のパクリとか、何だこいつらという感想しか無い -
ああ、区別が喪われてから改めたと書いてあった。
早とちり。 -
孝安天皇94-95だとすると
実際動いてるのは孝霊世代だろうから
宿禰になる物部(剣臣)
大矢口は鬼退治やってるから
もう一方の大水口の方は穂積氏の祖
穂積は後々九州北部にいるので
儺県主とつるんで渡航利権もってた可能性
孝安の妃の父が磯城県主、十市県主
他だと皇族傍流で資産増やせる連中
4代目新羅王だっかいにしきんが
タバナ国(但馬?丹波?)出身の倭人なら
新羅を通過していったんだろうか?
孝安天皇90年代は日干支ない
社伝とか家伝にあるなら教えて欲しい -
帥升の方は孝元天皇16-17だとすると
磯城県主あたり
後世に「師木」表記あった
孝元天皇母父が磯城県主オオメ
儺県主が奴国ならありえるか
娘婿のために功を立てようと
大陸行ったけど印もらえなくて
先代の時に活躍した大矢口の流れで
内色許男命、ヘソキネ、伊香色雄命と
物部に宮の権力を持ってかれて
天孫にとっての「開化」になった? -
実在が証明されてない天皇の存在を前提にするのは如何なものかと
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漢書は金印も帥升も
日干支どころか月の記載ない
詰めるの無理では…?
魏書倭人伝は一部に月があるだけまだまし
帥升は武埴安彦が産まれた2年後くらい?
二倍暦でなく現在の2年基準
近い日干支は孝元7年と孝元22年 -
神武即位年より前の閏月資料
(中国版と日本版)と
「紀元前の」中国の全ての日干支と
西暦と太陰太陽暦の対応したものが要る
できれば実際の史料に基づいてるもの
最低でも秦と前漢のは要るでしょ
邪馬壹国に関してはさほど問題ない -
どこにあったかって 金印が出土した場所付近じゃないのか 他に説があるの?
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それだと困るマチガイ説がごねてるだけだろう
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>>30
見付かった経緯によっては断定出来ない
弥生時代の遺跡を発掘していてそこで見つかったなら委奴国で確定だけど
なんかよく分からん田んぼから出てきましただと
元からそこにあったのか、盗掘されたものが流れ流れてそこに埋まったのか判断できない
曹操の鉄鏡が見付かっても日出のダンワラ遺跡が重視されないのはそれが原因 -
>>30
漢委奴国王について当時、
西の匈奴フン・ヌ(フン族)に対する、
東の委奴ノ・ヌであって、委奴国などという魏志倭人伝が記載して伝える200年後に北九州に存在が確認されている奴国ならば金印には委奴国などと記載しない。漢書地理志に委奴国が認識されているならそう書かれるが委奴国が記載されていない。
魏志倭人伝では邪馬台国卑弥呼を親魏倭王と記載している。
漢委奴国王の金印が奴国をあらわすなら親魏倭邪馬台国王と刻むか慣例により1文字の国名で親魏倭王とするのが妥当である。
漢室が匈奴の各首長に与えた印は最上位でも銀印である。一方で北九州の黒田藩下の田んぼの中から出土したとされる光武帝が与えた印は金印であるので不釣り合いだと考えるのが妥当である。
漢書地理志燕地条に記載されている内容は下記である。
然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫! 樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。
ここでいう 楽浪海中に倭人有り、 分れて百余国を為し と書かれている百余国の国々の国名地名は漢書地理志当時つまり金印が贈られた当時は漢室は認識していないため出土したとされる金印の信憑性が薄い。
実際は黒田藩が偽物を購入して秘蔵し明治維新のドサクサで権威づけされた贋作の可能性が極めて高い。 -
西の諸部族の匈奴には銀印
東の燕国(現在の北京を中心とする)が秦の始皇帝のよって消滅した後の地は諸部族が居たが匈奴のように漢室を脅かす存在ではなかった弱小なので文献が残ってないのだろう。
燕国の残党元地方官僚などのどこの馬の骨かもわからんやつにでも金印を与えたのではなかろうか? -
金印が不都合な反日クズが見苦しく連投
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黒田藩のメンツの問題
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福岡藩主黒田家な。おバカさん
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