-
世界史
-
なんで司馬炎や曹丕は国名を変えたのか? [無断転載禁止]©2ch.net
-
UPLIFTで広告なしで体験しましょう!快適な閲覧ライフをお約束します!
古代の斉は姫氏から田氏に王族が変わったが
田氏は斉の名前を変えなかったから制覇滅亡したとはみなされてない
田斉とか呼ばれてるが
だが曹丕は国名を漢から魏に
司馬は魏を晋に国名変えてしまった
だから漢や魏は滅亡したと思われる曹操まで梟雄扱いされた。
国名漢のままだったら滅ぼしたなどと言われなかったのになんで変えるのか - コメントを投稿する
-
うんこブリブリ
-
>>1
>古代の斉は姫氏から田氏に王族が変わったが
>田氏は斉の名前を変えなかったから制覇滅亡したとはみなされてない
>田斉とか呼ばれてるが
史記ではそれぞれ斉太公世家と田敬仲完世家と分けて書いてある。つまり別の国という扱いだ。
そもそも晋が趙・魏・韓に乗っ取られた事件と田氏による斉の乗っ取りの二つを以って下克上の世
(戦国時代)になったとみなされているのに、何を言ってるのか!? -
でも晋も三人による分割でなく、一人による乗っ取りなら国号変えてたかわからんな
-
劉備は漢を自称したけど
曹丕のは全然別の王朝なんだから変わるだろ国号 -
姫氏って時点で不勉強バレバレ
-
斉(蕭)→梁(蕭)
て例もあるから
ほんと国名変更の法則わからん -
日本で王朝交替したら、と考えてみたが、
多分日本という国号が出て日が浅いときなら変えるだろう。
もっと後代なら完全に日本という国号が定着してるから変えなさそう -
苗字が違う
一族が違う
からじゃね? -
新羅は王家が変わっても新羅のまま
-
南斉→梁は同姓のいとこなのに新国号
-
後唐
荘宗李存勗 ー(義子)- 明宗李嗣源 - 閔帝李従厚 -(明宗の義子)- 末帝李従珂
明宗即位の時、国号を変えて新王朝とすべきかどうか大いに議論 -
首都があった地方の名前だろ
-
五代といえば、後周も他姓が2代目だね
郭威-->柴栄--柴宗訓 -
どこに封じられたかで違うだけ
田氏は簒奪前にはどこにも封じられず、実権を握っていたがただの臣、簒奪後に周王に斉に封じられたから斉王
趙氏、韓氏、魏氏はそれぞれ封じられた土地がその名前だった
曹丕は曹操が魏に封じられて、魏王を継いでるし、司馬炎は自身が晋王に封じられてる -
戦国時代に燕で一時的に革命があったな。
統一帝国で最初に禅譲、国号が変わったのは王莽の新? -
ところで国号って何?
天に一国しかないんだから必要なくね? -
倭や朝鮮などの蛮族のために必要だろう
-
元という抽象国号が出てくるまでは、基本的に周の時代の地域名が中国文明圏の構成単位として意識されていて
その構成単位が「天命」をうけるって考えられていたのかな? -
昭和の頃は
まだ私立中学校もいまほど多くなかった
中学生大好きなおれとしては
電車内でもなかなかターゲットいなくて苦労したわ
そんななかでも見つけたターゲットの私立の中1くらいの子は置換慣れしてなくて最高だったな
細い足、まだ肉の付いてないお尻
生えてるけど、まだ薄くて柔らかいアソコの毛
彼女から出てきた分泌液を彼女の前でペロリとした時の表情
後ろの穴に中指第一間接まで入れたまま一駅過ごして、彼女の腸内?の温もりを指に感じたり… -
例えば李淵って唐って土地のなんかの役職に任命されてるわけ?
-
>>22
滅亡より乗っ取りのほうが印象悪いのか -
オラ今まで300回くらいソープ行ったけど
5万円以上の店なんて1度も行った事ねぇだ -
紅巾賊はなぜ呉から明に名前を変えたのか
-
国号ってWikipediaで見ると、日本語、中国語、韓国語のみっつしか記事がない。
(一応ベトナムにもあった筈だが記事が立ってない)
国名とは別の「国号」という概念は東アジア独特なものということなのか!? -
>>30
唐と宋は同じ国だが王朝も政権も違ってて国号も違う
政変で王朝と国制と国号が変わったと見るべきである
北魏から宋まで何度も政変があったが同じ国の歴史と見ることができる
だがその国は宋で滅びて次代の元は別の国 -
>北魏から宋まで・・・同じ国の歴史と見ることができる
唖然・・・ -
五代の後梁と後唐の間で途切れておますがな
-
後唐は唐の節度使を継承しているので、その系統で唐を引き継いでいる
-
節度使なんて臣下じゃん
-
後梁は大唐から禅譲されて建国、その後梁を放伐して後唐は建国
-
禅譲されたとしても、法制度、官僚組織、地方組織、全部を根本的に改変するわな。
連続性はない。
大唐の復興と自称した後唐、南唐であっても同じではないし。 -
うんこブリブリ
-
自分が皇帝になったら他人のお古の国号なんて替えたいじゃん
-
>>38
大唐と五代の間で、「法制度、官僚組織、地方組織、全部を根本的改変」されたというが、
具体的に説明してくれ。
どの王朝もそうだが、開始後すぐに制度全部を改変することなんてない。
長寿王朝はだいたいが前王朝からの制度を引き継ぎ数十年たって少しづつ整備されていく。
短命王朝の続いた5代の間で毎回「全部改変」なんてやっていたとは思えないのだが -
旧新唐書、旧新五代史どれも積ん読の奥底に沈んでいるので、今すぐには・・・
んで5年ほどのうちに引っ越す予定なのでそのあとには。 -
わからないのに決め付けてるわけ?
-
>>42
五代の制度史なら文献通考や五代会要だろ -
スレタイのなんで〜の答えとしては五行説でせつめいつくんでないか
-
古代史に凝ってたのは古代十国スレがあったころ。
いまはもう熱も冷めた。 -
古代と五代を間違える人が、五代の制度継承の議論に口を挟むとは、、、、
-
直前に「古代」を含む文章を書いていたのでな、はっはっは
-
>>41,>>38
五代の中央官制は基本的に唐末のものを継承しているが、節度使が皇位に就いた
ことから節度使官制も中央に取り入れられている箇所がある。
宰相にあたる同中書門下平章事はそのまま
宰相府に相当する中書門下省もそのまま
軍の人事財政等を管理した枢密院は、唐末に宦官が占有していたが、
五代に入り宦官排除のため祟政院と名称変更して武官が就任するようになり、その後再度枢密院の名称に戻った
財政職は、唐末の複数の財務職の上に後唐時代に三司職が新設されたが、
配下の官職官庁はそのまま唐末を継承した
軍事長官は名称は何度も変更され、職務権限も増大したが、これも基本的に唐末の制度が発展したもの。
唐末は地方長官である節度使が軍事力を有し、中央軍はなく統制ができなかった。
そこで宮殿警護兵を増強し、これが中央軍化していった。名称は何度か変わっているが、
一般的には禁軍と呼ばれる。五代の間に名称を変更しつつ節度使の軍隊を吸収し強大化した。
地方制度は唐末の節度使時代から、藩鎮ごとに若干の違いがあり、五代の節度使は
それらを継承している。後唐と南唐の制度の違いは、中央官庁と節度使の違いであり、
根本的に改変されたわけではない -
>>1
王朝毎に変えたのは「国名」ではなく「国号」だね -
たぶん、逃げる間も無かったんじゃないかな?
盗撮で捕まった経験あるけど、警察来るの、滅茶苦茶早かったぞ
目撃者に発見されてから、ものの2,3分も経ってなかったと思う
もちろん、服の色とか身長、体重などの情報は伝わってるだろうし
その周辺をパトカーが複数台で探し回るからな
たぶん、即通報されてたら、桐生祥秀でも走って逃げるのは無理だと思う -
>>30
「国名」という記事は日本語版にしかないけど、国名という概念が日本独自のものというわけではないだろう -
日本の藤原氏が曹丕らのように禅譲しなかったのが、日本の歴史の特殊性の始まりなんだろう
普通は権力握った奴が、いずれは名実ともに王になる -
世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
WCUQQ -
age
-
友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
IJR -
蜀(漢)や呉のひとびとの敵国イメージをなくす
-
そういや司馬炎て晋って国号をどっからもってきたんやろ?
なんかの歴史書とかかな -
蜀が滅亡した頃に父司馬昭が相国・晋王に封じられた。その死後司馬炎が跡を継いで晋王になった。
-
漢の皇帝は四百年も続いた
その歴史と伝統の重みは、平安時代の日本の天皇と変わらんかったでしょうな
それを思うと、曹丕も思いきったことをしたものだ -
豊臣秀吉が天皇になって、国号を「日本」から「筑前」に変えるようなものだ
-
「父系は天皇家、母系は藤原氏」という役割分担が確立されてたからな
-
北条氏や足利氏が天下を取ったときに日本の名を
鎌倉に変えたり
徳川氏が三河に変えたりするようなもんだわな
変えなかったけど
変えてたら「日本は滅びて、三河になった」とか書かれてたんだろうなあ歴史書に -
神話〜南宋まで行われた放伐禅譲が正当な徳治政権で真の中国。征服王朝は中国の伝統を壊した。
-
この差って何ですか?★1
-
>>64
筑前から国号にするなら「筑紫」だろ -
羽柴筑前守のことでしょ?
-
秀吉は自分の国は大和、東国を日本と呼んでたよな
↑今すぐ読める無料コミック大量配信中!↑