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>>37
《東京玉兵団》
11月1日、玉(東京第1師団)の4隻はレイテ島オルモック湾に到達する。船団の内の1隻、能登丸は8割程度の揚陸が済んだころ、爆撃を受け沈没す。
11月4日、歩57(佐倉連隊)の佐藤第3大隊の占めたリモン北峠から、レイテ決戦の火蓋が切られる。歩1(東京連隊)は、現地35軍の作戦指導で、ピナ山への苦難の行軍を強いられていたが、状況の変化により、反転し、21日からリモン戦線に戦闘加入する。
ラポッグ上陸で、遅れて到着した歩1原口第2大隊(東京連隊)は、師団予備隊として温存させられていたが、砲兵陣地付近に迂回侵入した敵が、キライ高地(原口山)に陣地を占領しようとしたので、19日、この高地の戦闘に加入する。
キライ高地の戦闘は、レイテの戦闘のなかでも有数な激戦となる。南北4キロの細長い稜線上で、10日余りも激戦を展開し、一時は原口大隊が稜線の北端まで敵を追いつめるが、30日には敵の増援が加わり、一方補給のない原口大隊はやがて全滅の運命を辿る(『レイテ作戦の記録』田中賢一氏)。
12月2日、この日朝、歩1原口大隊に対する敵の攻撃は熾烈を極め、大隊長原口豊二大尉、副官寺谷晃中尉は、手榴弾、拳銃をもって敵と戦闘中狙撃されて戦死する。
大隊は500m後方に位置する第2機関銃隊中隊(すでに中隊長高島中尉は戦死)の矢島忠吉少尉以下僅か30余名となる。
矢島少尉は、残兵を指揮し戦闘を継続したが、12月5日に至り、一兵も残さず戦死する(第一師団レイテ会にて取材)。
歩兵第1連隊(東京)は2550名の内生還者39名、戦死は98.5%(第一師団レイテ会にて取材)。
(金井英一郎『ジーパン主計ルソン戦記』光人社NF文庫、122~124頁より)
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