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日本史
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隅田八幡宮銅鏡の日十大王は武烈天皇である
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日は実際には曰(音読みヲチ)十は計でケ
ワカササギ(武烈天皇)のワカを表してると思われる
男弟王は従来通り孚弟(ふと=継体天皇)でよかろう
これで全て解決した
何の矛盾もない - コメントを投稿する
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継体が近江から迎えられたのが、武烈の死後というのは嘘だろうな
常識的には、後継者のいない王が病気や危篤になったら、その際に重臣たちが王の親族から後継候補を迎えるはずだ
いくらなんでも現代の自民党政権のようにギリギリまで何もしないほど愚かな馬鹿だらけではあるまい
日十が武烈かどうかはさておき、オケとワカサザキしか王族が居なかった時代があって、しかもワカサザキが狂気ときているなら、この時点で既に万が一のために継体が迎えられていても不思議ではない
そもそも継体が五十台でオケの娘を娶って欽明を儲けたという話が嘘くさい
昔の五十は今の七十くらいの感覚だから、子供が作れるか疑問である
欽明天皇即位年のズレについても、本来は継体がオケの時代に迎えられていた話を、武烈の死後に迎えられた話に改竄した結果に起きた話なのだろう
本当は継体と大友金村が結託して武烈を暗殺して、ヤマト王権を乗っ取りしたんだろう -
そもそも継体が大和に二十年入れなかったのは武烈が死ぬまで河内にいたからと考えるのが自然であろう
日十の十は計の減筆と解釈して顕宗か仁賢と考える -
そうすると隅田八幡鏡は「顕宗もしくは仁賢の時代、大伴金村が近江から迎えた摂政の継体が忍坂宮で政務を取っていた時」と読むことができる
武烈の即位は数年にすぎないので、百済の職人にはリアルタイムで伝わっておらず、鏡が作られた時にはまだ仁賢が生きていると思っていたのだろう
なお武烈については小長谷部という名代がいるので、実在と考えたい
武烈の事績が嘘っぽいのは、継体が武烈を基地外扱いして殺したので、それが後世に伝わって既成事実化したせいだろう -
>>2
武烈が生きてる(十何歳か)うちに重臣たちが継体と彼の息子たちを大和に迎え入れ武烈の姉たちと結婚させたと考えられる
武烈の死後だと姉たちの結婚年齢が当時としてはやや高くなる
たぶん継体も50代でなく40歳前後ぐらい。安閑と宣化も武烈よりいくらか年上。実際に大王の位にいたのは武烈だが政治の場から追い出された。彼の暴虐はお飾りに過ぎない待遇ゆえの鬱憤晴らしかもしれない -
継体には欽明という皇子が生まれてるなら、武烈天皇も、羽柴秀次が秀頼が生まれた途端に養父の秀吉から冷遇されたのと似た状況に置かれたとも考えられる。
日本書紀編者が中国の史書からの引用を使って文飾するのはそれが当時の役人としての教養だからだろ。武烈に暴君的行為がなかったという決定的な証拠にはならない。 -
逆に古事記編者がそこを書き残したくなかったとは考えないわけ?
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>>9
革命政権が 前の政権をあることないこと盛って悪く言うのは 世界史の常識 -
秀次が本当に殺生関白の名を残すような残逆行為が好きだったかは賛否両論あるが、彼のちょっとした欠点が大げさに盛られてる可能性もあって、武烈天皇の場合も実際には周囲の人間に当たり散らしたぐらいの話だったのかもしれないな
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