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戦国時代
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【陸奥】 南部氏 【清和源氏】
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ない理由がわかったやろ
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晴継が生まれなかったら島津みたいに地の利を生かして東北統一してたかも
一人の人間のせいで落ちぶれるいい例 -
自称南部支族による連合体でしかなかった集団に統一とか冗談きつい
信直が野心をもって内訌を制して戦国大名化する道筋は晴継の有無な何も関係ない
三戸潰し九戸との対立大浦独立は既定路線 -
古文書研究84号にて南部信直の元服所について書かれていた熊谷隆次氏が
編著で戎光祥出版で南部信直が出版予定とか
2年前にも同社から森喜兵衛氏が書いてはいるけど -
「島津に暗君なし、南部に名君なし」というが
戦国時代の南部家当主で一番マシだったのは誰か? -
晴政の拡大路線の礎を築いた南部安信じゃね?
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>>7
安信は南部氏の戦国大名化を目指し、積極的に勢力拡大政策を推し進めた。
大永4年(1524年)石川高信ら3人の弟を動員して、津軽地方の諸城を抑えて津軽を平定させ、
そこに高信を置いて統治を任せている。さらに弟の南長義には五戸地方を、
同じく弟の石亀信房には石亀城を、同じく弟の毛馬内秀範には毛馬内城を任せて、南部氏の体制を固めている。
このように安信が築き上げた基盤は、次代の南部晴政時代の発展へとつながったと言われているが、
上記の安信の事跡は後世の書籍に記されているもので、安信に関する一次資料は不足しており、
実際の功績は定かでないと言われる。同様の理由から、
安信以前の南部氏の素性には、疑問視する点が多いとも言われている。
(ウィキペディア) -
名目上は浪岡北畠の家臣で、八戸が本家だったのに三戸が盟主になり
久慈と九戸は二階堂一族で、後に南部氏庶流を自称して乗っ取りを狙う
ライバルの安東は過去に南部との戦で津軽喪失して、名目上は浪岡家臣同士
斯波とは南北朝以来の不倶戴天の敵だが、大崎には臣下の礼をとっていたことがある
こんな感じだっけ -
南部領は広大な上に人口が少なく村や町も点在していたので親類衆や家老級にある程度の給料を与えるには広大な土地を与え、それを管理するための独立国並みの自治権と兵力を持たせないとまともに統治できなかったと言われている
それゆえに何十年も経つと親類衆や家老級に独立志向が強くなり度々反乱や独立を起こした
南部の当主が無能というより北東北の環境がそうさせたとも言われている -
葬式と聞いたら武器もって襲撃せずにはいられない一族
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南部信直とか資料にあるだけで4〜5回は暗殺未遂にあったのに生き延びたからな
それが幕末までの盛岡藩に繋がった訳だし危機管理という点では名君と言えると思う -
九戸政実の乱は南部領内での家臣の反乱なんで本来なら南部信直は切腹もしくは転封レベルの大事件
他の多くの大名がそれで領地を失っている
信直が機転を利かせて豊臣政権への反乱と話をすり替えたんで
何もなくというかむしろ以前に奪われた津軽領分の代替として盛岡まで手に入れた
信直が無能とは言えない理由はそこにある -
>>16
であれば豊臣系の大名を配置した方がいいからやはり南部は難癖つけて転封した方がいい -
木村吉清が葛西大崎一揆に瞬殺されて、豊臣の権威を傷つけたし
辺境は地元の連中に任せる方が安定する -
津軽と違って南部領は砂金と鷹と馬の産地なんで実は豊か
馬はともかく砂金と贈答用の鷹は見過ごされがちだけどかなりの収益を南部にもたらしてるし信直はそれを活用して前田や浅野をうまく取り込んだ
辺境だからといって侮ってはいけない土地だよ -
交易路すら日本海岸ばかり注目されるけど
当然のように太平洋岸の交易路もあったので機を見るに敏なのは当然
久慈経由等で九戸ですらそのルートに乗って利益あげていた部類 -
木村さんは西軍について、あぼんしました
個人的に阿曽沼さんのその後が気になる -
阿曽沼は絶滅したんじゃ
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太平洋側は志摩海岸、遠州灘、房総半島、三陸海岸といった難所が多く
動力源を持つ船が主流になる明治時代以前は西廻り航路がメイン -
そう言っていると土器作っていた頃からやっている太平洋岸の黒潮貿易を失念する
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波木井のスレかと思った。
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南部 実長(なんぶ さねなが)は、鎌倉時代中期の御家人。
南部光行の三男。八戸氏(根城南部氏)の祖。
日蓮の有力壇越として知られ、また甲斐国波木井(はきり)に居住したことから波木井実長とも呼ばれる。 -
父光行から甲斐国巨摩郡飯野御牧内にある波木井郷(現在の南巨摩郡身延町梅平一帯)を割譲され、地頭職を兼ねた。
嘉禎4年(1238年)、4代将軍藤原頼経が上洛した際には、兄実光と共に随兵を務めた。
文永6年(1269年)頃、鎌倉での辻説法を聞いて深く感銘し日蓮に帰依した。 -
同11年(1274年)には、流罪を解かれ佐渡から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、
まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたった。
弘安4年(1281年)、十間四面の堂宇を建立寄進し「妙法華院久遠寺」と命名、また実長も出家し法寂院日円と号した。
弘安5年(1282年)9月、病身の日蓮は病気療養の為常陸の湯に向かう途中現在の東京都大田区池上に着くと病体が更に悪化し、実長への9ヶ年の感謝と死期の近いことを知らせる最後の手紙を送っている(『波木井殿御報』)。
10月13日朝、61歳の生涯を閉じた日蓮の遺言通り遺骨を身延の澤に埋葬し実長を中心に六老僧等で護った。 -
後代、長男実継の家系は陸奥国を地盤とする八戸氏(根城南部氏)として存続し、
本拠地である甲斐国波木井郷は四男(一説には長男とも)長義の家系が継承した。 -
鎌倉時代、
疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、
三度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。
当時、身延山は甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)の領地でした。
日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、1274(文永11)年5月17日、身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました。
このことにより、1274年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢(かいびゃく)の日としています。
日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始し、
1281(弘安4)年11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名されました。 -
翌1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、
同年10月13日、その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じられました。
そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人のご遺言のとおり、
そのご遺骨は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られました。 -
その後、身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承され、
約200年後の1475(文明7)年、第11世日朝上人により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍(がらん)の整備がすすめられました。
のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています。 -
日蓮聖人のご入滅以来実に700有余年、
法灯は綿々と絶えることなく、
廟墓は歴代住職によって守護され、
今日におよんでいます。
日蓮聖人が法華経を読誦し、
法華経に命をささげた霊境、
身延山久遠寺。
総本山として門下の厚い信仰を集め、
広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがありません。 -
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
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波木井氏と八戸南部氏は関係ないって現在ほぼ証明されてるけどな
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盛岡南部家の宗旨はなんだっけ?
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甲斐に残留した南部氏もいると思うが、その後どうなったの?
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南部宗秀から笠井満秀 笠井慶秀につながる
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相馬大作事件(そうまだいさくじけん)とは、
文政4年4月23日(1821年5月24日)に、南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が、
参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件。
秀之進の用いた別名である相馬大作が事件名の由来である。
杜撰な計画と、事件前に裏切った仲間の密告により、
津軽寧親の暗殺に失敗したため、
秀之進は南部藩を出奔した。
後に秀之進は幕府に捕らえられ、獄門の刑を受けた。 -
北信景出奔は金山の利権争いに破れたからなんですか?
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単に利直と折り合いが悪かっただけな気がするけどねえ。一家臣が大名と利権争いで
戦えるわけないし…功績のあった八戸氏でさえ屈辱的な田名部取り上げと
遠野転封の渋々承諾してるくらいであって -
後藤又兵衛基次が黒田長政と相性が悪すぎて出奔したようなものだと思う。
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ただし、大阪の陣で豊臣家が踏ん張って生き残り、そのうちに家康が死んだ場合の
「保険」として北信景を大阪に入場させたという見方もできるが。 -
丸くなるなるまで南部領って石高どれくらい?
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15〜20万石ぐらい
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しょぼー(笑
そんな中で九戸だ津軽だって内紛してたんかいw
悲しいなぁw -
東北のように一村の石高が低いとそれなりの石高を家臣に与えるためには広大な領土を分け与えなくては成り立たない=必然的に家老や一門クラスには広大な領土を分け与えることになる=数十年経つとその家老や一門クラスが自立し始める→反乱を起こす
という南部の統治を云々する前に地理的な統治の難しさが北東北にはある -
さらに家臣団は自領地で事が起こった時に遥か彼方にいる当主の援護が期待できないため結果的に自分で解決しないといけない→結果的に自立心旺盛になる→もしくは自立心旺盛じゃないと統治できない
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南部利直は石高に見合わない3000という多数の兵を引きつれて徳川幕府に忠誠をしめしました。
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南部利直の時代には馬と砂金と鷹の商売で経済的に潤っていたよ
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小田原の陣では信直も1000の兵を率いて青森から関東に赴いてるし石高は低いけど金はあったんだろうな
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津軽氏相手に手こずり過ぎだから、もっと評価下げてもいい。江戸時代だと見栄張って石高維持のため無理して領民は飢饉で村離散し仙台藩に流出させてる
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同族の甲斐源氏小笠原氏と同じぐらいマイナーレベルの武家なんだよな
ただし南部氏諸家には一戸氏、二戸氏、三戸氏、四戸が無くて五戸、六戸、七戸
八戸氏、九戸氏まであって、まんま地名として残っている
有名なのは、三戸氏と八戸氏で、三戸氏が後の盛岡の大名になっているとおもた -
蠣崎氏とは仲良かったのかな?
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下北半島を蠣崎氏から奪ってる時点でお察し
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どこも領土接してるとこは仲悪いね
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斗南藩が散々苦しんだ不毛な土地を巡って争ってたのか。
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<<69
農業的には不毛だけど海産物とか北海道とかからの交易品とかで潤ってた。
何といっても、金がとれた。 -
側室に耽溺して、若死にされるとその母親を側室にするとか、ちょっとおかしいです
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十三湊でがっぽり儲けてたんだろ?
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何故か十三湊は使われなかったよ。室町時代に日本の交易港ベスト10である
三津七湊の一つとして繁栄していたのに -
>>73
砂のせい つかいずらかったんでしょ -
南部が金持ってたのは砂金と贈答用の鷹と馬のお陰
常識な -
南部晴政が騎馬で突撃してくるので、よくわかります
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シナリオにもよるけど南部晴政、石川高信、九戸政実の騎馬トリオによる突撃で北関東までは行ける。
そっから上杉か北条に侵攻するわけだが上杉は南部の上位互換だからいつも北条に向かってたな。 -
キター
『歴史群像』2019年12月号 (11月6日発売)
第2特集 南部氏VS.津軽氏 陸奥北部で展開された虚々実々の闘争 -
虚々実々の闘争 というより 田舎の小競り合い
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津軽が鉄砲と弾薬をサービスしてくれたが、佐竹藩は有効活用が叶わず連戦連敗
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江戸初期は日本で一番金持ちって言われてたんだっけ
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七戸の民だけど祖父から家臣の一族って聞いてる
真偽はわからん -
信直の家督相続が天正9年説が強くなってきたと
家督は晴政→信直だと -
>>83
晴継は? -
野辺地、烏帽子山は、南部藩固有の領土であります。それを津軽藩は、幕府に檜を献上するという名目で無理やり奪い取ったのであります。
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そろそろはっきりさせようぜ。
南部家の本家は盛岡じゃなく、八戸だよな。 -
何をもって本家とするか基準が分らんけど南北朝期に勢力を持っていたのは八戸
というか元が同じ甲斐南部出身っていうだけでどこまで同族意識があったか謎
分家で勢力争いして勝ったやつが本家の島津と一緒じゃね? -
南部信長 強そう
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武田家にも武田信長という人物がおってだな
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藤原信長
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信長書店
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>>86
八戸→三戸→九戸となるはずだったが北信愛のクーデターで九戸にはバトンが回らなかった -
九戸も上手く独立してればなぁ
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九戸は完全にしくじった
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九戸が好き過ぎてたまらない
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野望シリーズで九戸政実の戦闘や統率が高い根拠はどの戦が元になってるの?
wikiだとこれといって目立った功績がないようなんだけど -
安東氏の鹿角侵攻で活躍したんじゃなかったかな
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源為朝の子孫は勝信貴
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あまり話題にならないけど八戸氏はどうして平地の根城に城を構えたんでしょう?
少し離れた場所には守りやすい高い台地があるのに
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