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世界史
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遊牧民が支配した支那大陸
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支那の歴代皇帝 Y染色体と出自
三皇五帝 ? チベット系?北族?
夏 ? チベット系
殷 C2 モンゴル系
周 N1 モンゴル系
秦 O2 チベット系?漢族?
漢 O2 漢民族
新 ? 漢民族?
三国 O1b1.O2.O2 漢民族
晋 C2 モンゴル系
劉宋 ? 漢民族?
南斉/梁 ? 漢民族?
陳 ? 漢民族?
北魏 C2 モンゴル系
西魏 C2 モンゴル系
東魏 C2 モンゴル系
北周 C2 モンゴル系
北斉 ? モンゴル系or高句麗ツングース
隋 ? モンゴル系
唐 ? モンゴル系
契丹と遼 N1 モンゴル系
西夏 D1 チベット系
金 ? モンゴル系
趙宋 Q1 トルコ系
元 C2 モンゴル系
明 O2 漢民族
清 C2 モンゴル系 - コメントを投稿する
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歴代王朝の皇帝の大半は遊牧民
じゃあ漢民族が被統治者としてシステムの中で活躍したかと言うと全くそうでは無く、鄭和や李白など中国史上の傑物は非漢民族が多くいる
義や美など精神性や倫理に関わる字には羊の字が入り、賄や貯など金銭に関わるさもしい字には貝の字が入るのは漢字の草創期における北方遊牧民と沿岸部の漢民族の役割の違いを如実に表している -
夏・殷・周は、いずれも統治者は漢民族ではなく異民族出身者である。その後春秋・戦国時代を経て、秦・漢・三国・晋・五胡十六国・南北朝・隋・唐・五代十国・宋・遼・金・元・明・清という中国の歴史上の皇帝の中で、れっきとした漢民族出身の皇帝は漢・明ぐらいで、その他のほとんどは異民族出身である。
夏・殷・周について孟子は「舜は東夷の人である」と主張し、司馬遷も「禹が西羌地域から興った」と指摘している。また、「商人は中原に侵入し夏族の人民を奴隷のように扱った」とあり、孟子は「(周の開国者)文王は、…西夷の人なり」と指摘している。周はもとは中国以西か北西にいた遊牧部族で、渭水の流域に移り住んで定着し農業をするようになった。周は後に「商」に代わって「中華」の支配者になる。 -
歴史上、モンゴル人が北中国を征服し、北中国人が南中国人を征服し、南中国人が東南アジアに避難して現地の経済や政治を掌握する流れはあってもその逆は1度たりとも無かった
三国時代の争覇戦も、涿県(今の北京周辺)出身の劉備や山東省出身の諸葛亮が、中原では落ち延びたにも関わらず南方の荊州や益州ではいとも簡単に皇帝や丞相になってしまうという河北人酋長モノと言える
そしてその蜀は南征を行うが、当然その逆は無い
つまりある時代の南人というのは1つ前の時代の漢人であり、ある時代の漢人というのは1つ前の遊牧民であった可能性が非常に高い事
これに対し、中国人は「自分たちの土地は豊かだったから北に移住する必要は無かったんだ」と主張するが、人口というのはその土地の食糧生産高に対して飽和するまで増加するのだから、全体としての生産量が多くとも1人あたりの豊かさで見れば、均衡するものである
中華文明というのは中国人の言う異民族によって主導されてきた文明であり、現在漢民族と自認する人々はその文明における一介の同居人に過ぎなかった -
契丹古伝(神頌叙伝【しんしょうじょでん 】)
とは、
遼(契丹)太宗耶律堯骨の会同五(942)年に耶律羽之によって撰ばれた契丹王家の祖先に関する伝承を纏めた古文書とされています。
古代中国の尭・舜・殷はこのシウカラ系の国家であったが、「海漠象変」と表現される天変地異とともにシウカラ族は没落し、西族(漢民族)によって中原を追われる。
『契丹古伝』によれば、のちに東夷や北狄とよばれるようになる蒙古民族こそが中国大陸に超古代王朝を築いた先住民であり、契丹王朝もその末裔であった。 -
東大神族(シウカラ)は、漢民族が登場する以前から存在したユーラシア大陸の先住民。
大陸最古の王朝と言われる「夏」、その夏を滅ぼしたと言われる「殷」、
また中国史では蔑称で記される「東胡」「匈奴」も、同祖・同族という。
大陸の先住民である「殷」の末裔と「漢」との対立こそ、ユーラシア大陸
の古代史の真相であるというのが、この『契丹古伝』の核心部分のようだ。 -
『帝王世紀』には「伏蒙は成紀に生まれる」とある。「伏蒙」は三皇(中国最古の三人の皇帝。ほかの2人は神農と黄帝)の1人目で、「成紀」は今日の甘粛省南部天水地区、古くは「方羌の地」とされる。
『史記・補三皇本紀』では、炎帝は「姜水で育つ」という。姜水は甘粛省定西市渭源県の方渭河、その支流の歧水で、今日では渭河という。渭河の源はすなわちチャン人の本拠地である。『国語・晋語四』の解釈では、「昔少典は有嬌氏を娶り、黄帝と炎帝を生んだ。黄帝は姫水で育ち、炎帝は姜水で育つ。育った場所を異にするため、黄帝を姫、炎帝を姜と呼ぶ」。つまり、黄帝と炎帝は兄弟で(一説には異母兄弟)、2人とも間違いなくチャン族部落の人である。これは、なぜ古字の「羌」と「姜」が同じ文字であるかを説明している。ここから今日我々がいう炎黄子孫は、実はチャン人の末裔であると分かる。
『史記・六国年表』には「禹は西羌に興る」とあり、また『孟子・離婁下』には「文王は歧周に生まれ、畢郢で没す、西夷の人である」とある。西夷は間違いなく西羌のことである。そこで歴史学者の翦伯賛氏は「炎帝の姓は姜……西戎チャン族の一系統で、西から遊牧して先に中部に入る」という。 -
>>3-5
https://i.imgur.com/xhSoVTe.jpeg
春秋時代の黄河河口に居たのは
現代西ヨーロッパ人に近縁であった
那是因为考古挖出了2座疑似姬周王族的大墓贵族墓主遗骨,两个墓主遗骨的Y-DNA都是N,但从文物看,还难以断定是商还是周,所以也有可能属于商王族,目前尚无绝对定论。只是多数意见认为是周王族,那周人的核心按现在的民族DNA采样结果,在东亚就是最接近哈萨克人和鄂温克人了。
周人のDNAを解析した結果
カザフ人やエヴェンキ人に近いと結果が出た -
>>6
殷商の皇帝がC2、周の皇帝がN
殷周の貴族階級はQも多かった
殷商王室、孔子:根据孔姓等子姓衍生姓氏高频、C-F10036支系共祖年代比较符合殷商的创始年代、其下游C-F13136共祖年代又较符合微子宋国的创始年代,而C-F13136支系下游C-MF1920支系的孔姓为中国孔姓最大的支系,衢州南孔和曲阜北孔计算共祖于约1250年前,与孔仁玉生活的年代较为相符,推测C-F10036是殷商王室和孔子的父系。
周朝王室姬昌家族:N-F1998 各支系SNP计算共祖年代约在3050年前,现在已发现爆发至少30个分支,毕姓、令狐姓、魏姓等出自姬周王室的姓氏高频,并有测出出自姬周王室的姬、渠等姓,主要分布在中国北方中原地区与姬周王室的分布较为相符,复旦大学检测西周中晚期山西黎城西关贵族墓地两具遗骨DNA父系结果为N-F710(F1998上游)和F1998,推测N-F1998是西周王室的父系支系
商周贵族中很多是Q,
今の漢族とはかけ離れたDNAを持っていた -
晋朝皇室:复旦大学对山东临沂的洗砚池墓地被确认为晋元帝司马睿第五子司马焕和孙子司马安国的其中一具遗骨进行基因检测,父系为C-F1319,故推测晋朝皇室司马懿家族父系属于C-F1319支系;
支那の復旦大学の研究結果で明らかになった事実
晋の皇帝はモンゴルツングース系のY染色体を持ってる事が明らかになった -
武川鎮出身の有力者は、後に武川鎮軍閥、さらに後には関隴集団と呼ばれる、西魏・北周、および隋・唐の支配層を形成していた集団となっていきます
孝文帝の死後に北魏は東西に分裂し、東魏(534~550年)は北斉(550~577年、国祖の高歓は懐朔鎮出身の鮮卑人で、六鎮の乱に加わった人物)に、西魏(534~557年)は北周(557~581年、国祖の宇文泰は匈奴を先祖に持つ武川鎮出身の鮮卑人で、やはり六鎮の乱に加わった人物)に取って代わられます。やがて北周は北斉を滅ぼし、その北周は隋(581~618年)に取って代わられます。これらはみんな、鮮卑系の王朝と言えます。
隋の楊は北魏の漢化政策の時につけられた姓であり、『普六茹』という鮮卑風の姓は北周の鮮卑化政策でつけられたものではなく、本来の姓である」と言う説もあり、はっきり鮮卑人だと言い切っている本も多いです。
おまけに、先に出てきた宇文泰が580年に西魏に置いた八柱国(柱国大将軍に任じられた8名の将軍のこと)の下に置かれた大将軍の一人が楊忠です。最低限、楊堅は「鮮卑系」と見做して差し支えないでしょう。
隋末に各地で反乱を起こした群雄のうちに李淵・李世民父子がいました。李淵は先に挙げた八柱国の一人の李虎の孫であり、武川鎮軍閥のなかでの家格は隋王室の楊氏よりも上位に当たります。
李淵の一族は大野(だいや)氏という胡姓を持ちますが、ある学説では「実際は鮮卑系の出自で本来の姓も大野氏であり、中原の支配権を正当化するために自身が漢民族の末裔であることを主張した」
隴西李氏について書いていくと、北周の八柱国の家系で、かつて北魏においては皇后を出す資格のある家柄の一つとして重んじられた北朝の名門でした。李淵が隋の文帝の信任を得るきっかけとなったのは、その独孤皇后(五胡十六国時代の南匈奴の独孤部の末裔で、独孤氏は北朝から隋唐の時代にかけての名門貴族)が李淵の叔母にあたることによります。 -
ここまでの流れをご覧いただくと、
・北魏に始まる鮮卑系王朝のルーツが、北魏→東魏・西魏→北斉・北周→隋・唐と引き継がれていること
・これらの皇帝には、北魏のつくった武川鎮にゆかりのある人物・宇文泰と何らかの縁のある人物だらけであること
また、皇后たちも、文帝の独孤皇后も李淵の太穆竇皇后も匈奴系、李世民の長孫皇后は鮮卑拓跋部です。敢えて北族を嫁がせているとしか思えません。漢民族と北族のどちらにアイデンティティを感じていそうか、雄弁に物語っています。 -
唐代に書かれた南北朝時代を扱った歴史書『南史』『北史』は659年に完成しましたが、南史を見ると、宋の君主・梁の君主・陳の君主・全て「本紀」で扱われ、みな正式に「皇帝」と呼ばれています。まあこれは当然です。魏の正統を引き継いだのが西晋、これが匈奴に追われていったん滅亡して南遷した以後が東晋で、東晋から禅譲を受けて宋が誕生するわけなので、中国の伝統的な正統観からすれば、これらは正統でなければおかしいわけです。
ところか、北史を見ると、遊牧民系の北魏も、東魏も、西魏も、北斉も、北周も、隋も、全て皇帝として「本紀」で扱われています。「三国志」では、魏だけに「本紀」を立て、正式に「漢」と称したのを無視してあくまで地域名で「蜀」として、「中国世界に皇帝は一人」という建前を守ったのとは大違いです。おかげで、「南史」「北史」が示しているのは、「北朝も南朝も正統である」という、中国世界の大前提を掘り崩す、恐るべき世界観です。
唐が本当に漢民族王朝なのであれば、鮮卑人の北魏を正統とはしないでしょう。隋・そしてそれを承けた唐の帝室が鮮卑起源であることを自分たちがよく知っているからこそ、北魏をも正統とする歴史書を書いたのです。唐は、自ら北魏の系譜であると言っているようなものです。 -
https://i.imgur.com/pqhB0JU.jpeg
https://i.imgur.com/t0LMDLR.jpeg
皇帝宇文泰と阿史那皇后のDNA
現代支那人とは完全にかけ離れてる
数百年同化してもこれだから
隋や唐の皇帝もかなり北東アジア人の遺伝子の保持してるだろうね -
https://i.imgur.com/EHdUZB2.jpeg
長年漢民族王朝扱いを受けてた宋
遺伝子解析で趙匡胤の突厥沙陀族がバレた
趙匡胤の父趙弘殷は突厥沙陀部の国家である後唐の近衛軍の将官だから憶測で突厥言われてたけど、DNA解析で完全に明らかになった
科学报道是这样说的:科学家为了搞清楚赵匡胤家族身世之谜,对北宋赵氏皇族后裔的基因进行了大规模检测,确认北宋赵氏的父系Y染色体含有典型的Q系基因,而中原一带主体汉族的父系Y染色体为O系,迥异于赵氏皇族基因。进一步研究表明,赵氏皇族Q系基因来源于中国早期北方的鬼方民族。
https://www.23mofang...e14ce4b0aae60f0c09cf -
https://i.imgur.com/Z1Q9u5G.jpeg
モンゴル人
https://i.imgur.com/x6mGN62.png
北部支那人
https://i.imgur.com/cZuwEM3.jpeg
中部・南部支那人
かなり違ってる -
モンゴル人
モンゴリアンハンターギャザラー(アムール川遺伝子とも呼ばれてる。北東アジア人を特徴付ける遺伝子)
北部支那人
イエローリバー(黄河の農民。東アジア人の遺伝子)
中部・南部支那人
イエローリバー+東南アジアの農民
https://i.imgur.com/ZyxF5DJ.jpeg -
で、結局韓国朝鮮人って
何人系なんや??
教えてエロい人。 -
チンクとチョンコには蒙古斑あんの?
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で結局モンゴル帝国のチンギスハンは源義経だったの?
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>>21
”現代”朝鮮人の事か?
混じり過ぎて誰にも分らない
下手すると帝政ロシアの植民拡大から逃げて来たただの遊牧系アジア人かもしれない
ただ確かなのは奴隷階級であっただろうという事
黒人をサポートしてる非政府組織が朝鮮人も支援してるから -
面白い
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