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日本史
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「日本」は「百済」の宗主国
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<論拠?>
皇室が日本縄文D1a2aと言われている。
一方の、百済跡地にO1b2はいるのにD1a2aはいない。
<論拠?>
扶余勇本人あるいは兄弟である、元百済王族の百済王善光さんが「諸臣のしかも三位どまり」なのだから、
元百済王族が
皇族(あるいは大王家)の可能性ゼロ
旧唐書に書いてあるのは、扶余勇は走在倭国、ということだけ
扶余勇が天皇(あるいは大王)で無かった根拠は示されている
対してデマスレ主は、
扶余勇が天皇になった根拠を何も示すことはできない。
これで決着ついてます。 - コメントを投稿する
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百済はC2いわれて
ますます無関係だな -
皇族→諸王
臣下→諸臣 -
C-CTS2657是公认的东北亚古老民族的父染,你可能不是山西移民,而是高句丽民族的后代
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高句丽,源自辽东渔猎民族扶余,Y染色体上,其后代以高频(C-CTS2657)C2南,分布在中国山东、辽宁、河北、吉林、黑龙江等北方地区。
在朝鲜半岛。在朝鲜半岛C2南的占比为——北朝鲜是25%左右,韩国是12.6%左右。
可以明显看出,越往南方,C2南越来越少,这符合了扶余人南下征服朝鲜半岛的历史。 -
C-CTS2657の下流タイプMF3319は、高句麗人と関係がある可能性が高い。このタイプは環渤海、朝鮮半島だけでなく、西安でも比率が高い。
https://i.imgur.com/EmnTS2i.jpeg
https://i.imgur.com/N6Bu7Y0.jpeg -
C2-CTS2657は主に中国北方及び朝鮮半島、日本、モンゴル高原東部などに分布し、そのうち中国の男性人口の約2.17%が占める。日本の中のC2も主にこのタイプです。中国では主に漢族の中にいるが、このタイプで最も名望のある家族は、確かにモンゴルの第34代(北元の第20代)ハーンの達延汗家族(ダヤンハーン)だ。
https://i.imgur.com/MJhAkkl.jpeg
https://i.imgur.com/bx2RWcY.jpeg
https://i.imgur.com/RoRygIG.jpeg
https://i.imgur.com/nIoSunj.jpeg -
完全にツングース系だぁ
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o1b2や列島や半島以外じゃ殆ど出てこない
一方C-CTS2657は中国やモンゴルにも結構おる
これが高句麗や百済の扶余族マーカーだろうな -
天皇家のY染色体が知りたい人はこれを読め!
https://www.familytr...T7NaDvz-PBZ2Kt9W0nU8
Family Tree DNA(ファミリーツリー・ディーエヌエー、英: FamilyTreeDNA)は、アメリカ合衆国テキサス州ヒューストンに本拠を置く商業遺伝子検査会社で、米国商務省セーフハーバー認証を受けており、世界最高精度の品質を維持した遺伝子解析を行っている。 -
https://i.imgur.com/Egaiq8i.jpeg
皇室の子孫と推定される人物は、ファミリーツリーDNAで検査され、
そのハプログループに属し、より正確にはD-Z1504サブクレードに属していた。
記事は、600万人の日本人男性(日本の男性人口の10%)が皇室と同じY-DNAの血統を持ち、
約1000年前に共通の祖先を共有していると説明しています。
(嵯峨天皇だけでも49人の子供がいる)、源氏、平氏(平家)、橘氏などの姓が与えられ、
彼らは強力な貴族の氏族になりました。 -
D1a2a1a2b(IMS-JST006841/Page3) 日本人(15.2%)
D1a2a1a2b1(CTS3397) 最近共通祖先3700年前 日本人(12.9%)
D1a2a1a2b1a(Z1500) 最近共通祖先1800年前 日本人(12.8%)
D1a2a1a2b1a1(Z1504) 最近共通祖先1800年前 日本人(12.5%)
D1a2a1a2b1a1a(CTS8093) 最近共通祖先1800年前 日本人(10.9%) 奈良
https://i.imgur.com/MEhgb4h.jpeg
D1a2が遺伝的優位性を得たのは、1800年前の弥生時代。支配的な地位を占め続け、大きな遺伝的優位性を築いてきた。 -
渤海も高句麗も百済も北方系
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高句麗は王族も民もツングース系で、百済は王族の始祖だけがツングース系
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百濟王族は、扶餘系C2を出自とするが、百濟の民衆o1b2系統が多数であったと考えられている。
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大陸も半島も北東アジア人に支配されまくってんな
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朝鮮人(O系統80%以上)「高句麗百済や渤海はウリの歴史ニダ」
支那人(O系統90%以上) 「高句麗や渤海はワタシ達の歴史アル。李世民もチンギスハンも漢民族ネ」 -
イエローリバーはお呼びじゃねえ🤣
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>>8
見事に遊牧民が猛威を振るってた地域w -
皇族→諸王
臣下→諸臣
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あちらのスレで負けて此処に遁走wwwww
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『日本国者倭国之別種也、以其国在日辺、故以日本為名』
倭国の別種なのだから、D1a2aがいないと始まらんだろう。
そして日辺にある東方の国。
完全勝利、完全決着、ですな。 -
日本のが倭国より東にあるってことは、
倭国はやっぱ九州説ってことか -
九州倭国は大国だったが倭国の政変で
倭国政権の分派が倭種の小国日本へ移民し指導部層へ
そしてが政権不安に陥った倭国と融合することになる
いずれも九州倭国が主流で東の小国日本の作ることに -
(笑)東(笑)
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漢系南朝、遊牧民系北朝、倭系東朝と宗主国に恵まれてるよ。
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宗主国漢王朝→漢、南朝
第二の漢王朝(胡漢融合)→北朝隋唐
第三の漢王朝(和漢融合)→日本
の
下僕百済 -
百済の末期には大和朝廷的には保護国だった
百済の起こりは夫余王尉仇台(いくど)だろうけど、
初期の半島倭とは兄弟のような関係で、後王莽などは、倭を東夷王と呼んでるが? -
保護国のために全軍特攻するお人よし軍隊などいない
半島南部の任那領が本領だったのだろう
ちょうど半島を守るためにその先に傀儡国家満州国をつくったように -
中国から固有名詞のヤマト国が認識されるのは魏晋南朝隋唐で編纂された歴史書の期間のみ。これが日本の原型邪馬臺。
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458年『梁書』罽賓国(けいひん・カシミール・ガンダーラ地方の国)
の5人の僧が、扶桑国へ仏教をもたらした。
『梁書』によると、僧慧深(けいしん)が永元元年(499年)に扶桑という国から梁へやってきたという。
扶桑の所在地については、倭国の東北7000余里 -
(扶桑国の話は以前はなかったが、普通年間 (520年–527年)、扶桑国から来たと言う者の話を記す。
(中略)永元元年(499年)、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。
「扶桑国は大漢国の東二万余里(8700km余)、中国の東方にある。 -
国王の名は乙祁。貴人の第1位は大対盧、第2位は小対盧、
第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。
国王の名は乙祁(オケ)とは第24代仁賢天皇
億計天皇(おけのすめらみこと) - 『日本書紀』
意富祁王(おおけのみこ) - 『古事記』 -
「大対盧 (だいたいろ)」
高句麗の最高官職の一つ。大対盧は6世紀中ごろに設置された。その前身の対盧は,
2世紀では一品官職の相加につぐ第2等の官職名で,五部(五族・五部)の部長らが任命された。
大対盧は高句麗王が任命する官職ではなく,勢力の強い者がその職についた。
大対盧は貴族連合体制の頂点にたち,貴族会議を運営するとともに,国政全般を執行する職務 -
>だから前々から高句麗王五部族の南部(灌奴部かんの、前部とも)だと言ってるだろ。
6代太祖大王は名を宮=初代(57年)奴国王(神武天皇)
7代次大王は名を遂成=倭国王帥升=二代(綏靖天皇)
8代新大王は名を伯固=博多、筥崎・箱崎(福岡県)三代安寧天皇 -
百済無い(くだらない)
天智2年8月(西暦663年10月)に、
倭国軍が全軍を挙げて援軍したにもかかわらず、
百済が滅亡したことに対して、
帰国した兵によって、無能な指揮官によるぐだぐだの負けっぷりが流布された。
日本列島の各市町村において、もう半島援軍は懲り懲りだという戒めの意味を込めたのが
百済はもう無い
「くだらない」
という格言として残ったのである。 -
大対盧 (だいたいろ)
高句麗の最高官職の一つ。大対盧は6世紀中ごろに設置された。
当初は軍事国家だった高句麗だが、
時代が下るにつれ、官僚が支配する堕落政治に陥っていった。
大対盧は高句麗王が任命する官職ではなく,勢力の強い者がその職についた。
国の税金は全て思うがままに使って、
リベートを懐に入れる。
思うがままに国家予算を編成できる既得権益集団。
国民なんぞ奴隷と同じ。
だいたいこれでよかろう。
大対盧は貴族連合体制の頂点にたち,貴族会議を運営するとともに,国政全般を執行する職務 -
半島の宗主国漢王朝→漢魏晋南朝
第二の漢王朝(胡漢融合)→北朝隋唐
第三の漢王朝(和漢融合)→日本
と
下僕の高句麗、新羅、百済age -
百済撃沈
悪事はどれもこれも論破される運命w -
『梁書』扶桑国の話題は日本史にも一切取り上げられない
藤原不比等や天皇家にとっても余り知られたくない事が??だろな。
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