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哲学
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デカルト論破
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「我思う、ゆえに我あり」と我思う、ゆえに…
俺「いつまで続くのですか?」
デカルト「無限に続くよ。だからこそ思う主体、そう、我だけが残り、我が存在することが確実なんだよ。」
俺「でも、無限に続くって確認できなくないですか?無限に疑った人っているんですか?無限って疑わしくないですか?」
デカルト「あっ…えっと…。」
俺「論破ああああああああああ!」 - コメントを投稿する
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帰納的推論だから真理を述べたものじゃないよ。もっとも正しそうだという言明にすぎない。
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>>1
と思う、ゆえに汝あり -
悪霊に食われるから世界ができたって意味で初。
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しょ
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無限でなかったとしてそれがデカルトの論証にどういう影響を与えるのか
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>>6
本当は「我思う、ゆえに我あり」の「我思う」の部分で止まっているということや。
途中で「我」がなくなる可能性もあるんや。我でない悪霊に置き換わる可能性もあるやということや。
「我思う、ゆえに無」とか「我思う、ゆえに悪霊」とかやね。 -
池田晶子がそのへん論破してたな
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>>11
その「疑う我」をも疑う。 -
我思うの我とは何かを疑えてないってのが一般的なデカルト論破
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だから二元論になったんじゃないのか。思想ってのはしょせんエッセイなんだから
真正のことが書いてあるわけじゃないぞ。デカルトの神髄は物心を分離させたと
しても世界が構築できることをあの時期に論証してみせたことだろ。現代人に
いわせればあたりまえの話しをあの時期とキリスト教社会の前提で言明できたから
すごいだけであってだな -
それただの無限後退じゃねーの
無限後退って要はアスペだぞ? -
>>10
調べたらしょーもないエッセイストじゃないか -
>>13
極めて論理的じゃん。 -
>>19
アスペはお前だったな -
デカルトの「我思う故に我あり」の“思う=思考する”とは、方法的懐疑の“疑う”という思考作用のことであり、
この“疑う(=思考)”という意味は、“疑うことの出来ない究極の真”に対して、主観的事象(自分自身)と客観的事象であるところの
すべてを“疑う=究極の真に対して真偽を問う”ことである。
自分自身、そして科学的・客観的事象のすべてを“疑っている”その状態の於いて、『疑っている私は疑えない』という、究極の状態に於いて、
認識される超越論的な“私”のことを“我あり”と定義している。
ここで、超越論的な“私”と述べると、一般的な解釈としては難しい認識に思うが、そうではない。
一般的な思考活動の過程で、“疑っている、〜その思考活動を行っている、“自意識”が超越論的な私です。
この様な“自意識”は、冷静に考えれば誰しもが持っている。
デカルトの方法的懐疑という思考は、17世紀〜18世紀のフランスに於いては、日常的に用いられた思考形式である。
今日でも、形式論理思考と並んで、フランスのみならず世界的に活用されている思考形式でしょう。 -
>>18
どこから「無」や「悪霊」がでてくるんだよ -
1の論法はヒュームで既出でしょ
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波平いい加減にしろ
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>>1だが、ここで謝罪会見を行う。
【謝罪会見と】デカルト論破できず【俺の真理】
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」を決して疑うことができない絶対確実なこととして真理とした。
俺は、決して疑うことができない絶対確実なことなんてないと思っていた。そのため、デカルトのそれを論破しようとした。
俺「結論を前提とする論点先取の虚偽、すなわち論理違反である。」
デカルト「そもそも論理ではなく、直観によるものである。」
俺「なるほど。では、我とは何か。」
デカルト「我とは、考えるということそのものである。」
俺「なるほど。「「我思う、ゆえに我あり」と我思う、ゆえに…というように無限に続くが、無限ってそもそも疑わしい。」
デカルト「最初の「我思う」は全てを対象とした「我思う」であり、
2回目の「我思う」は「我思う、ゆえに我あり」という一部を対象とした「我思う」である。したがって、全ては一部を含むため、2回目以降の「我思う」は、最初の「我思う」に含むことができ、結局「我あり」は決して疑うことができない絶対確実なことである。」
俺「なるほど。もう、手も足も出ないよ。」
このように、俺の反論の結果はフルボッコ。
論破しようとしたが、もう、手も足も出なかった。完全に敗北である。
ここに謝罪する。申し訳ございませんでした。
しかし、ここで、改めて俺は悟る。
「ああ、こんなこともあるのだな。
この世界は、まったく、【俺の真理】」
敗北してもなお、俺の真理はそこに依然としてあったのである。
すべてを認める俺の真理。それはとても愛おしい。
これこそ真理である。
申し訳ないが、ここでは俺の真理の公表は控えさせていただく。
以上である。 -
>>26
デカルトのママ「1くん学校行け働け」 -
デカルトのコギトが成立しないのは、コギトの同一性を論理的に担保できないからじゃないのか?
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>>1である。
私には自信がある。
私は、自分を信じている。なぜなら真理を発見しているからである。
真理とは、すべての本質であり、すべてに適用でき、すべてを認めるものである。申し訳ないが、ここでは真理の公表を控えさせていただく。
世の中には、正しい、正しくないといった概念が存在する。
しかし、真理を発見し、真理に基づいて生きている私が、すべて正しいかといったらそうではない。
なぜなら正しさ(マナー、合法・違法等)は、時間と場所によって変化するからである。
例えば、昭和には駅ホームの任意の場所でタバコを吸うことは正しかったが、今では正しくない。アメリカでは正当な銃の所持は正しいが、日本では正しくない。
ではなぜ、正しくもない私は、自分に自信があるのか。
なぜなら真理を発見しているからである。
それは、正しい、正しくないといった概念をも含むすべての本質であり、すべてに適用でき、すべてを認めるものである。そして、不変である。
いかなる場合であっても、真理は依然として、そこにあり続けるのである。
私は、その真理に基づき生きている。
だからこそ、正しくなくても、私には自信があるのである。 -
「Aが存在する」の意味は次の内どれですか?
1.「私は「Aが存在する」を知っている」
2.「「Aが存在する」を知っている者が存在する」
3.「私は「Aが存在する」を知っている可能性がある」
4.「「Aが存在する」を知っている可能性がある者が存在する」
5.「「Aが存在する」を知っている者が存在する可能性がある」
6.「私は「Aが存在する」を知る可能性がある」
7.「「Aが存在する」を知る可能性がある者が存在する」
8.「「Aが存在する」を知る者が存在する可能性がある」
9.「私は「Bならば「Aが存在する」」を知っているかつBである」
10.「「Bならば「Aが存在する」」を知っている者が存在するかつBである」
11.「私は「Bならば「Aが存在する」」を知っている可能性があるかつBである」
12.「「Bならば「Aが存在する」」を知っている可能性がある者が存在するかつBである」
13.「「Bならば「Aが存在する」」を知っている者が存在する可能性があるBである」
14.「私は「Bならば「Aが存在する」」を知る可能性があるかつBである」
15.「「Bならば「Aが存在する」」を知る可能性がある者が存在するかつBである」
16.「「Bならば「Aが存在する」」を知る者が存在する可能性があるかつBである」 -
1〜16について、真偽とその根拠を述べて下さい
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>>31
答えを言おうか「何でもあり」ですよ -
>>30
光が届かない速度で遠ざかる遠い宇宙空間の事象は人間が知る可能性は無いがこれは存在しないと言って良いのだろうか -
方法序説何て哲学を読んでもしょがないってつくりになってるわけだが。たぶん。
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当時の哲学でも短絡的なものは切ってないと。哲学オンリーとか。
ソクラテスも哲学ばかりが分野じゃないだろ。 -
なんという上から目線
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>>37
メタに立っていたいんだよ立たせてやんな -
>>30
正しくは「Aが存在する」と同値の命題、あるいは「Aが存在する」の諸々の必要条件ではないかな?それにしても「存在する」はどう定義したらいいものだろうか -
机やイスが存在する。
犬や猫が存在する。
それと同じように、存在も存在する。 -
ここで、仮に、「存在」が存在しないと仮定してみよう。
それは、「存在」であることと矛盾する。
ゆえに、「存在」は存在する。 -
BはAよりも大きい。CはBよりも大きい。そのハテには、「これより大いなるものが存在しないもの」がある。
もしも、「これより大いなるものが存在しないもの」が、存在しないとしてみよう。
それには、「存在」という要素が欠けていることになる。
それは、「これより大いなるものが存在しない」ということと矛盾する。 -
神は全知全能だというが、「存在する」という属性が欠けているのならば、神は完全無欠ではない。
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BはAより完全である。CはBより完全である。Dは・・・というのを続けていくと、
いつかは必ず、「完全無欠」に行き当たるはず。
完全無欠なものよりも完全なものはあり得ないから、そこが終着駅となる。
しかし、その完全無欠なものに、「存在する」という要素が欠けているとしたら。
それは、まだ完全無欠ではない。
まだまだ、上には上がある・・・ってことになる。 -
>>1は波平だろうがやっぱアホだな
方法序説すらまともに読めないのか -
あ、今は禊健太郎だったか
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直感は推論の過程がない認識であり、理解は推論の過程のある認識である
「Aがある」や「Aが存在する」というのは直感だろうか?理解だろうか?
「Aが見える」や「Aが聞こえる」や「Aが触れる」は直感だろう
では「Aがある」や「Aが存在する」は直感だろうか?
恐らく「Aがある」や「Aが存在する」は直感ではなく理解であり、我々は成長の過程で「直感されるものは存在するものである」という言葉を学び、諸々の直感が生じる度にこの言葉を思い出して推論し、「Aがある」とか「Aが存在する」とか言っているのではないか -
この世が存在するのかどうかは、確信が持てない。
でも、少なくとも、私は存在する。
自分のことは、自分が一番よくわかっている。
だから、私が存在するということが、私にはわかる。
私が存在するということは、私よりも完全なものはあるはず。
さらに、それよりも完全なものはあるはず。
さらに、それよりも・・・というのを続けていくと、いつかは「完全無欠なもの」に行き当たる。
ところが、その「完全無欠なもの」に、「存在する」という属性が欠けているとしたら。
それは、まだ最高に完全無欠ではない。まだまだ、上には上があるってことになる。 -
>>48
なんだ、いまは波平じゃなくて禊健太郎なのか? -
私には、「完全無欠な存在者」という明晰判明なる観念がある。
私は、不完全なものである。
不完全なものから完全なものが生じることはあり得ない。
つまり、この「完全無欠な存在者」という明晰判明なる観念は、私から生じたものではない。 -
波平スレを見分ける方法を教えてください
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不完全でつまらん論理学講座は終わったかね?
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プキ?
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デカルトのやり方だとある日とつぜん目の前の空間を切り裂いて「外部」の存在がやってきて
「じつはお前が思考できてるのはおれのお蔭だったんでしたー」と宣言するような事態は
想定してないからな。そういう意味では帰納法の現界をもった推論にすぎず、確定的な
真理を述べたものでは無いのは当然。 -
働いたら負け引き籠もりの祖に敬意を
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とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
YWR63 -
デカルトの“疑っている私は疑えない”の「私」とは超越論的な「私」であり、日常的次元での「私」と、
方法的懐疑(思考法)によるすべてを疑った結果認識された「私」とは異なる。 この両者の違いを知識としてだけではなく、
経験・体得することが求められる。 -
超越論的ってどういうこと??
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>>56
そのぐらいのことデカルトは考えてるよ -
イギリスのほうの海にいるニシオンデンザメって
400年ぐらい生きてるそうな
かつて生きていたデカルトさんと同じ時期から
まだ生きてるってことになる -
>>60
>超越論的ってどういうこと?
>デカルトの「疑っている私は疑えない」の“疑っている私”を超越論的な“私(コギト)”とデカルトは述べている。
しかし、この様にデカルトに言われても、我々は“超越論的な私”を、なかなか理解できないのも事実としてある。
“超越論的な私”を具体的に述べると、〜デカルトは、疑っている私(=超越論的な私)に至る為には、「方法的懐疑」という思考法を
使い、“自分の存在を含めて、客観的存在のすべてを疑いなさい”と述べている。 そして、疑っている思考過程に於いて、
“疑い続けている、その思考のバック(=背後)に、思考を意識している自分がいることを認識する”…この思考する自己意識”をデカルトは
超越論的主観(=私)と定義したのである。 -
デカルトは超越論的主観など定義してませんよ
たんに「私」としか言っていない -
自分と俯瞰でよくね?
-
超越論的って、理解してる人あまりいないかもな
難しいもん
俺でも分かるときと分からんときあるし
いつか講釈したるわ、別の場所で -
>>64
たしかにデカルトの方法序説・省察には、“私”しか書いていない。 しかし、デカルトの言う“私”には
二つの異なった概念が存在している。 二つの異なった概念とは、我々の一般生活世界での“日常的次元の私”と
“純粋な次元の私”である。
我々一般の読者にとっては、デカルトの本を読んでいるうちに、“日常的次元の私”と“純粋な次元の私”を混同してしまう
ことが往々にしてある。
デカルト哲学での“日常的生活世界次元の私”とは、いわば“よろい(鎧)をまとっている自我”である。
自分の身体に纏っている“よろい(鎧)”を「方法的懐疑」という思考法によって、その“よろい”を一枚づつ取り除いていき
“純粋な自我(=私)”となることだ。 この“純粋な自我”を超越論的主観と名付けている。
デカルト哲学を論究する為には、同じ意味の私(自我)と捉えてしまう間違いは、論理的に考察するうえで障害となり、
誤った論理結果を導いてしまう。
この過ちを防ぐ為に、分かり易い“別の名前”として「超越論的」と付けている訳です。
尚、“超越論的”という言葉をデカルト哲学に対して最初に使用したのはフッサ−ルである。その後、今日まで多くの哲学者が
“超越論的”という言葉を哲学考察する過程に於いて使用している。 -
超越論的主観はカントの用語であって、デカルト関係なし
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>>68
“超越論的”の概念には、カント的な「超越論的」と、フッサ−ル的な「超越論的」の2通りの概念がある。
カント的な「超越論的」とは、 “対象に関わらないで、ア・プリオリ(先天的)に可能な限りでの対象の認識の仕方に関する
認識のこと”をカントは「超越論的」と定義した。
フッサ−ル的な「超越論的」とは、 “現象学的還元”あるいは“方法的懐疑”によって、対象に直接的に関わって認識される
ことをフッサ−ルは、「超越論的」と定義した。
上記でも分かる様に、フッサ−ル的な「超越論的」の概念は、“方法的懐疑”によって“一切の対象”を疑い、対象そのものと
直接的に深く関わっている。 従って、「超越論的主観(コギト)」は、デカルトと密接に関係している訳です。 -
>>70
「デカルト的省察」(第10節)で、フッサ−ルはデカルトの超越論的な転換の失敗の原因を
“デカルトの場合は、我を思うところの実体とみなし、“因果律のための出発”とするという、致命的な転換によって
まさにそんなふうに考えてしまった。…それゆえに“超越論的主観性”のもつ意味を捉えそこなった。」と記述しているが、
しかし、私はデカルトが行った論理的過程から失敗とは思わない。
それは何故かというと、デカルトは“方法的懐疑”によって、主観的事象そして客観的事象のすべてを“疑い” その究極の
次元に於いて、『不可疑的存在』としての“純粋な自我(私)”に至っている。 そして、次の部分が最も重要なところだが、
“純粋自我(超越論的主観)”と“因果律次元”とは切り離された別々の次元(=領域)として捉えられている。
何故ならば、“純粋自我(超越論的主観)”は、疑うことのできない“不可疑的存在(=超越論的主観)”として独立した領野であるからです。 -
フッサールは自己の用いる超越論的主観性について貴方は
『“現象学的還元”あるいは“方法的懐疑”によって、対象に直接的に関わって認識されること』
と言っているが>>69、貴方は現象学的還元と方法的懐疑は同じものだと考えているのですか
また、「対象に直接的に関わって認識される」ことは実際に可能だと、貴方は思いますか -
貴方がデカルトの論理的過程は失敗とは思わないと言っているが
フッサールはそれを失敗だとした
つまり、フッサールの超越論的主観性は、デカルトのいう『私』とは違うものなのでは、と
貴方は思わなかったのですか -
もし、デカルトの「私」がフッサールの超越論的主観性と同じものだとして
貴方の言うように、デカルトが“失敗していない”とするなら
デカルトを失敗だと断じたフッサールこそが失敗したのだ、と
そういうことになりませんか
また仮に、どちらも失敗はしていないのだ、とするなら
デカルトの私と、フッサールの超越論的主観性は、別の概念である
そういうことになると思われますが、それでよろしいですか -
デカルトの哲学が成功した大きな理由は
存在を疑うことのできない「私」を推論の出発点とすることで
合理的に世界を理解することを可能としたことにあり、
それによってデカルトは近代哲学の父となりました
もし、デカルトの私が因果律のための出発点とならないものだとするなら
デカルトの哲学的成功はは崩壊すると思いますが
貴方はそう思わなかったのですか -
なぜ私の存在を疑うことができないのだ?疑えるだろう
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誰が疑うの??
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仏教の教えはわれ思うの「我」を忘れよと云ってるけどね
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疑っているうちは忘れられないね
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超越論的私
デカルトのは神のコピー(劣化コピー)的オリジナル
コピーは部分的にミスる可能性
フッサ−ルのは神のクローン的オリジナル
クローンはHolisticなリセット
超越的私は神的(the Holy)かな -
>>75
>もし、デカルトの「私」がフッサ−ルの超越論的主観性と同じものだとして
貴方の言うように、デカルトが“失敗していない”とするなら、デカルトを失敗だと断じた
フッサ−ルこそが失敗したのだ、と、そういうことになりませんか。
>フッサ−ルは、デカルトと同じ概念として「超越論的主観(=私)」を理解していたが、
しかし、フッサ−ルが実行した“方法的懐疑”の思考過程は、“主観的事象の一部(学としての部分)”を
意識的に、“疑い(エポケ−)”の思考過程に於いて制限(=除外)していた。
この“疑いでの制限”について、イデ−ンI にて「私たちは、このエポケ−の全般性を制限する。〜ましてや“学”に
至っては、制限は言うまでもないからである。」とフッサ−ルは述べている。
上記の“学”とは、フッサ−ルが唱えている「厳密学としての哲学」としての“学”のことであり、この、自身の“厳密な学”を
意識的に“エポケ−(疑う)”がら除外していることである。
その為に、フッサ−ル自身が“真の超越論的主観(私)”を理論的に理解していながら、あえて、“学に固執”してしまい
実際には、“超越論的主観(私)次元”の一歩手前で踏みとどまってしまったのである。
本来の正しい“方法的懐疑”とは、デカルトも述べている様に、“主観的事象のすべて”と“客観的事象”を疑い(エポケ−)、
その究極の次元に於いて“超越論的主観”を認識することです。 -
>>83
フッサ−ルの目標とした「厳密な学としての哲学」は、“超越論的主観次元”であるところの
“純粋意識(=純粋現象)に於いて、本質観取”することであり、フッサ−ルの求めていたてものは、
デカルトと同じである。 しかし、>>82でも書いたように、フッサ−ルは方法的懐疑に於いて、“主観の
一部(学としての部分)”を除外した為に、フッサ−ル本来の目標としていた「厳密な学としての哲学」に至らなかった
と言うことです。
従って、デカルトは方法的懐疑によって“純粋意識(純粋現象)”に至り、この次元にて現れる現象を、本質観取している。
この、方法的懐疑による“純粋意識”から本質観取までの一連の思考過程は、『方法序説』第二部に「四つの規則」として、
記述されている。 -
超人論も懐かしいけど
、厳密な学問の哲学というと、主観客観の認識を排除したという無理な状態であって、
余るものの予後を考えていなかったという反省に立っています。 -
>>82
その観点だと、仏教もそうだよね。仏教で説く無執着を真に実践するのであれば、
そうした仏教の教え自体をも棄却して、そこから離れていなければならないので
あって。だから、仏教者が仏教の教えを深く信奉し、そこに集中するのは、
その教義の無執着と解脱に矛盾してしまうというパラドクスがそこに成立する。
まあ、世の中には、そうした論理的に突き詰めていくと、
パラドキシカルな状況になることが多々あるので、
適当な所で、エポケー、妥協できるのが正常人なのだろう。 -
女性に執着をなくすことは無理。時間論の問題になってくる。
-
>>84
デカルトが採用した「4つの規則」とは何か、引用してもらえますか -
貴方もお忙しいでしょうから、私が引用しましょう
デカルトが敷いた4つの規則
1)私が明証的に真であると認めなければ、どんなことも真として受け入れない
2)私が検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの小部分に分解する
3)私は思考を順序にしたがって導く
4)すべて場合に、完全な枚挙と全体に渡る見通しをして、見落としがないようにする
<デカルトは方法的懐疑の対象からこれらの規則を事実上除外している>
と私は思いますが、貴方はそう思わなかったのですね -
>>93
その新しい“現象学の哲学”は、既存の学問ではありませんよね
(新しい哲学としての現象学、と言った方が良いのでは?)
それまでの哲学は厳密ではなかった(と少なくともフッサールは思っていた)
つまり、いつまでも「あーでもない、こーでもない」と不毛な形而上学をぶち上げては
その批判をする、その繰り返しでしかなく、「学ぶべき哲学」としては結実しない
フッサールは「学ぶべき哲学」の結実を望んだ
その意味は、「客観的に基礎づけられたな哲学」」ということです
万人が納得するための基礎となり得る岩盤を探り当てましょう
その思いを「厳密な学」という言葉に込めたのです
これは私勝手なの思い込みでも何でもなくて、「厳密な学としての哲学」で
フッサール自身が宣言していることです
その新しい歩み(厳密な学を求める道程)を踏み出すために、「判断停止」という武器を
発見した
しかし結局フッサールの挑戦はは成功したとは思えません
中途半端かつ絶妙に論理を内包するデカルトの「私」の方が成功したのとは対照的です
貴方の言ってることは、まるで的外れだと、私は思いますね -
>>95
「現象学的思考」は貴方も理解していると思うが、「前提(命題)」を設定しない思考です。そして、演繹のように「前提」を
設定する思考が「形式論理思考」です。
デカルトの「四つの規則」の(三)で「私の思考を順序に従って導くこと、すなわち最も単純で少しずつ、いわば段階を追って、
最も複雑なものの認識にまで登って行き、かつ、自然のままでは前後の順序を持たぬものの間にさえも順序を想定して進むこと。」と、
述べている、 そして、そのあとに「すべての事物のうち、真ならぬ いかなるものも真として受け入れることなく、かつ、それら事物の
あるものを他のものから“演繹”するに必要な順序をつねに守ること。」と、デカルトは述べている。
上記の「私の思考を順序に従って導くこと。」と、デカルトは述べているが、この“思考を順序に従う”とは、『演繹的思考』のことであり、
(三)の項目は、“形式論理思考(演繹)”を記述している。
従って、デカルトの「四つの規則」の(1)は、“明証的にその通りであると認識”するのは、“純粋意識(純粋現象”)であり、
(2)は、現象学での“本質観取”と解釈している。
(3)は、上記の(2)で本質記述された諸現象を“演繹を基底”として、命題化(=前提化)し、推論から結論へと諸現象を順序だてる。
(4)は、現象学的思考(1)→本質観取(2)→形式論理思考(3)までを、完全な枚挙と全体にわたる通覧をする。
上記の(1)〜(4)が、私の解釈している「四つの規則」の内容です。 -
>>97
デカルトが明快に述べている4つの規則を
わざわざ現象学の小難しい用語に置き換える意味が分かりません
そもそも、そのような置き換えは不可能であるし、意義がないと私は思いますが
貴方はそうは思わないのでしょう
デカルトとフッサールが似ているのは目的だけであり、やりかたは全然ちがう
純粋意識というのは多分こういうことです
通常我々が生きているときには、「自然的一般命題」に従って世界を認識している
それはつまり、意識の外に時間空間的な形でものが存在している、そういう認識です
しかしその認識に対しては、、
<単にその存在を信じているだけである(主観が超越的なものを定立している)>
と疑う自由がある、これが普通の懐疑論
デカルトは、その存在を疑えない「(論理的に疑う)思惟」を論理もろとも救い出し、
“神”と論理の力で時間空間的な世界を構成し、懐疑論を粉砕した
フッサールの場合は、通常定立される“もの”は超越しているから、そこで態度変更を行い
認識される対象を括弧に入れて(判断中止)、超越世界を定立する働きだけを排除し、
<対象としてはなにものも失うことなくそっくりそのまま内在世界に取り込む>
この取り込まれた領域を(とりあえず領域とでも言っておくしかない)、『純粋意識』または
『超越論的主観性』と呼ぶことにする
と、そういうことでしょう
(フッサール自身、現象学的残余と口走ったこともあるようですが、後に否定したようです) -
本質観取(本質直観)というのは、現象学的な態度変更によって成立した純粋意識の
(本質的)構造を記述的に分析するために、(フッサールによって)許可された力、
とでも言ったら良いのでしょうかね
簡単に言うと、<聞こえてくる音と見えている色は、本質的に違うものである>
そのような区別を可能とする直観的な力のことを本質直観と言うようですが、
どうしフッサールがそのような定立を妥当としたのか、私には分かりません -
ここまで書いておいて>>97を読み返してみましたが、
何を言っておられるのか、私にはさっぱり分かりませんね
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