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哲学
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哲学板にいる奴は全員哀れな馬鹿★2
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チー牛の特徴
・アニメとゲーム両方とも好き
・加藤純一好き
・ライトノベル好き
・モンスターエナジー(魔剤)好き
・かつや好き
・ニューバランスのスニーカー(ベトナム製インドネシア製)またはアシックス(オニツカタイガーじゃない方)履いてる
・GATSBYの整髪料とか化粧水使ってる
・実年齢より肌がきれいor幼く見える
・上半身の骨格が歪んでる
・童貞
この辺に心当たりがあれば素質あるで -
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下水管破損 道路に“大穴”トラックが転落 救助難航「2つのガス」が一因か
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トランプ大統領が「ダボス会議のエリートたちに彼らの反人類的計画は終わった」と告げた?そのような発言はない【ファクトチェック】
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山里亮太が日本テレビ『DayDay.』でフジテレビ問題の文春訂正を報じるも“お門違いコメント”、問われるMC力
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マジ終わり
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可哀想やん
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死んでも治らないかもしれない
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おじいちゃんたちがかわいそう
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それ以上は言うな
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悲しい
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かわいそうじゃないか
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>>1 乙
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おやすみなさい。なさ
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直球は人を傷つける
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さすがに自覚はあると思うが
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と、いうより、コミュニケーションが無理
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変化球は人を惑わせ、混乱させる
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>>9
yes. -
test
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test2
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ばかばっかだまったくyo!
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salut!
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('ω')ノ
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このスレのレスは全部波平?
それとも波平の他にも、波平みたいなコミュ障のガイジがいるのであろうか。 -
引きこもりのお爺ちゃんたち
おはよう -
引きこもりのお爺ちゃんたち
おはよう -
泣けるね
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ことばの意味を理解するとは、ことばの「定義を知る」ことではなく、表現として意図された働きを妥当に意識できるようにすることである。
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例えば、つぎのことばについて考へてみよう。
>やそ−とものを 【八十伴の緒・八十伴の男】
多くの部族の長。また、朝廷に仕える多くの役人。
学研全訳古語辞典 -
「やそとものを」といふ表現は、具体例として、「八十友之雄乎 撫賜 等登能倍賜」のように万葉集に詠まれた歌に見ることができる。
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そこで、「やそとものを」を辞書で引けば、見てのとおり、「多くの部族の長」、「朝廷に仕える多くの役人」といふ「定義が与へられている」。
では、これにより、「やそとものを」といふ「ことばの意味」が理解できたことになるのだろうか。私には、そうであるとは思えない。 -
ここで、私は、与へられている「定義」が誤っているとか、不適切であると指摘しようとしているのではない。
そうではなく、いくらこれを「やそとものを」といふ「ことば」の「定義」として暗記してみたところで、そのことばの表現としての意味を理解したことにはならないと言っているのである。 -
なぜだろうか。「やそ(八十)」と「とも(伴/友)」の表現上の関係を考へてみれば、気づくはずである。
「やそともの」といふ表現は、そもそも、「いちかばちか」、「のるかそるか」といふ表現における「いち」と「ばち」、「のる」と「そる」を意図的に組み合はせたような、「撞着語法」/"oxymoron"として用ゐられているの。 -
引用した辞書の定義では、「やそ(八十)の」は、単に「多くの」と解釈され、「を(雄)」は、文脈から「部族の長」または「朝廷に仕える役人」に置き換へられている。
しかし、これでは、元のことばが「表現法として伝へようとする意図」は、完全に見失われる。 -
私は、日本語の「八(や/ぱっ)」がドイツ語の前綴りの"ver-"に対応する感覚を伝へ、逆に、ドイツ語や英語の"be-"が"to be/being as one"として「ひとつになる/とも(伴/友)なふ/随伴する」ことに対応する感覚を伝えることを指摘してきたが、ここでは、その捉へ方をそのまま応用することができる。
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「やそ(八十)」の「そ」の声が伝へるのは、「そ(反)る」の「そ」と共通の感覚であり、したがって、「やそ(八十)」ということばの意味は、単に「多くの」といふことではなく、
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英語で言へば、"various/a variety of 〜"であり、日本語の「や(八)」とドイツ語の"ver-"の対応関係を意識するなら、"verschieden"といふことになる。
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「を」は、「雄(を)」として「ますらを(大丈夫)」の「を(男)」であるとともに、「〜を!」/"Wollen"の「を」であり、
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その「をを(雄々)しさ)」が「『やそ(八十)』であること」/"Verschiedenheit"を、な(撫)で、ととの(整)へ、な(並)めることにおいてこそ、それが「撞着語法」/"oxymoron"として用ゐられる「やそとものを(八十友(/伴)之雄(/緒))」といふ「ことばの表現」となる。
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そして、そのようにしてもたらされた表現として「やそとものを(八十友(/伴)之雄(/緒))を」といふ感覚を、ドイツ語に対応させて説明してようとするなら、例えば、"verschiedene Begleitungen"といったような表現を用ゐることになるだろう。
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https://de.vecteezy....hiedene-begleitungen
>indonesisch nasi kuning mit verschiedene Begleitungen Pro Foto -
このように考へをめぐらせてみれば、ドイツ語の表現法において、"be-"と"ver-"が対照をなしていることにも気づくことができる。
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確かに私は、好き勝手に言ひたい放題のことを言っているが、そのことで私にもたらされる見返りは、潜在的にさらに危険なものでないとしても、書込み規制だけであり、世間的な意味で私が得る「実利」は皆無である。
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では、私にもたらされる「実利」が皆無であるにもかかわらず、なぜ私は、さまざまな奇妙な書込み規制を繰り返し受けながらでも、しつこく書込みをつづけるのだろうか。
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それは、私が書き込んでいるようなことについて自身でも気づいて意識するような人々が増えれば、いかさま言説で商売をする人々の商売がしにくくなり、いかさま言説の蔓延が抑制されるなら、
そのことにより、私にとっても、不特定の他人にとっても、少しでも状況がより快適となることを期待しているからである。 -
見てのとおり、私は、書込みにより、自分が売り込もうとする商品やサービス、あるいは政治/宗教思想のようなものを宣伝しているわけではない。
私の書込みは、誰か個人を貶めようとするものでもなければ、私が匿名でしか書き込まないことからも分かるとおり、私個人の名声を高めることを目的とするものでもない。 -
無論、私は、匿名で書き込むことで、私が個人として特定されるリスクを免れて自分のプライバシーが保護されるという幻想を抱いているわけでもない。
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このような匿名の書込みの影響力は、公共の場での落書きと同様である。
書込みが特定の個人に関するものでない以上、だれもそれに関心をもつ必要はなく、そこに居合わせた人々に進行すべき方向を指示する矢印のようなものですらないので、不特定の人々を正しい/誤った方向に誘導するように作用することもない。 -
しかし、人は、他人によって気づかされたとしても、それにより自身でも気づいてしまったことを意識せずには居られない。
私は、私が気になることを他人も同様に気にしなければならないと要求しているのではなく、他人も同様の気づくのかどうか確かめているだけである。 -
私がいくら気づくように示しても、気づかない、あるいは気づいたとしても、気にかけないというのなら、それはそれでいい。
私は、そのように振る舞ふ人々のそのような振舞いが、自分に有利に働くように判断を下すだけのことである。 -
他人も同様の気づくのかどうか ×
他人も同様に気づくのかどうか 〇 -
世の中は、虚々実々なのだから、生き延びるためには、清濁併せ呑むことを必要とすることがあるのも確かである。しかし、自分から進んで泥をかぶることが潔い、立派な態度であるかのように思い込ませようとする人間は、信用できない。
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自分から進んで泥をかぶる役を引き受けることで、無論、組織において高く評価されて「実力で」のし上がるように見える人々は、周囲からも一目置かれることになるが、その裏の仕掛けは、それを「手本」として真似ようとするような人々の目からはつねに隠されている。
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いづれにせよ、誰を「フォールガイ」として陥れるか、互いに競い合っている連中や、一見すると、「フォールガイ」として陥れられたかのように見えて、
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その実、「勝ち逃げ」の立場が最初から保証されているような身分の人々を、自分が「手本」として真似できると思ふのは、賢明ではないだろう。
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箱根温泉、熱海温泉、別府温泉、嬉野温泉、杖立温泉。
どれも素晴らしかった。
哲学を学んで良かった。
何故か?
クイズです。 -
>>9
該当なし -
これは以前から指摘していることだが、ゲルマン語系の"be-"、およびそれに対応するラテン語系の"co(n/m)-"は、日本語の「〜ふ」およびその活用形と表現法としては異なるものの、それまでは不在の存在者として意識されなかった、「作用において随伴するもの」を、「片身の存在者(つまり、「ともなふもの」/"being as one in 〜")」として意識させる働きをすることにおいて互ひによく似ている。
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例えば、日本語の「そ(反)り」と「そ(沿)ひ」、「そ(逸)れ」と「そろ(揃)ひ」の関係を念頭に、英語の"compliance"といふ表現について考へてみるといい。
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"compliance"は、「のるかそるか」といふ日本語の表現に照らして見るなら、「そ(反)ること」ではなく、「の(則)ること」を意味している。
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ところが、語源的に解釈すれば、"condolence"が「『いた(悼/傷/痛)むこと』において『ともなふ』こと」/"being as one in feeling pain"を意味するように、"compliance"は、「屈曲すること』において『ともなふ』こと」」/"being as one in bending"を意味している。
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つまり、"compliance"から"-pliance"だけを切り離してみるならば、それが表現しているのは、「屈曲すること」であり、何かが「屈曲する」ならば、それは「そ(反)る/そ(逸)れる」ことになるだろう。
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ところが、その「屈曲する」作用が、"to be as one"という効果をもたらすように働くことで、むしろ逆に「の(則)る」ことを表現することになる。
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これに対して、日本語の「そ(反)り」と「そ(沿)ひ」、「そ(逸)れ」と「そろ(揃)ひ」の関係は、どうなっているだろうか。
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日本語の「〜ふ」およびその活用形は、以前から指摘するとおり、「〜(の作用を)ひっくりかへす」といふ、「〜」をどのように扱ふかについての「メタ言語的な指示」であり、「〜ふ」自体は、ドイツ語にすれば、"wiederum"に対応するような表現である。
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「〜(の作用を)ひっくりかへす」とは、喩えるなら、(「そ(反)り」)^-1="being as one"/"being deviant"=1/「そ(反)り」=「そ(沿)ひ」を導き出すような操作である。
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そして、このような操作が可能となるのは、「〜ふ」の「〜(の作用を)ひっくりかへす」といふ「メタ言語的な指示」が、「作用において随伴するもの」を、「片身の存在者(つまり、「ともなふもの」/"being as one in 〜")」として意識させるからに他ならないと考へられる。
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すこし勇み足で「や(八/夜)そ(十/蘇)」の「そ(十/蘇)」が甲類の「そ」の声であるとされているのに対して、「そむ(背)く」の「そ」は、乙類の「そ」の声であるとされる違ひを無視してしまったな。
ただ、私は、甲類とされる「そ」と乙類とされる「そ」は、まったく別々の声として認識されたのではなく、互いに関連するように捉へられていただろうと(特に明確な根拠なく)思っている。 -
いづれにせよ、>「やそ(八十)」の「そ」の声が伝へるのは、「そ(反)る」の「そ」と共通の感覚であり
と云ふ言明は、明白に誤りであるので、取り消しておく。 -
ただし、主眼は、「八(や)」と「とも(伴/友)」の対比にあるので、論旨は変わらない。
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声が想起するイメージにどのように混乱が生じたのかを明らかにすることも、歩みをさらに進めるのに役立つ。
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「そむ(背)く」や「そそり立つ」の「そ」は、乙類の「そ」であるが、「十(そ)」は、甲類の「そ」である。
甲類の「そ」は、>「可美都氣努 安蘇能麻素武良」を見れば、「素(す)通り」の「す」の活用形として、作用に何かが介在してそれを間接的にすることのない様態を表現している。 -
その一方で、「阻止」、「組織」、「祖先」、「粗雑」などの漢語において「そ」を表す漢字の象形の右側の「且」は、何かが積み上がったようなイメージを私に想起させ、そのことが「そそり立つ」イメージとの混乱を私にもたらすのである。
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おはようございます
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治るかなぁ?
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おやすみ💤
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真理研?
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私は、日本語の古語の「をかし」は、「意欲を呼び覚ますはたらきをする/活気づけるはたらきをする」ことを表現し、「をかし」に対応するドイツ語の表現は、"belebend"であると指摘したが、「をかし」という声遣ひと重なり、表現法の形態としてもそのまま重なる英語の表現が"evocative"である。
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そして、「意欲を呼び覚ますはたらきをする/活気づけるはたらきをする」ことを表現するものと解釈された「をかし」が"evocative"に対応するとすることは、私個人の独特の感性に基づくものではない。
そのことは、"evocative"を検索することによりヒットした、次の歌詞を見ても確認できる。
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