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世界史
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唐宋変革期
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中国の社会は8世紀から11世紀にかけて,王朝でいえば唐から宋の間に大きく変動したので,この時期は唐・宋変革期とよばれている。
その変化の一つは,支配階級の交代である。… - コメントを投稿する
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党争変革期、か
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宋では党争が盛んだった
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王安石や安倍晋三のような大宰相が出てくると、それに合わせて抵抗勢力も強くなる
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唐王朝から五代十国時代を経て統一国家を実現した宋王朝は、五代やその前の唐王朝以前とも異なる中央集権体制と文治主義を確立し、経済や社会、文化にも大きな変化をもたらした(「唐宋変革」)。
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その後どうして中国はヨーロッパに追い越されたのか
北方民族に征服されたためかな -
千年前の宋は、世界に先駆けて貴族社会から官僚国家に移行した
近代ヨーロッパを何百年も先取りしてたので、ヘーゲルもビックリ
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異論有り。
中国は戦国時代には既に官僚国家。
その官僚の供給源が唐・五代に貴族・名望家から科挙出身者に変わっていき、
宋の時代に全面的に科挙出身者になったということ。 -
まずは、基礎知識をチェック!
唐代から宋代にかけての時期は,中国史上でも有数の変革期にあたり,「唐宋変革」と呼ばれることがある。次のような変化が見られる。
(1)政治体制:唐では貴族と皇帝による合議体制 → 唐末・五代に貴族が没落, [ 1. ]
→ 宋では科挙の最終試験として [ 2. ] が採用され, [ 3. ] にもとづく君主(皇帝)独裁体制。
(2)政治制度:唐では三省のうち [ 4. ] が貴族の牙城 → 宋では[ 4 ]が中書省に併合されて実権を失う。
(3)支配層:唐では [ 5. ] → 宋では新興地主層である [ 6. ] 。
(4)経済・都市:唐では坊市制による規制があり政治都市 → 宋では商業・産業が発達し,規制がゆるみ商業都市。
(5)文化:唐では [ 7. ] ,国際色豊か → 宋では士大夫・ [ 8. ] ,中国的。
(6)儒学:唐では経典の字句解釈の [ 9. ] → 宋では [ 10. ] 。
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初歩的な質問。
宋の士大夫に「我家は漢魏以来の名門」って家は、本当にないの?探せばありそうなんだけど。
唐末五代の乱世を生き抜いて宋に仕えた名門貴族の生き残りって全くないの? -
宋の司馬光は、秦までさかのぼれる家系(ていうか、司馬懿の弟の子孫)とされてるが、門閥貴族とは言えないなあ。
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岳飛とともに金に抵抗した大宰相として有名な張浚も、先祖は唐の宰相にまでさかのぼる家柄
でも、先祖は成り上がりなので、これまた門閥貴族とはいえない -
日本でいえば源平藤橘に相当する、清河崔氏・范陽盧氏・趙郡李氏・滎陽鄭氏の四姓が、唐末に全滅してるからなあ。
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清河崔氏
北魏の暴君に仕えて漢人の伝統を守り、最後は誅殺された宰相の崔浩が有名。
その後も子孫は栄えて、唐では12人の宰相を輩出し、唐で第一の家格とされた。
三国志に出てくる先祖には、崔琰(サイエン)ってのがいる。 -
范陽盧氏
斉の姜氏に起源があるとされ、「劉備の師匠」として有名な蘆植を輩出した家柄
北魏の孝文帝により、清河崔氏とともに「四姓」に列せられた -
趙郡李氏
春秋の鄭国に起源があるとされ、北魏の孝文帝により「四姓」と位置付けられる
唐では十人の宰相を輩出した名門 -
趙郡李氏
「戦国の名称・李牧の子孫」だそうな。これまた、唐で多くの宰相を輩出した家柄 -
南朝の四姓
琅邪王氏
陳郡謝氏
陈郡袁氏
蘭陵蕭氏 -
北朝の四姓
清河崔氏
范阳卢氏
荥阳郑氏
太原王氏 -
王氏と謝氏に代表される南朝の門閥貴族は、梁末の候景の乱で大打撃を受けた
唐では、北魏から北斉を経てきた山東貴族が主流となった
隋唐の皇室は、北周に由来する関隴集団に属する
唐は、関隴集団と山東貴族が二大勢力
要するに、北魏でもさんざんやってた、胡人の支配者と、統治機構を支える漢人の文官の対立だが
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魏によって行われた「九品官人法(九品中正法)」と言われる制度は、当初は地域ごとに名望のある人物を品等に区分けして(郷品)、郷品の高下によって品等の高いポスト(官品)につけるという制度でした。
しかし、地方の人物を品定めする役人(中正官)は次第にその地方の有力豪族と手を結び、特定の家柄のみが高い郷品につけられるという事態が生じました。
これによって「上品に寒門無く、下品に勢族無し」と言われるような状態となります。これによって貴族制が構築されていくのです。
したがって、科挙制が始まった当初も政治の上層部には彼ら貴族が掌握し、科挙によって官僚となったものは下位に甘んじなければなりませんでした。 -
この状態を変えるきっかけを作ったのは世に悪女とも女傑とも言われる則天武后です。
彼女は低い家柄のため、貴族達と対立します。
そのため彼女は貴族を排斥し、科挙官僚を重用するのです。
この時は則天武后の死後の混乱を収めた玄宗によって貴族の勢力も盛り返しますが、
科挙官僚の勢力も以前より高くなっています。 -
大体9世紀には貴族閥と科挙官僚閥との勢力が拮抗するようになります。
とくに823年から激化した「牛李の党争」と呼ばれる政争は、
牛僧孺・李宗閔を中心とする科挙官僚派と李徳裕率いる貴族派とが
激しく争った事件として歴史に刻まれます
(「牛李」とは当初は牛僧孺と李宗閔の姓を指したが、
後世になり李宗閔に変わって李徳裕の姓を指すようになる)。 -
しかし双方が朝廷内で争っている間に、皇帝の側近である宦官や、地方の防衛を担う節度使等が地方軍閥化した「藩鎮」らが中央政界の主導権を握ります。
とくに有力藩鎮の一人、朱全忠はライバルを抑えて権力を掌握すると、まず宦官を皆殺しにします。
そして彼は運命の905年2月、裴枢ら貴族30余人を黄河のほとりの白馬駅に連行して殺害、死体を黄河に捨てます。
この行為を教唆した朱全忠のブレーン 李振はことのき
「此の輩、常に自ら清流と謂う、宜しく之を黄河に投じて濁流と為さしむべし」
と言ったとされます。
まさにこの清流を誇った貴族が濁流に呑まれた瞬間、中国における貴族制は完全に終わりを告げました。 -
唐末は、「ここで中国の歴史は断絶して、新たな中国の歴史が始まる」とまで言われるだけあって、
ここで漢魏はもとより、春秋戦国にまでさかのぼる古い貴族の家柄がことごとく滅んだ。
宋からは、新たな名門の家柄が登場してくる。
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ついでに、千年〜二千年の長きにわたって都だった、長安と洛陽の時代も終わった。
二都は内陸部の辺境となり、砂塵に埋もれていく。
唐が滅んで20年後に、後唐の李存勗が洛陽に遷都したときでさえ、
「いまどき内陸部とは時代錯誤だ」という批判を浴びたほどだった。 -
現代の中国は、北京・上海・広東省の沿海部が圧倒的な中心地で、内陸部は植民地みたいになっている。
これは現代の工業化のせいでそうなったわけではなく、明あたりで既にこの体制が完全に固まっていた。
唐までは、内陸部が中華の地だった。
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>「いまどき内陸部とは時代錯誤だ」
孟知祥「うるせっ!」 -
三世一身の法と墾田永年私財法はセットで覚えましょう
大化の改新で朝廷は、農民に土地を貸し出すという政策をとっていました。この土地のことを口分田といいます。
しかし奈良時代になると、人口が増えてきたことによってこの口分田が足りなくなってきました。土地が足りないと食料不足にもなりかねません。
そこで朝廷は、三世一身の法という法律を作って、この問題を解決しようとしました。
723年にだされた三世一身の法(さんぜいっしんのほう)とは、朝廷から与えられた口分田とは別に、新しく自分で土地を切り開いた者には、
その土地を3世代(孫の世代)まで自分たちの土地にしていいよーという法律です。
743年に制定された墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)は、三世一身の法をさらにパワーアップさせた法律でした。
三世一身の法では、自分で切り開いた土地は孫の代まで自分の土地にしてもいいという内容でしたが、
墾田永年私財法では、新しく土地を切り開いたらずっと自分の土地としてもいいよ!というものでした。
大化の改新のときに、「国民の持っている土地はすべては国の物!」とした考え方が、ここにきて大きく崩れていくことになります。 -
唐の時代を均田制に基礎をおいた社会で、国家は土地と人民を直接支配し、均田農民から租庸調・雑徭という税制によって搾取してきた。
この均田農民を奴隷とみなし、唐の時代を古代奴隷制社会であるというと見方があった。
府兵制や租庸調にみられる国家によるきびしい支配は、多くの農民を逃亡・没落させ、やがて逃亡した農民たちは佃戸となっていった。
そのため国家は税を取ることができなくなり、税制は、租庸調から両税法に変わっていった。
この税制は、土地と資産に応じて納めるもので、唐は、国家の大原則である公地公民制を自ら否定し、土地の私有化を国家が正式に認めることを意味したものである。
これ以後、地主―佃戸制が中国社会で大きく広がり、宋代以後、清代にいたるまでの基本的な生産関係となった。
そして、佃戸を支配し、勢力を強めた地主階級が、科挙制度を通じて官僚となり、地主=官僚が宋代以後の皇帝独裁体制をささえる支配階級となったのである。
地主―佃戸は中世ヨーロッパ社会における領主−農奴に相当するとみなされ、宋から清までを中国の封建社会ととらえる。
つまり、「唐宋変革期」とは、唐の均田制にもとづく古代奴隷制社会から、宋代の地主―佃戸制にもとづく中世封建社会への変革の時期であったという見方である。 -
日本史では、小学校から中学校にかけて、「奈良時代には、農民に口分田が支給されていましたが、
この体制はだんだん崩れて土地の私有が認められるようになり、貴族の荘園が広がりました」
というのを、繰り返し刷り込まれる。
いくら歴史の授業で寝ていた人でも、あれだけ強調されれば、なんとなくでも覚えているのが普通だろう。
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>>32
わしゃあ、墾田永代私有の令と習ったんだがのう -
同時代の中国も、同じようなプロセスをたどって公地公民制度が崩壊していった。
均田制のもとで農民には口分田が支給されていたが、しだいに均田制が機能しなくなり、
土地の私有が認められるようになって、貴族の荘園が広がった。
日本でいえば「三世一身の法」とか「墾田永年私財法」に相当するのが、中国では「両税法」。
両税法は、土地の私有という既成事実を追認した。
ついでに、貨幣経済という既成事実も追認され、銅銭での納税が行われるようになった。
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なに言ってんだ
安倍は藤原北家だろうが -
権力者の世襲化は体制の安定をもたらすが、
ルーチンワークしかできない前例固守が幅を利かせ、
政治の形骸化をもたらす。
資本の国有化は初期は国力を増大させるが、
しだいに経済が低迷していく。 -
均田制の施行実態がよくわからないなぁ。
敦煌とかの文書ぐらいしか残ってないのかしらん?
敦煌じゃ辺境過ぎて、全国での一般と考えるには難しい。 -
五代十国を生き抜き、
五朝八姓十一君に仕えた
馮道は天才。 -
仕えた皇帝が次代に変わると嫌われて、投獄されたり左遷されたり。
そういう皇帝に限って亡国の憂き目に遭い、それが結果として
新王朝で重用されることに繋がる。
その繰り返しで後周まで生き残ったのだ。 -
府兵制も、実際には関中でしかやってなかったらしいな
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胡族の支配者が中原を統治するためには、どうしても教養ある漢人の文官を必要とする
新皇帝にとっては、馮道しか頼る相手がいない
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>馮道
この読み方、人名なんだから「ふうどう/feng-dao」のはずなんだけど
最近は偉い学者でさえ「ひょうどう/ping-dao」と読む人が増えている。
中国でもfeng-daoはすっかり廃れてping-daoだけらしい。 -
>>39
岸信夫が藤原南家ってとこか? -
>岸信夫
誰それ? -
均田制ってのは、公地公民制とは違うんかい!?
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公地私民制
公地公民制って要は完全奴隷社会とかいう気違い制度だから
中国は春秋期で古代奴隷制社会が終了、それ以降は居ても農奴的な存在 -
唐の農民は、国家が所有する農奴だろ
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まあ、古代奴隷制社会とはいえないが
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ていうか、均田制も府兵制と同じで、やっぱ関中あたりでしかやってなかったのかもな?
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あんな制度を、南のほうでもやってたとは思えない
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敦煌やトルファンでの文書から、耕地の支給、回収が実施されていた。
→ 辺境でも実施されていたなら全国でも実施されていた説
→ 未開の辺境だから実施できたのであって、例外的事例に過ぎない説
お好きな方の説をお選びください。 -
いくら古代社会の農奴が相手でも、既得権益のしがらみのない土地でなければ、分配するのは難しい。
辺境は人口が少なくて土地が余ってるから、均田制を実施しやすかったはず。
均田制を始めた頃の北魏は、征服王朝で、まだ華北の人口が少なくて土地が余ってた時代だからできたのだろう。 -
>>52
全然違う
まず日本の公地公民制は共産主義と同じく土地は国家の一元管理を原則していて貴族でも私有地は持てず
荘園はあったが経営は国家によって委託され、耕作は班田農民に小作に出すことによって行われていて荘園領主はその収益を貰うだけ
直積経営も私有民を持つこともできなかった(初期荘園)
一方、唐の班田はあくまで土地の私有を前提としたもので、寛郷(土地余りの地方)では100畝以下、狭郷では50畝以下のものと中小規模自営農を対象に均田が支給された
土地の私有が禁止されていたのなら何で相変わらず貴族の荘園があったのか、土地の売り買いに関する法律が存在するのか説明できない -
>>58
古代社会に在った奴隷と中世に多く見られる農奴じゃ大分異なる -
均田制の当初の意図は、
国家主導の荒地の開発、
土地の分配による生活保障
があったと思う。
決して民百姓を奴隷扱いする意図はなかったと信じる。 -
貨幣経済が未熟な頃なので、
徴収する税は労役が中心の人頭税で、
貨幣経済が発達してくると、
負担が重く感じられてくる欠点があるし、
お役所仕事で農業を振興するのは無理。
成功する徴税システムの基本は、
簡素であること、
公平であること、
負担が軽いこと
なんだが、
お役所仕事ではどれもうまく回らなくなり、制度が崩壊する。 -
北魏より行われていた均田制・租庸調制は全ての民衆を農民と見なし、一律に農地を支給し、一律に同額を徴税すると言う制度であった。
律令制の根幹であった均田制を自ら捨てたこと(ただし形骸のみはその後も残った)は、別の見方からすれば大土地所有を公認したことになる。
これ以降の唐では土地の兼併が更に進み、荘園は巨大化する。
また銭納を原則としたことで農民に貨幣を持つことを義務付けることになり、商業活動を更に活発にする。
その代わり、全国の農民が納税用の貨幣を持つために一斉に作物を換金する必要性に迫られて物価の下落や悪徳商人による買い叩きなどが生じた。 -
それにしても、千年以上前の大昔に、農民が作物を換金しておカネで納税してたのだから、後期の唐はすでに貨幣経済の最先端を行っていた。
明の時代の江南は、米作から商品作物の生産に切り替え、それを原料にした繊維工業や食品工業が発達し、近代資本主義経済の一歩手前まで行った。
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>>62
それは、そういうもんなんじゃないかな。
漢末からの大戦乱と難民の流出で、華北の土地は荒れ果て、人口が激減していた。
放棄された空白地だったからこそ、平等に分配して一律に徴税なんてことができた。
戦後の復興期の傾斜生産みたいな体制。
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いってみれば、北魏から唐の前期にかけての中国は、戦後の復興期みたいな独特の体制。
飛鳥時代から平安時代の前期にかけての日本は、発展途上国の開発独裁みたいな体制。
それぞれ、いつまでも続くような体制ではなかった。
社会が発展して成熟してくれば、いずれ解体される運命。 -
しかし、中国の均田制は、北魏の孝文帝の485年から、唐の楊炎が廃止する780年まで、
300年間も続いた。。
戦後の復興にしては長すぎるので、この例えは当たってないかもしれない(笑) -
894年菅原道真による遣唐使廃止
902年南詔滅亡
907年唐滅亡
926年渤海滅亡
935年新羅滅亡
939年平将門新皇を称す
940年藤原純友、太宰府を攻撃
玉突きのように連動してないか? -
>>69
日本は不滅 -
天皇家の王朝が滅んで武家の王朝に代わったと見え無くもない
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それは幻覚症状だな
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将門や純友は海外の勢力と繋がりはあったんだろうか?
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直接的な繋がりはないかもしれぬが、
唐の影響を受けて国家を形成していた国々が同時期に解体期に入った。
日本の場合は菅原道真がいち早く唐の真似の限界に気付き、
藤原氏北家が民営化を推進し、
民間軍事勢力を活用することで、将門純友を鎮圧し、
体制変換に成功した。 -
まあ確かに、平将門は「契丹も武力で皇帝になったんだし」といって挙兵したとされてるしなあ
後世の創作発言という説もあるけど、影響はあったんじゃないか? -
藤原純友なんて、九州を取った後は半島進出するつもりだったんじゃないの?
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唐までの日本は、東アジア情勢とダイレクトにつながっていた。
唐の滅亡後は、大陸と距離を置くようになる。
唐の滅亡で新羅が滅び、元の滅亡で高麗が滅びと、朝鮮半島の王朝は宗主国と連動していたが、
日本はほとんど影響を受けなくなった。
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20世紀末の共産主義諸国家の崩壊に似てるかも。
本家ソ連が唐の役割で。
中国は上からの体制転換に成功し、天安門事件を乗り越えた。
北朝鮮は。。。あれは奇形児。 -
どちらかというと江南の方が未開の地。
それが唐末から南宋にかけて、江南が中心地に変化。 -
江南は南北朝期にもう華北と並んでたでしょ、人口はその頃に追い付いて
隋が運河掘ったのも江南の物産を輸送する為だし -
漢末には、魏の曹操が攻めてくると聞いただけで、呉の重臣たちが「降伏しましょう」と言い出すほど、華北の国力が圧倒的だった。
「天下の三分の二は魏」と言われ、残りの三分の一を呉と蜀が分け合っていた。
しかし、呉から南朝にかけて、江南の開発が進む。
隋の時代には、煬帝が大運河を掘り、江南に行幸したまま帰ってこないので「事実上の遷都」と言われたほど、江南の経済力が大きくなっていた。 -
宋や明の時代を通じて、江南はさらに大発展した。
明では、完全に中国の経済的な中心。
長江デルタは温暖で肥沃で、水運も至便。
中国大陸でもとびぬけた最良の地だ。
ただし、古代には巨大な湿地帯で、人が住むには適していなかった。
クリークが掘られて、だんだん住みやすくなっていく。 -
>>86
キルギスやウズベクは、敦煌から遥かなる大砂漠と大山脈を越えた向こう側にある、別の文明圏の地 -
敦煌は、中国甘粛省の端っこにあるオアシス都市
ほとんど雨が降らない隊商基地
中央アジアの、特にウズベクあたりはアム川・シル川の大河農耕文明でまったくの別モノ -
唐から宋にかけての大変化(・・・といっても、例によって本当は唐の後期からの変化だせど)のひとつに挙げられるのは、陸路のシルクロードの衰退だ。
この頃から海洋貿易が主流になり、福建省や広東省の港町が拠点として台頭した。
シンドバッドやアラジンのような、船乗りのアラビア商人の時代がやってきた。
ラクダに乗った隊商が、月の砂漠をはるばると越えて荷物を運ぶという風景は、なくなったわけじゃないけど、主役ではなくなった。
シルクロードの玄関としての長安の重要性は、当然ながら低下した。
いよいよ、古代黄河文明から続く、内陸部の中華の時代は終わり。
北京・上海・広東省の時代が来ようとしていた。 -
東ドイツでベルリンの壁が崩壊して、西ドイツに統合された
2年後に、ソビエト連邦は崩壊した
この類推で、「北朝鮮が潰れたら、2年後に中国も崩壊する」という説も登場している -
藤原時平 vs 菅原道真の政争は、
律令制回帰の理論優先路線 vs 脱唐現実路線の争いではなかったか?
時平は荘園整理令、延喜格式を出したり、班田実施を強行したりしている。
菅原道真本人は時平によって失脚させられたが、
時平の弟の忠平は兄と違い道真を師匠と仰いでいて、
自分が実権を掌握すると道真路線を採用して、
完全に律令制を廃れさせ、
地方武士を活用して将門純友を鎮圧した。
道真→忠平の政治路線が日本滅亡を防いだのだ。うん、きっと。 -
春秋時代みたいな物で実質滅びてるでしょ
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ちなみに将門は藤原忠平に仕えていたことがあるし、
純友は藤原北家出身なので、陰謀論が成立する余地がある。
道真の怨霊騒ぎも忠平の立場を強化させるものだったので、
忠平は目立たないようでかなりの策士である気がする。 -
なんか、「キムジョンウンは、安倍内閣の支持率が低下するたびに号砲を打って応援している」っていうくらい、ベタな陰謀論だな
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いや、しかし、その可能性はあるな
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>>93
ただ、それで受益した農民に朝廷がやられることになるとは、菅原道真も思わなかったろうな。
事実上、一国の政権政府としての朝廷は承久の乱で滅んでいるしね。
そして鎌倉時代前期は財団法人、後期はNPO法人といったところにまで落ちぶれた。
先のレスにも書いてあったが、ある意味日本も律令制国家の多重崩壊のあおりを食って、
皇室、言わば天氏の王朝から北条氏の王朝に切り替わったのかもしれないな。 -
後百済と高麗は呉越に朝貢してたとかいうし、
純友もしていた可能性はあるな
で、九州と四国あたりを領土とする王に。 -
天氏の王朝って何?
大体、御成敗式目からして律令を覆すようなものではないですよって明記してるし
院宮王臣家は職の体系による王民制支配は太閤検地まで力をもっていのだから
それ以前は百姓すら作人職に補任された国家の官僚扱いだぜ
律令制もここまで徹底するとは異常すぎる
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