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哲学
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・加藤純一好き
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・実年齢より肌がきれいor幼く見える
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マジ終わり
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可哀想やん
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死んでも治らないかもしれない
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おじいちゃんたちがかわいそう
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それ以上は言うな
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悲しい
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かわいそうじゃないか
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>>1 乙
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おやすみなさい。なさ
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直球は人を傷つける
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さすがに自覚はあると思うが
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と、いうより、コミュニケーションが無理
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変化球は人を惑わせ、混乱させる
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>>9
yes. -
test
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test2
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ばかばっかだまったくyo!
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salut!
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('ω')ノ
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このスレのレスは全部波平?
それとも波平の他にも、波平みたいなコミュ障のガイジがいるのであろうか。 -
引きこもりのお爺ちゃんたち
おはよう -
引きこもりのお爺ちゃんたち
おはよう -
泣けるね
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ことばの意味を理解するとは、ことばの「定義を知る」ことではなく、表現として意図された働きを妥当に意識できるようにすることである。
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例えば、つぎのことばについて考へてみよう。
>やそ−とものを 【八十伴の緒・八十伴の男】
多くの部族の長。また、朝廷に仕える多くの役人。
学研全訳古語辞典 -
「やそとものを」といふ表現は、具体例として、「八十友之雄乎 撫賜 等登能倍賜」のように万葉集に詠まれた歌に見ることができる。
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そこで、「やそとものを」を辞書で引けば、見てのとおり、「多くの部族の長」、「朝廷に仕える多くの役人」といふ「定義が与へられている」。
では、これにより、「やそとものを」といふ「ことばの意味」が理解できたことになるのだろうか。私には、そうであるとは思えない。 -
ここで、私は、与へられている「定義」が誤っているとか、不適切であると指摘しようとしているのではない。
そうではなく、いくらこれを「やそとものを」といふ「ことば」の「定義」として暗記してみたところで、そのことばの表現としての意味を理解したことにはならないと言っているのである。 -
なぜだろうか。「やそ(八十)」と「とも(伴/友)」の表現上の関係を考へてみれば、気づくはずである。
「やそともの」といふ表現は、そもそも、「いちかばちか」、「のるかそるか」といふ表現における「いち」と「ばち」、「のる」と「そる」を意図的に組み合はせたような、「撞着語法」/"oxymoron"として用ゐられているの。 -
引用した辞書の定義では、「やそ(八十)の」は、単に「多くの」と解釈され、「を(雄)」は、文脈から「部族の長」または「朝廷に仕える役人」に置き換へられている。
しかし、これでは、元のことばが「表現法として伝へようとする意図」は、完全に見失われる。 -
私は、日本語の「八(や/ぱっ)」がドイツ語の前綴りの"ver-"に対応する感覚を伝へ、逆に、ドイツ語や英語の"be-"が"to be/being as one"として「ひとつになる/とも(伴/友)なふ/随伴する」ことに対応する感覚を伝えることを指摘してきたが、ここでは、その捉へ方をそのまま応用することができる。
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「やそ(八十)」の「そ」の声が伝へるのは、「そ(反)る」の「そ」と共通の感覚であり、したがって、「やそ(八十)」ということばの意味は、単に「多くの」といふことではなく、
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英語で言へば、"various/a variety of 〜"であり、日本語の「や(八)」とドイツ語の"ver-"の対応関係を意識するなら、"verschieden"といふことになる。
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「を」は、「雄(を)」として「ますらを(大丈夫)」の「を(男)」であるとともに、「〜を!」/"Wollen"の「を」であり、
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その「をを(雄々)しさ)」が「『やそ(八十)』であること」/"Verschiedenheit"を、な(撫)で、ととの(整)へ、な(並)めることにおいてこそ、それが「撞着語法」/"oxymoron"として用ゐられる「やそとものを(八十友(/伴)之雄(/緒))」といふ「ことばの表現」となる。
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そして、そのようにしてもたらされた表現として「やそとものを(八十友(/伴)之雄(/緒))を」といふ感覚を、ドイツ語に対応させて説明してようとするなら、例えば、"verschiedene Begleitungen"といったような表現を用ゐることになるだろう。
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https://de.vecteezy....hiedene-begleitungen
>indonesisch nasi kuning mit verschiedene Begleitungen Pro Foto -
このように考へをめぐらせてみれば、ドイツ語の表現法において、"be-"と"ver-"が対照をなしていることにも気づくことができる。
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確かに私は、好き勝手に言ひたい放題のことを言っているが、そのことで私にもたらされる見返りは、潜在的にさらに危険なものでないとしても、書込み規制だけであり、世間的な意味で私が得る「実利」は皆無である。
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では、私にもたらされる「実利」が皆無であるにもかかわらず、なぜ私は、さまざまな奇妙な書込み規制を繰り返し受けながらでも、しつこく書込みをつづけるのだろうか。
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それは、私が書き込んでいるようなことについて自身でも気づいて意識するような人々が増えれば、いかさま言説で商売をする人々の商売がしにくくなり、いかさま言説の蔓延が抑制されるなら、
そのことにより、私にとっても、不特定の他人にとっても、少しでも状況がより快適となることを期待しているからである。 -
見てのとおり、私は、書込みにより、自分が売り込もうとする商品やサービス、あるいは政治/宗教思想のようなものを宣伝しているわけではない。
私の書込みは、誰か個人を貶めようとするものでもなければ、私が匿名でしか書き込まないことからも分かるとおり、私個人の名声を高めることを目的とするものでもない。 -
無論、私は、匿名で書き込むことで、私が個人として特定されるリスクを免れて自分のプライバシーが保護されるという幻想を抱いているわけでもない。
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このような匿名の書込みの影響力は、公共の場での落書きと同様である。
書込みが特定の個人に関するものでない以上、だれもそれに関心をもつ必要はなく、そこに居合わせた人々に進行すべき方向を指示する矢印のようなものですらないので、不特定の人々を正しい/誤った方向に誘導するように作用することもない。 -
しかし、人は、他人によって気づかされたとしても、それにより自身でも気づいてしまったことを意識せずには居られない。
私は、私が気になることを他人も同様に気にしなければならないと要求しているのではなく、他人も同様の気づくのかどうか確かめているだけである。 -
私がいくら気づくように示しても、気づかない、あるいは気づいたとしても、気にかけないというのなら、それはそれでいい。
私は、そのように振る舞ふ人々のそのような振舞いが、自分に有利に働くように判断を下すだけのことである。 -
他人も同様の気づくのかどうか ×
他人も同様に気づくのかどうか 〇 -
世の中は、虚々実々なのだから、生き延びるためには、清濁併せ呑むことを必要とすることがあるのも確かである。しかし、自分から進んで泥をかぶることが潔い、立派な態度であるかのように思い込ませようとする人間は、信用できない。
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自分から進んで泥をかぶる役を引き受けることで、無論、組織において高く評価されて「実力で」のし上がるように見える人々は、周囲からも一目置かれることになるが、その裏の仕掛けは、それを「手本」として真似ようとするような人々の目からはつねに隠されている。
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いづれにせよ、誰を「フォールガイ」として陥れるか、互いに競い合っている連中や、一見すると、「フォールガイ」として陥れられたかのように見えて、
-
その実、「勝ち逃げ」の立場が最初から保証されているような身分の人々を、自分が「手本」として真似できると思ふのは、賢明ではないだろう。
-
箱根温泉、熱海温泉、別府温泉、嬉野温泉、杖立温泉。
どれも素晴らしかった。
哲学を学んで良かった。
何故か?
クイズです。 -
>>9
該当なし -
これは以前から指摘していることだが、ゲルマン語系の"be-"、およびそれに対応するラテン語系の"co(n/m)-"は、日本語の「〜ふ」およびその活用形と表現法としては異なるものの、それまでは不在の存在者として意識されなかった、「作用において随伴するもの」を、「片身の存在者(つまり、「ともなふもの」/"being as one in 〜")」として意識させる働きをすることにおいて互ひによく似ている。
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例えば、日本語の「そ(反)り」と「そ(沿)ひ」、「そ(逸)れ」と「そろ(揃)ひ」の関係を念頭に、英語の"compliance"といふ表現について考へてみるといい。
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"compliance"は、「のるかそるか」といふ日本語の表現に照らして見るなら、「そ(反)ること」ではなく、「の(則)ること」を意味している。
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ところが、語源的に解釈すれば、"condolence"が「『いた(悼/傷/痛)むこと』において『ともなふ』こと」/"being as one in feeling pain"を意味するように、"compliance"は、「屈曲すること』において『ともなふ』こと」」/"being as one in bending"を意味している。
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つまり、"compliance"から"-pliance"だけを切り離してみるならば、それが表現しているのは、「屈曲すること」であり、何かが「屈曲する」ならば、それは「そ(反)る/そ(逸)れる」ことになるだろう。
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ところが、その「屈曲する」作用が、"to be as one"という効果をもたらすように働くことで、むしろ逆に「の(則)る」ことを表現することになる。
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これに対して、日本語の「そ(反)り」と「そ(沿)ひ」、「そ(逸)れ」と「そろ(揃)ひ」の関係は、どうなっているだろうか。
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日本語の「〜ふ」およびその活用形は、以前から指摘するとおり、「〜(の作用を)ひっくりかへす」といふ、「〜」をどのように扱ふかについての「メタ言語的な指示」であり、「〜ふ」自体は、ドイツ語にすれば、"wiederum"に対応するような表現である。
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「〜(の作用を)ひっくりかへす」とは、喩えるなら、(「そ(反)り」)^-1="being as one"/"being deviant"=1/「そ(反)り」=「そ(沿)ひ」を導き出すような操作である。
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そして、このような操作が可能となるのは、「〜ふ」の「〜(の作用を)ひっくりかへす」といふ「メタ言語的な指示」が、「作用において随伴するもの」を、「片身の存在者(つまり、「ともなふもの」/"being as one in 〜")」として意識させるからに他ならないと考へられる。
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すこし勇み足で「や(八/夜)そ(十/蘇)」の「そ(十/蘇)」が甲類の「そ」の声であるとされているのに対して、「そむ(背)く」の「そ」は、乙類の「そ」の声であるとされる違ひを無視してしまったな。
ただ、私は、甲類とされる「そ」と乙類とされる「そ」は、まったく別々の声として認識されたのではなく、互いに関連するように捉へられていただろうと(特に明確な根拠なく)思っている。 -
いづれにせよ、>「やそ(八十)」の「そ」の声が伝へるのは、「そ(反)る」の「そ」と共通の感覚であり
と云ふ言明は、明白に誤りであるので、取り消しておく。 -
ただし、主眼は、「八(や)」と「とも(伴/友)」の対比にあるので、論旨は変わらない。
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声が想起するイメージにどのように混乱が生じたのかを明らかにすることも、歩みをさらに進めるのに役立つ。
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「そむ(背)く」や「そそり立つ」の「そ」は、乙類の「そ」であるが、「十(そ)」は、甲類の「そ」である。
甲類の「そ」は、>「可美都氣努 安蘇能麻素武良」を見れば、「素(す)通り」の「す」の活用形として、作用に何かが介在してそれを間接的にすることのない様態を表現している。 -
その一方で、「阻止」、「組織」、「祖先」、「粗雑」などの漢語において「そ」を表す漢字の象形の右側の「且」は、何かが積み上がったようなイメージを私に想起させ、そのことが「そそり立つ」イメージとの混乱を私にもたらすのである。
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おはようございます
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治るかなぁ?
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おやすみ💤
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真理研?
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私は、日本語の古語の「をかし」は、「意欲を呼び覚ますはたらきをする/活気づけるはたらきをする」ことを表現し、「をかし」に対応するドイツ語の表現は、"belebend"であると指摘したが、「をかし」という声遣ひと重なり、表現法の形態としてもそのまま重なる英語の表現が"evocative"である。
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そして、「意欲を呼び覚ますはたらきをする/活気づけるはたらきをする」ことを表現するものと解釈された「をかし」が"evocative"に対応するとすることは、私個人の独特の感性に基づくものではない。
そのことは、"evocative"を検索することによりヒットした、次の歌詞を見ても確認できる。 -
楽曲
EVOCATIVE
灰嶋伊織(CV:梅原裕一郎)、由羅拓海(CV:島?ア信長)
>作詞:. Everything Everywhere 溢れ出す生命(アニマ)織りなす Inspiration 固唾呑んで待ち受けろう -
仮にこれが、エコー現象に起因して生まれたものだと解釈した場合でも、そもそも、エコー現象を生じないような声遣ひは、ことばとして通用しない。
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or what "parent"/「おや(親)」means
>밝히다(パルキダ)
明あきらかにする。明あかす。はっきりさせる。説明する。
「こわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」から推察すればすぐに分かることを、物象化されたことばの理解を介して、より複雑に考える必要はない。 -
日本語で漢字の「八」が「ぱっ」とも「や」とも読まれることは常識である。
そして、「八」が「ぱっ」と読まれるとき、それは、「やけっぱち」の「ぱち」を連想させ、
「や」と読まれるとき、その「やけ」の「や」を連想させる。 -
そして、これらの「八」の読みは、いずれもその文字の象形が「すゑひろがり」を感じさせることと結び付いている。
-
そして、「おや(親)」の「や」は、中国語で「大家好」と挨拶するときの「大家」の「家」のこわ(声)づか(使/仕/遣)ひと近いことにもすぐに気づくだろう。
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「大家」の「大」の方の日本語としての読みには、「おほ」が当てられる、というよりに、日本語の「おほ」に「大」の漢字が当てられる。
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そして、日本語の多くの表現において用ゐられている「お」の声のイメージは、「大(おほ)」、「お(追)ふ」、「お(負)ふ」という表現にも見てとることのできるとおり、英語で説明するなら、"imposing/imposition"である。
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つまり、日本語の「おや(親)」が表現しているのは、そのこわ(声)づか(使/仕/遣)ひから推察して、"imposingly spreading"であるということになる。
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では、"parent"の方はどうかというと、そのわ(声)づか(使/仕/遣)ひが一方では、"make apparent"の"apparent"と類似し、
他方では、"parent"の"par(e)"は、"parasole"/「パラソル」の"para"と共通である。 -
"parasole"/「パラソル」は、傘として広がることによってその下に陰をつくって日射から「保護する」役割をし、"make apparent"が「明らかにする」ことを意味するのは、広がるようにすることが、「明らかに現れるようにする」ことになるからだ。
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すると、結局、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひから推察すれば、"parent"と「おや(親)」のいづれも、すゑひろがりに広がることによって保護する役割をするもの
として機能することを表現していることになる。 -
だからこそ、"parent"/「おや(親)」は、"parent"/「おや(親)」として認められること自体により、すでに「お蔭/恩」を感じさせるのである。
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>밝히다(パルキダ)
明あきらかにする。明あかす。はっきりさせる。説明する。 -
以上の説明で、よく分かっただろうか。「分」⇔「八」*「刀」
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このようなことを理解するのに、「分析哲学」と呼ばれるような似非哲学は、まったく無用である。
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日本語の「を」の声遣ひが伝へようとする感覚について漢字文化圏において考へるのに便利に役立つのが、現代の日本語では、漢語としても使はれることがほとんどないが、朝鮮半島においては、普通に使はれている「怨望」の「怨」といふ漢字である。
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このことは、日本語において、「怨霊」は、「をんりやう」と読まれるが、「怨恨」は、「ゑんこん」と読まれるように、いづれの声遣ひに「怨」が当てはまるのか明確には定まらないことも含めて、そうである。
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ちなみに、「원망」は、Sino-Korean word from 怨望(resentment; blame)とされるが、
もう一つの語源は、Sino-Korean word from 願望(wish; desire)とされ、
「원」単独では、Orthographic borrowing from Chinese 圓 とされ、通貨の単位として使はれている。 -
ところで、日本語として「鴛鴦」を何と読むか分かるだろうか。現代では、普通、「おしどり」と平仮名をふるだろう。
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しかし、万葉集の歌においては、「おしどり」の「お」は、「を」であり、その「をし」にも「乎之」の表記が当てられるが、逆に、「をし」の声遣ひに掛詞として「鴛鴦」が当てられている歌の例も見られる。
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>淺茅原 苅標刺而 空事文 所縁之君之 辞鴛鴦将待
浅茅原刈り標さして空言も寄そりし君が言をし待たむ
あさぢはら かりしめさして むなことも よそりしきみが ことをしまたむ -
>>123の強調の「し(之)」の声遣ひが、中国語の「是((Pinyin): shì)」の用法そのものであることには、すぐに気づくだろう。
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そして、通常は、万葉仮名では「乎」と表記されることの多い、「を」を掛詞にするために「鴛(を)鴦(し)」と読まれる表記が当てられている。
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以上のことからも、日本語としての「を」は、単独で切り離して見た場合、「空虚を指し示すこゑ」と認識されているものと記述することが妥当であり、「〜を!」として用ゐられる場合、それは、「『所望の対象を指し示す行為』としての発話」であると言ふことができる。
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ここでさらに、「〜を!」、「を(食)す」、「をさ(治)む」、「をさ(長)」、「をし(教)へ」、
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「を(惜)し」、「を(惜)し・む」、「をび(誘)く」、「をとり(囮)」「を(招)く」、「をかし」、「を(終)ふ」などを並べてみるといい。
日本語がどのように形成されてきたのか、その形成プロセスが浮かび上がってくるだろう。 -
誤解しないようにしよう。私は、これらの一連の表現が、あらかじめ規定された規則により、「を」の声から論理的に構築されてきたなどと主張しているのではない。
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そうではなく、これらの一連の表現は、その実際の声遣ひとしての用法において、互ひにを(折)りあ(合)ひをつけながら、表現として整合性のとれる安定的な体系を成すように連携していったのである。
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どのように感じてゐるのかが如実に伝はるようにこゑ(声)を使おうとすることにおいて、いづれの言語の売でも、個別の言語の境界というものがあらかじめ決まったものとして存在しているわけではないのだ。そうであったとすれば、日本語そのものが形成されることはなかっただろう。
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ここで、言語の場合にも、声遣ひを独占的な一極集中に向かはせるように靡かせようとする意欲と、各々がみづからの声声遣ひにおいて自律的であろうとする意欲により、つねに双極性が生じることが分かるだろう。
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誤:いづれの言語の売でも
正:いづれの言語の場合でも、 -
したがって、こわ(声)づかい(使/仕/遣)ひにおけるこの双極性は、言語の起源においては、統一されていた用法が後に乱れることによって生じたものではなく、
-
また、言語の理想として、最終的にこの双極性が解消されて、こわ(声)づかい(使/仕/遣)ひが一極集中的に規範化されることが望ましいわけでもない。
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といふのも、こわ(声)づかい(使/仕/遣)ひそのものが、本来的に、「かた(片))み(身)」にも、また「たが(互)ひ」にもを(折)りあ(合)ひをつけるように用ゐられているからだ。
-
しかし、そのことがまったく分からない、否、むしろ、分かろうとしなくてもよい立場を自身が確保していることこそを、みづからの誇りとしている人々がいかに多いことか。
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誤:みづからの声声遣ひにおいて
正:みづからの声遣ひにおいて -
これは、何か非日常的な特別なことではなく、よく経験することのある日常的なことだが、外国語の文学作品に原語、または日本語ではない他の言語への翻訳で読んでいると、そこで使はれている表現から、日本語のことばの表現の意味に気づかされる。
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これは、今し方気づいたばかりのことだが、日本語の「ゐ(居/井/堰/威)」は、フランス語で、通常は、日本語にすれば、「隣接する」、「境を接する」などを意味する表現として説明される"confiner"に対応してゐる。
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この「隣接する」、「境を接する」などを意味する表現とされるフランス語の"confiner"の場合にも、これまで執拗に繰り返し指摘してきたとおり、"con-"は、「共通で」といふ感覚よりも、「随伴するように」という感覚を伝へるように用ゐられていることを確かめることができる。
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このフランス語の"confiner"は、英語にも取り込まれて、"to confine"は、「閉じ込める」ことを、また、"confinement"は、「監禁」を意味するように使はれるが、
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このことからも、フランス語の"confiner"が表現しているのは、「さかひ(境)を接するようにかぎ(限)る」ことであることが分かり、それが、そのまま、日本語の「ゐ(居/井/堰/威)」に対応している。
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日本語では、何かにふと気づくことについて、「ぱっとひらめく」と表現するが、フランス語で「ぱっとひらめかせる」ことに対応する表現は、"éclairer"である。
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このような対応関係を見出すことついてメタ言語レベルで「をかし」と感じる人が、見渡す限り私の他にまるで見当たらないことが、私にはいつもとても奇妙に感じられるのだ。
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誤:外国語の文学作品に原語、
正:外国語の文学作品に原語で触れていると
少し書込みが長くなると、すぐに書込み規制がかかり、短くするために編集を余儀なくされるので、誤りが生じやすい -
そして、この日本語の「ゐ(居/井/堰/威/位)」は、以前から指摘するとおり、中国語と共通する「圍」のこゑ(声)づか(使/仕/遣)ひを流用したものだ。
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私は、私がここで書き込んでいるようなことが、様々な人々の地道な作業の上に乗っかていることはよく弁えている。私は、自分で手書きの古文書を解読して、活字にする能力もなければ、それを集積してデータベースとしてまとめるような作業を日々続けるような根気もない。
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とは云へ、そのような地道な作業だけでは、何も生まれず、何も保たれないのだ。
そのことは、新仮名遣ひにおいて「を」と「お」の区別をなくすことを標準化することが、専門家の賛同なしには、正当化されなかったであろうことを考へてみても分かるだろう。 -
そして、何をどれだけ明示したところで、どのようにか都合の悪いことは、完全に黙殺されることは、見てのとおりである。
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このようなことをいくらここに書き込み続けても、黙殺されるだけである。
そんなことは、私は、あらかじめよく分かっている。だからこそ、ここに書き込みつづけているのである。匿名ではなく、実名で同じような発言をしようとしたら、どのような目に合はせられることになるか知っているだろうか。 -
ここに書き込んでいる程度のことに気づくまでには、私のような平凡な才能の者には、それでも人生を棒に振るくらいの時間と労力の投資を要する。
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しかし、ここで私がしているようなことを、私自身が実名で行うとすれば、返ってくるのは、激しい誹謗中傷と、個人的な人格攻撃と、実力行使による匿名の嫌がらせだけである。
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多大な時間と労力を費やして、得られる利益は皆無であり、その一方で、自分が生活することに関して大きくマイナスとなる効果が返ってくることは確実なのだから、そんなことを、それでもいつまでもつづけようとするなら精神を病む。
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それゆゑ、それでも敢えて、そのようなことを続けようとするなら、それは必然的に匿名で行ふことがその前提条件となり、それなりの覚悟、といふより、諦めが必要なのだ。
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ゆゆしきこと⇔Hemmungslosigkeit
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