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哲学
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≪ 哲学的ゾンビ ≫について 4
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哲学的ゾンビ
言動や社会性の面でも、生理学・解剖学的にも普通の人間そのものだが、
内面的な意識をもたないという思考実験上の存在
〔補足〕
オーストラリアの哲学者D=チャーマーズが提唱。哲学的ゾンビが喜怒哀楽など
様々な感情を表出したとしても、それは内的な情動の発露でなく、機械的な反応・
演算の結果として出力しているにすぎないが、現実の人間がそのような存在でないと
証明することはできない。
goo辞書より
このスレは哲学的ゾンビに関する議論にお使いください。
前スレ
≪ 哲学的ゾンビ ≫について 3
https://itest.5ch.ne...gi/philo/1718304684/ - コメントを投稿する
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>>2
そういうテーマは複雑系やカオス理論の話だよ -
トランプ銃撃どころか、太陽が明日も東から昇り、西へ日が沈むも自明ではない、としたのがヒュームだから、科学的な認識や論証、実証自体、哲学では懐疑の対象になる。ポパーの反証可能性は、また別の科学哲学になるが
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でももう空ではなくその充溢についてこそ語らねばならなくなった
人類史的にも大きな飛躍のとき -
>>6
空とは、空虚や無のことでなく、実体がないということだから、現象としては如何ようにも変容しうるという可能態のことを指している。だからその意味では、空は充溢である、と表現しても良いだろう。だが空における充溢は固定的ではなく、無常によって散逸していく散逸系である。それをエントロピー増大とすれば、情報理論や物理学的な表現になる -
このスレで忘却のことを述べていた者もいたが、昔の価値観を忘れることで、新しいシーニュやイマージュ、創発が到来しうるようになる。こうしたことも仏教の空観に対応付けられるかもしれない
逆にプラトンならアナムネーシスで想起によって喪われた楽園や真実界を回復することが哲学的な営為の一つになる -
圏論では忘却関手という概念があるように、忘却にも利点が備わるのである
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最近子育ての過程で、教育と政治に興味がでたのだけど、ハンナ・アーレントとか入門には良い?きつい?
現代の哲学研究者の入門書を読んだほうがいいのかな -
ラカンのセミネールにあった印象的な台詞に、「汝は汝の憎む者なり」というものがある。これは主体が自己自身のことを真に知らない、という極限状況を示唆している。実際、自分の顔さえ、自分は真に見たことがないのである。鏡や画像、映像に映る疑似自分の顔しか見たことがないのである
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>>10
汝自身を知れで、他人の傾向性を訊ねるより、自分の喫緊の内発的ニーズを充足しうるかの予想で選択すればよいかもよ。
政治なら、ベンサムやミルの功利主義やローティ、サンデル、ロールズの無知のヴェールとか何でもいいけど、自分のニーズに依るとしか言えない。 -
「サマータイムレンダ」というアニメがあり、去年の夏、あまりにも長すぎるのでいくつか途中まで観て、夏なので、今日から、またその途中から見始めているが、筋が複雑過ぎてあまり理解できないが、哲学的ゾンビと同じ意匠がこのアニメにはある。
人間を記憶ごとコピーしていくシーンがあって、本物とコピーの人物が同時存在し、なおかつそれらの人物が平行宇宙を何度も往復して生死を繰り返して、シナリオを望み通りに変えようと苦心している物語である -
平行宇宙というより、決死のタイムトラベルをしている感じだろうか。サマータイムレンダでは、時空を超える際「イベントホライゾン」というものが出てくるが、これは物理学で出てくる用語で、「事象の地平面」と呼ばれるものである。イベントホライゾンは、ブラックホールの表層にあるものである
そこはどこかゼロ・ポイント・フィールド仮説のような全情報空間や特異的な場のようなものも連想させる -
ある地点xのある時刻tで死んだ者aが、別のある地点yのある時刻t'でa'として生き返り、過去の規定のシナリオを変えようとするマルチバースや平行宇宙的な観点のあるアニメだが、まんざら荒唐無稽というものでもなく、ありうる世界線の一つと哲学的に考えてもよいだろう。
マルクス・ガブリエルの「世界は存在しない」は、包括的な一つの世界が存在しないという意味であり、一意的な客体に包括されない多元的宇宙の存在を示唆している。平行宇宙やマルチバースはこうした非知の領域の時空である -
意識現象は誰でも日常的に経験しているのに、物理学は排斥している。
意識現象は「定量的かつ反復的に観測できない」のでお手上げだ、
と正直に言えばいいのに、「意識は存在しない」などとシラを切る。 -
ベルクソンもポールとピエールというほぼ同一な2人の人間を使って哲学的ゾンビに類似の思考実験をしている。あと、意識体験の量の違いによる意識体験の根元的な異質性にも触れている
ベルクソンの別の思考実験では、物理法則は全て同じだが、あらゆるものが倍速で経過する仮想世界の地球を想像している。そこでは1日が12時間で終わり、我々の喜怒哀楽や経験、体験の時間量もそこは倍速で進む世界なので、全て半分になるのだが、そこでの体験は質的に前者とは異なるとベルクソンは考えている -
好き嫌いなどの感覚もいわば感情の量の閾値による主観的な分類になるので、全てが倍速で進むベルクソンの世界では、以前のままの好き嫌いが持続的に保たれるかは、疑問符がつく、ということになるだろう。
つまり、主体の抱く感情の種類は、その時間量や時間の持続性に拠るので、倍速の世界ではそれらの主体の感情が保存されなくなるだろう、というのがベルクソン的な観点になる。これは、一種の哲学的なゾンビの問題系でもある。 -
物理法則は因果律を前提しているので、いわば決定論的な世界観になる。決定論的でない場合は確率的に予備的に定量化しうるものがその対象となる。
ベルクソンが言うように、意識的な内的世界の経験の特徴はその1回性にあり、意識体験には科学的な反復や再現性はないので、端から物理学が扱える対象ではない。だから、物理学では意識は(あつかえ)無いとして置くのだろう -
つまり、物理法則は決定論なのでそこに基本的には自由がないのに対して、意識や内的体験は非決定論的なので自由の領域がありうるということになる。
この自由の有無が人間と哲学的ゾンビの質的違いなのかもしれない。内的自由がある人間と、ただ自由があるかのように人間をコピーして振る舞うだけの哲学的ゾンビの違い -
ただ複雑な粒度の問題や隠れた変数の問題などで、本当は内的意識体験や就寝中の夢内容も生理学含めた諸々の要因によって因果律的に決定されている可能性もあるので、そうなると科学的な知見や検出器の今後の進化などによって、意識体験も物理学で定量化して扱えることもありうるかもしれない
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それは基本的には、フランシス・クリックの「驚くべき仮説」と同趣旨ですね。
つまり、ハードブロブレムは無いとの立場のように見えます。
チャーマーズなら、それはイージープロブレムと言うでしょう。 -
そうなると思うけど、「驚くべき仮説」のようなニューロン決定論みたいなものは、人間の持つ魂や霊性までは扱えないような気がする、そんなものは存在しない、という検証含めて。せいぜい、人間の行為や心的現象に関する決定論的な予見はそれらが扱える可能性があったとしてもね
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ベルクソンの定義によると、多性の概念は以下のようになる
・外界で観察できるような量的多数性。これは量的であるがゆえに、物理学など
科学がその対象領域とするものである。
・意識体験や心的事象において感じられる質的多様性。これは量に還元できない
質的な体験や現象になるため定量化が必要な科学では原理的に扱えないものである
哲学的ゾンビには、この後者の意識体験が無いということだから、ある意味、物理学が
扱える外在的な対象となるだろうが、定量化に依存する科学では、この哲学的なゾンビと
我々意識体験を持つ人間を区別することも、また同時に不可能になることであろう。 -
また、外界で観察・観測できるような量的多数性の世界は、決定論的な世界で
あるとも言える。それに対して、意識体験や心的事象などに代表されるような
質的多様性の世界は、自由な行為を可能にする非決定論的な世界である、と
ベルクソン的には区分される。
科学で扱える量的多数性の世界は再現性が可能であるので、複製することも
容易であろう。同じ型の製品やロボットが工業的に大量生産されるのもそうした一例だ。
そのため、未来には哲学的なゾンビも科学の力によって製造・開発されるかもしれない
質的多様性の世界では、たとえば就寝中に見る夢など一回性のもので、再現性の
ない対象が多いことだろう。それゆえ個々人の持つ精妙な意識体験は定量化には
不向きであり、よって、そこには非決定論的な自由な行為の領域が広がっていると
ベルクソンは考えている。 -
カント哲学において、非感覚的な直観の対象となるものは、ヌーメノンと
呼ばれる。ヌーメノンは可想的存在を意味するので、物自体同様、哲学的なゾンビも
ヌーメノンのカテゴリに属するものになる。反対に、感覚的な直観の対象になるものは
カント哲学においてはフェノメノン(現象的存在)と呼ばれるものになる
哲学は、このヌーメノン(可想的存在)を巧妙に用いることで、その哲学的概念の
イメージを上手く描写出来るようになることだろう。このヌーメノンという不可知性
の領域にあるものを扱えるのが、科学と哲学の大きな違いでもある -
意識は確率的決定論に属するモノではないだろうか?
しかし、それは現時点の科学では扱えない。
実際、意識は一定の規則性、再現性、定量性を有しているのは疑いようがない。
問題は意識が量子のような確率性、ランダム性を有しており、現代科学ではそれを解析出来ない事だ。
今のAIは単純化した意識であり、それは哲学的ゾンビと言える。
もし意識の解析が完了して、我々と寸分違わぬ人口意識が作られたとしたならば、それは哲学的ゾンビでもあり人間でもあると言える。 -
哲学とは自明性の外部を思考/志向することである
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現代の人々は安直な解や答えを早急に求めるのだが、哲学は、そうした安直なスタンスは取らず、むしろ、問いをより深化させる方向性を持つ
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問いを問うことが哲学である
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「意識」に関する哲学レベルでの議論は全部ウィトゲンシュタインで終わってるよ
少し掘り下げて意識を構成するものについて考えたのがクワイン -
理性の呼び声まだ読めてない
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西洋的な価値観においては、理性や思考、抽象的な概念に優位性が置かれ、
感情、情動、感性、本能などは理性によって制御されるべき下位へと置かれる傾向にある。
デカルトであれば、「我思うゆえに我あり」となり、決して、「我感じるゆえに我あり」
とはならなかったのである。
また、理性や思考は定量化への志向があるため、それは、そのまま現代の科学的な方法論と
通底するものとなる。それらは定量的に数えられるものの領域へとその座標を移される。
ベルクソンであれば、数量的なモノはそれらを配置する空間を要請するゆえに、空間的な
モノであるとされる。逆に、意識体験や心象はそうした外在的な空間を必要としないため、
それらは時間的な領域にある内的持続とされる。 -
現代の資本主義社会もこうした数えられる定量化をベースにした社会であると
言える。対象は定量化・指数化され、価値は貨幣や数えられるデータとして可視化
される。つまり、我々は定量化された生活世界の中に日々埋没していると言える。
資産、預貯金、健康寿命、バイタルデータ、GDP、気候変動、株価、経済成長率、
少子化、何でも指数化してそれらを理解したことにするのである。
そこでは量こそ問われても、質が問われることは滅多にない。定量化できる年収や
資産、学歴、年齢、家や車、子供の有無は問われることはあるが、定量化の困難な
心や意識の質、内容を問われるは滅多にないのである。この全面的な定量化志向に
精神が侵食されることで、現代人の歪み、心的なバイアスが生じていると考えられる。
この意味で、表層的に眺めれば、我々現代人と哲学的なゾンビは実質的にはあまり
変わりないと言える。なぜなら、社会的に問われ必要とされているのは定量化可能な
機能や指標であり、非定量化の領域にある意識や心の内実や質を問われることは
殆どないからである。 -
よって、こうした社会の全面的定量化・指数化が進む現代社会では、人々は人間と
しての(資)質を問われる場面がないため、他者と代替・交換可能な単なる機能として
見られるようになった(機械的・マニュアル的)人間は、今後、AIによってその機能を
機械的・自動的に置換されていくであろうから、人間の社会的な役割は低減していく
ことが予想される。そこでは、他者との代替が効かない、かけがえのない<私>は
どこにも存在していないのである。
そこで哲学的な方向性として重要なのは、社会の哲学的なゾンビ化(全面的定量・指数化)が
進む中で、今まで蔑ろにされてきた非定量化の領域にある内的な質というものの考究を
いかに深め、広げていくかである。資本主義や貨幣の奴隷になっている人々もある意味
ゾンビや廃人、薬物ジャンキーであり、そこでは心や意識の中にある質への感性を失った
魂の抜け殻たちが毎日金、金言いながら不気味に虫のように蠢いているとも言える -
>>28
>実際、意識は一定の規則性、再現性、定量性を有しているのは疑いようがない。
なんでそれが疑いようがないの?哲学的にそれは十分疑えるものになると思うが
たとえば、多重人格者の各人格の意識には規則性や再現性、定量性はあるのか?
条件aでxという人格が生じ、条件bではyという別人格が出現するみたいな -
すすきの頭部切断事件の犯人の女性は、多重人格者であったらしいよ
父親は精神科医だったから、それらの複数人格の意識を定量化できるのであれば
上手く治療できたと思うが、実際は、娘に対して何も治療的な効果のあることは
出来なかったのが現実だよ。出来たのは娘の求めに応じて死体損壊を手伝ったことくらい
つまり、意識の問題は単純に定量化できるようなイージープロブレムではないであろうと
いうことだ。 -
>「意識」に関する哲学レベルでの議論は全部ウィトゲンシュタインで終わってるよ
これも違うだろう。意識を言語や主観の問題にウィトが勝手に縮減して、解決したことにしているだけ -
少なくともお前よりは賢いよ
-
第一に意識の質の定量化は難しい、なぜなら質は主観に属するからだ。
第二に主観による意識の質は、この世界の物事(主観外)において何らかの影響を与えているのか?と言う事だ。
つまり人々の行動原理に意識の質が直接関係しているのか?という部分に疑義が存在する。(ほとんどの行動は意識の質なしに説明可能だろう)
生存に対して定量化意識は必須と言える。しかし、質的意識は必要ないと考えられる。
なぜ質的意識は計測に向かず、主観上にしか存在しないのか?ここが重要なポイントだろう。 -
現代人の精神の型というものを一言で表せば、それは「性急さ」であると言える
性急に問題に対する答えを求め、性急に分かったこと、理解したことにしてしまう。
生成AIも問題の要点だけを性急に抽出してくれる。それをざっと読んで、現代人は
物事を分かったことにしてしまうのである。こうした現代人の性急さと短絡さ、浅さは、
主に現代の資本主義の精神と合致しているものであるが、この思考停止的な性急さに
警鐘を鳴らせるのがディープな思考の射程と営為を持つ哲学であると言える。
哲学の思考の歩みは一見すると亀の歩みのように遅いので、それ自体、性急さを
求める強迫神経症的な現代の資本主義へのアンチテーゼになるのだ。 -
そもそも現代人は、それほど思考している訳ではなく、単に反射している、といった
状態に近いかもしれない。オペランド条件付でマウスがS-Rモデルで記述されるように、
現代人も刺激に反射して応答しているだけであり、その間に深い思索の痕跡を有している
ような人はほとんどいない。そのため、ひろゆきのような脊髄反射の即答が好まれたりする。
もちろん、ひろゆきには深い知識を学ぶ時間も能力もないので、ネットで拾ったいい加減
な表層的知識を適当に喋っているだけである。だが、この浅薄なひろゆきスタイルこそが、
現代の資本主義が人々に要求している精神の型でもあるのである。 -
外延的:量的な対象物。外界にある物質的なもの、数えられるもの
非外延的:質的な事象。意識状態や心理的なもの、感情など数えられにくいもの -
ベルクソンの「質的異質性」は、質によって互いに異質化される精神的事象を
意味している。異質性は、ベルクソンの内的持続を規定するキー概念である。
純粋持続のうちにある意識は、その持続の進展に沿って、絶えず自らを異化
し続ける存在である。 -
AIや哲学的なゾンビには>>44にある非外延的な項が無いと言える
また、質的なものは定量化が困難であり、それは往々、主観的な体験
や独自の心象として感受されるものなので、客体化することもしづらいであろう
たとえば、同じように株で損をしても(外延的事象)、人々の反応はそれぞれ異なる
(非外延的事象)のである。損失で寝れなくなる人もいえば、笑い転げている人間も
いるのである -
チャーマーズは、デカルトの心身二元論をシミュレーションのモデルを使う
ことで現代でも想定可能だとしている。その方法は、この世界をバーチャルな
仮想現実とみなすことである。そのとき、今の我々はゲームの中のアバターのような
住民や存在者となり、それぞれプログラムされた設定に従って仮想現実内を活動する
エージェントとなる。仮想現実内であっても物理学的な物理エンジンが実装されている
ので、そこでも物理学の法則(重力、斥力、加速度など)は整合性を持って現れる
そして、このコンピュータゲームや仮想現実の外部にいるのが、通常の場合では
我々人間なのだが、そこをチャーマーズは、デカルトの心身二元論の心が存在して
いる特異なトポスとした。つまり、仮想現実的なゲーム内にいるのがデカルト心身二元論の
中における身体やアバターとしての外観であり、そのゲームの外部で自分というアバターを
制御しているのが心である。よって、心は世界-内-存在(仮想現実)の中にあるのでなく、
その外部である形而上学的な領域に存在している、とするのがチャーマーズによる
デカルト心身二元論の現代的なアプローチとその理解になる -
ゲームをしていて、そのキャラクターが倒されたりして死んでも、それに同期してその操作をしていた私たち自身が死なないように、もしこの世界が仮想現実やシミュレーション世界のようなものだとしたら、ゲーム内のアバターのような私たちが肉体的にこの仮想現実でいつか死んでも、心は仮想現実内にあるアバターの肉体や脳神経のネットワークの中にではなく、その外部や形而上学的な領域にあるため、私という自己意識や心は、私が肉体的にいつか死んでも、そのまま何処か未知の外部に存在していることになる。
つまり、私の死とは、単に私が今まで使用していた仮想現実上のアバターが使えなくなっただけのことであり、別のアバターを使えば、また私は別な外観のアバターになりながら私として存在出来てしまうというのが、この仮想現実やゲームの外部理論による構造が真である時の状況になる -
意識の問題における仮想現実やシミュレーション世界の想定は、現実的な問題解決からの逃避と言える。
主観の(肉体からの)独立性は証明されていないし、肉体無しに意識が(間接的にでも)確認された例は無い。もちろん、この世界以外の世界も見つかっていない。
真に価値のある哲学的答えを探すのならば、空想や妄想に浸るのではなく、なぜ肉体が意識を生み出したのかを考えるべきだろう。 -
https://www.hakuyo-s...9%E3%82%8B%E5%BF%83/
意識する心
脳と精神の根本理論を求めて
デイヴィッド・J・チャーマーズ 著
林 一 訳
意識とは何か? なぜ脳から心が生まれるのか? コンピュータは意識をもてるのか? これまでのややこしい哲学を明快に整理し,意識と物質を一括して支配する驚くべき根本法則に迫る。『ゲーデル,エッシャー,バッハ』のホフスタッター,『皇帝の新しい心』のペンローズにつづく知の新星チャーマーズの,心脳問題に新たな地平を切り開いたときわめて高く評価されている衝撃の論考!
アマゾンから即日で届いた。読み応えありそう。チャーマーズは数学オリンピックで銅メダル取ってるくらい、理数系のリテラシーが高いようだ。あらゆる哲学的な思考実験を単なる妄想扱いするのは、ナンセンス -
あと、チャーマーズはコンピューターサイエンスの専門家でもあるので、シミュレーション的な思考実験と親和性が高いことも頷ける。カントのヌーメノン同様、仮想的なレイヤーを使って考究するスタイルはむしろ現代的である
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>>51
二十年以上も前の本だよね。
すごくシチ面倒臭い議論をしてるよ。論理的とは言えるが。
彼は自信をもって議論してるが、実際には突っ込みどころも多い。
彼を肯定するにせよ、否定するにせよ、この議論に付き合わないと有効でない。
それをまじめに実行してる人は非常に少ないので、肯定も否定も決着しない。 -
>>53
ちょっと試しに読んでみたけど、中身が濃くて良いよ。メイヤスーの「有限性の後で」レベルの良書だろう
サーモスタットに、単純な意識や心の存在を認識することも、それを機能や作用として考えれば、我々の脳のニューロン情報処理の複雑さとの程度の違いでしかない、みたいなチャーマーズの現象や経験の情報空間や情報状態へと還元するアプローチが現代的に感じられる。でも、やはり哲学的にベルクソンが言うような現象の内在的な質の差異のことにも触れているので、やはり形而上学的な要素もあるので、尚更良い内容になっている感じだった。 -
イーロン・マスク「この宇宙は99.99999999%の確率で仮想現実」
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https://www.kyoei.co...s/column/vol010.html
皆さんは「シミュレーション仮説」という言葉をご存じでしょうか?
簡単に言えば現在私たちが生きている3次元の空間+時間の時空は、さらに高次元の「知的な何か」によって創造された仮想空間の中にあるシミュレーションゲームのようなものであるという仮説です。
最近では物理学者のフランク・ティプラーや哲学者のニック・ボストロムなども公式に提唱していますし、皆さんもよくご存じのイーロンマスク氏やホーキング博士も同様の理論を展開しています。(イーロンマスク氏は99%以上、ホーキング博士は50%の確率でこの世界は仮想現実の中にあると言っています。) -
量子力学「観測するまで粒子の状態は確定しないぞ。観測された瞬間どれだけ離れていてもペアの粒子の状態が確定するぞ。」
こんなん完全にプログラミングで作られた世界やん -
シュレディンガーの猫の多世界解釈に向き合うだけで並行世界が証明できる
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科学の条件として反証可能性を説いたポパーも、晩年は仮想現実に近い理論を展開していたよねw
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ミクロ(量子論)ではソフトウェア処理に近い挙動でマクロ(相対論)ではハードウェア処理に近い挙動をしてるんだよな
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この世界の物質と原理で作られた物が、この世界と同じ動きをする事に対して理論の飛躍は必要ない。
仮想世界やシミュレーション、並行世界などの証明も出来ない物に頼る事は神に頼る事と同義だろう、それは哲学でも科学でもなくオカルトに過ぎない。
そもそも、そのような空論を広げたとしても現実的に問題が解決する事はない。 -
科学的世界観の究極的な形態はやはり世界はコンピューターシミュレーションによる仮想現実であるという結論に行き着くんだねw
そもそもアインシュタインの相対性理論でニュートン物理学が否定されて、物理学は仮想現実になってしまったからねw -
自分が生まれて今ここに生きてる確率があまりにも天文学的数字だもんな
こんなん仮想現実以外にないやん -
物理学者は大体これに同意するよね
わいも仮想現実だと思うわ
そもそも速度にリミット設けて、光がそれってのがもうおかしいもん
んで、それに合わせて時間が遅くなるとか完全にCPU使用率100%で処理落ちしてるようなもん -
地球みたいな惑星ができる確率は、プールに時計の部品ばらまいて水流によって組み上がるのと同じ確率だからな
作為的な力を感じざるを得ないよ -
素数とかいうランダム値が設定されてるのも変だよな
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シミュレーターにも色々だもんな
コンピューターシュミレーションじゃなくて宇宙という箱庭の生態実験かもしれんし -
この現世で仮想現実を作り出せたら俺たちが生きてるこの世界も仮想現実だという理屈はまぁ論理的には通ってると思うがな
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俺の妄想では
10次元人「シミュレーションしたいけど計算能力の問題で9次元世界をシミュレーションしよ」
9次元人「シミュレーションしたいけど計算能力の問題で8次元世界をシミュレーションしよ」
↓
4次元人「シミュレーションしたいけど計算能力の問題で3次元世界をシミュレーションしよ」
空間3次元って多分だけど生物が発生可能な最小の次元よな
それがなんか意味あるかもと思う -
何者か(神か、数億年進んだ知的生命体か、別の次元の人類がテーマパークとして作って仮想現実で遊んでいる)が作ったシミュレーションの世界と、オリジナルの素の宇宙は厳密には区別できない
何故なら素の宇宙であってもそれをメタ的に構築した存在がいない事を証明できないし、シミュレーションにより人為的に作られた宇宙であっても、それを含めてオリジナルの宇宙と言えるから
結論、オリジナルの宇宙か仮想現実かは区別できないししたところで意味はない -
人間なんてシミュレーションの結果、星の表面に出来たゴミみたいなもんだろ
仮想現実を作ったやつはわざわさ辺境の地球なんか見てないだろうし、この宇宙ですら数多いパラメータの一つだろう -
仮にそうだとして現在はどのフェーズなのかね
証拠を見つけて終了なのか脱出等の更なる先があるのかどこまで行ったら実験終了なのか -
運命論的な話になってくると人間的な感情からしたら否定したくなるよな
努力でどうにかなる、自分の人生は自分がコントロールしていると多くやつは思い込んでるからな
そんな保証どこにも無いのにな -
この世界は神様がまだ専門学校生だった頃の試作品の世界ですよ
今は神様の実家の物置に埃被って忘れられています
何億年かあとに「懐かしい~まだあったんだこれwww」と思い出に浸った後処分されます -
京大の研究でもそういう結果だったよね
ホログラフィック宇宙論
よくわからんけど -
如何にも中高生が食い付きそうなテーマだな
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この世界とんでもねぇって意見あるけど
上位の存在はマルチバース的にいくつもの宇宙をシュミレーションしてるはずだから
その中の小さな地球の設定なんて考えてないよ -
仮想世界創造者「こいつは貧乏な家に生ませて家族関係めちゃくちゃで馬鹿でワキガでハゲで体毛アホみたいに濃くして口も臭くして重度のイボ痔にもしてやろう」
なんなんこいつ
俺にどんだけ恨みあるんだよ -
>>79
どっちかというとランダムなパラメータが見事に全て低い値で固定されて特徴なんかも酷いのを引いただけなのでは? -
仮想現実でわざわざ底辺生活してるとかマゾにほどがあんだろ
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>>79
逆に考えろ
普通にプレイさせたら何度も優秀な成績でゴールしてしまう一流プレイヤーだから徐々にハンディを重くしている
先天性の障害者なんかは前世までに実力を十分知らしめたプロってこと
いまこの世界で秀でた人たちは初心者用に有力なステータスをあてがわれただけなので、その能力を他人に還元して魂ポイントを稼がないと、来世はまた動物に逆戻りもあり得る -
天動説から地動説になって地動説も違いますってターン
プラネタリウムのようにそう見えるようにプログラムされてるだけ -
人間の人格や思考は脳内のプログラムの働きでしかないわけだから
我々をとりまく宇宙が同じくプログラムだったからって今さら大した違いはない -
誰に言ってんだか
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・シュミレーション宇宙/仮想世界
・マルチバース
・この世界は幻想だ
それぞれ別なこと。一緒に議論すと混乱する。 -
二重スリット誤解してる奴痛すぎだろ
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人間が作った擬似サバンナってあるじゃん
住みやすい環境を動物に与えて過ごさせて観察する
でもそこに住んでる動物はこれが用意されてる観察なんて思わないのよ -
ワイらの細胞の中でも生死があるわけや
この宇宙が何かの細胞の中でもおかしくはない -
心霊現象と呼ばれているものは全てシミュレーションのバグだと思っている
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上位の存在が仮想現実を作る→仮想現実の中の存在が仮想現実を作る→以下無限ループ
人類が最初の存在である可能性は限りなく低い -
いつも思うけど重力によって時間の流れる速さが違うのに
共通の『年』で表しているのは何なんだろうな
しかも1年という単位は地球で生まれたものだろう?地球と違う重力の場所ではこの単位は使えないはずなのにな -
なんかとにかくシステムは崩壊拡散するものだって思い込みあるけど
太陽系も原子も基礎法則からは直接作れないからな
基礎法則が一見理解できない構造を生み出すということは世界に溢れている -
人間も同じことやってんじゃん
多少知能がある動物を閉じ込めて観察する
その知能があるものは飼われてる感覚なんかないわけで
独自の世界を作ろうとする -
現実世界ってのは恐らく俺らの世界よりも混沌としていると思う
この世界は管理者が「こんな世界あったらいいな」と作った世界
何もかもが都合よく出来過ぎてる
地球だけに生命が存在し、外敵も居ない
調べれば調べるほど創作感が出てくる -
俺ら人間が動物を動物園に飼って観察するのと同じでしょ
人間観察者は動物園に放つ場所が地球
その人間観察者はどこからきたのかの説明はできないけど -
この世界で起きうるあらゆる可能性のパラレルワールドが存在してるって説も面白いよな
-
量子力学の「観測」で「結果が変わる」
ここが非常に引っ掛かる
もし「神様」を「観測(認知)」した事で
「結果が変わる」のだとしたら
イエス・キリストの言ってた「神に立ち返って救われなさい」が
そういう意味だとしたら -
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