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戦国時代
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【早雲】後北条家総合スレッド 其の八【氏直】
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>>1
乙。 -
『祿壽應穩』
祿(財産)と壽(生命)は應[まさ]に穩やかなるべし
(「虎ノ印判」文言) -
【関連書籍選 史料】
・『日本中世気象災害史年表稿』 藤木久志 編 高志書院
(webビューア:https://www.hi.u-tok...s/?page=269&limit=30)
・『戦國遺文 後北条氏編』 杉山博/下山治久 編 東京堂出版
(1~6、補遺、別巻)
・『小田原市史 史料編 中世Ⅱ』 小田原市
・『小田原市史 史料編 中世Ⅲ』 小田原市
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【関連書籍選 論文集】
・『中世関東武士の研究10 伊勢宗瑞』 黒田基樹 編 戎光祥出版
・『中世関東武士の研究21 北条氏綱』 黒田基樹 編 戎光祥出版
・『中世関東武士の研究23 北条氏康』 黒田基樹 編 戎光祥出版
・『中世関東武士の研究24 北条氏政』 黒田基樹 編 戎光祥出版
・『中世関東武士の研究29 北条氏直』 黒田基樹 編 戎光祥出版
・『中世関東武士の研究31 北条氏照』 黒田基樹 編 戎光祥出版
・『定本・北条氏康』 藤木久志/黒田基樹 編 高志書院
・『戦国大名の新研究2 北条氏康とその時代』 黒田基樹 編 戎光祥出版 -
【関連書籍選 一般・評伝書】
・『戦国大名・伊勢宗瑞』 黒田基樹 角川選書
・『』 -
(>>6は誤送信)
【関連書籍選 一般・評伝書】
・『戦国大名・伊勢宗瑞』 黒田基樹 角川選書
・『北条氏綱』 黒田基樹 ミネルヴァ書房
・『図説・北条氏康』 黒田基樹 戎光祥出版
(本書中に別途本格評伝書の執筆予告有)
・『小田原ライブラリー13 北条氏康と東国の戦国世界』 山口博 夢工房
・『北条氏政』 黒田基樹 ミネルヴァ書房
・『戦国大名・北条氏直』 黒田基樹 角川選書 -
【関連書籍選 一般・研究】
・『新版 雑兵たちの戦場』 藤木久志 朝日選書
・『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』 齋藤慎一 中公新書
・『江戸 平安時代から家康の建設へ』 齋藤慎一 中公新書
・『日本最古の水道「小田原早川上水」を考える』 石井啓文 夢工房
・『軍需物資から見た戦国合戦』 盛本昌弘 吉川弘文館
・『百姓から見た戦国大名』 黒田基樹 ちくま新書
・『戦国大名 政策・統治・戦争』 黒田基樹 平凡社ライブラリー
・『国衆 戦国時代のもう一つの主役』 黒田基樹 平凡社新書
・『戦国争乱と巨大津波』 金子浩之 雄山閣
・『対決の東国史6 古河公方と小田原北条氏』 阿部能久 吉川弘文館
(25年2月発行予定)
・『対決の東国史7 小田原北条氏と越後上杉氏』 簗瀬大輔 吉川弘文館
・『関東戦国史 北条vs上杉55年戦争の真実』 黒田基樹 角川ソフィア文庫
・『戦国江戸湾の海賊 北条水軍vs里見水軍』 真鍋淳哉 戎光祥出版
・『戦国の城攻めと忍び 北条・上杉・豊臣の攻防』 戦国の忍びを考える実行委員会/埼玉県嵐山史跡の博物館 編 吉川弘文館
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【関連書籍選 一般・その他】
・『戦国北条一族』 黒田基樹 新人物往来社
・『北条氏康の家臣団』 黒田基樹 洋泉社歴史新書
・『戦国武将列伝2 関東編【上】』 黒田基樹 編 戎光祥出版
・『戦国武将列伝3 関東編【下】』 黒田基樹 編 戎光祥出版
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どうでもいいけど川越夜討ちの時の関東管領軍8万ってどこまで本当なの?
まあ関東は石高かなりのものだし、関東全土から集めればそれなりの兵力になるかもしれんけど
さすがにそれだといくら氏康でも勝ち目ないような気が? -
目糞を鼻糞が罵倒してるw
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>>8に挙げた
『対決の東国史6 古河公方と小田原北条氏』 吉川弘文館 (25/02/21刊行)
を予約してきた。
が、
版元サイトの試し読みで目次を見たら小標題が「その男、伊勢宗瑞」とか「風雲相模台」とか何だか安い小説風味で…。
いつの間にか執筆者も変更になっているし、不安。
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ここは北條爺の日記帳
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黒田氏は一時期おんな家長に嵌まってたけど最近また北条本出したのか
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>>17
一流の研究者にも得手不得手はあって、
黒田基樹氏は行政制度や外交動向に関する緻密な論証に於いて他の追随を許さない反面、
産業、交通、城館等々、技術やモノの範疇からの論考が手薄だという印象を受ける。
自分はその辺りについては齋藤慎一氏や盛本昌弘氏の著作を読んで補っている。 -
>>20
「"北条" "保土"」なら検索でヒットするけど(文献にあらず)、他はWeb検索の限りでは判らないねえ -
仕事の手を停めて真面目に検索して損したかしらね
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検索してくれた人ありがとう
論文まではない感じか -
伊豆に北條があって南條がある。
それだけでも消息は知れようと云うものだ。 -
後北条氏は史料が豊富に残っているので、よく研究されているというが、
滅亡した後北条氏の史料はどこにどのように保存されていたのだろうか? -
>>28
先ず、
滅亡(?)とは云っても武田や朝倉のように徹底的に破壊蹂躙されたわけではないから城中や遺臣の手許に在った書類は少なからず徳川に引き継がれたであろうこと。
北條と同様に文書や制度を、或いはその継続性を重視する徳川が後継者だったことは幸運と云える。
次に、
北條は在地の統治に当たって滅多矢鱈と文書を発給したから受給側に保存されたものが多かったであろうこと。
これは『新篇武蔵風土記稿』『新篇相模國風土記稿』等から窺える。
統治者が替わっても在地は権利関係の法的根拠として前統治者の文書を提示した。
豊臣軍や徳川は勿論、戊辰戦争時の薩長軍に対しても有効だったと謂う。
主なものはこんな所だろう。
その他にも色々あろうかと思う。
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北條氏は相変わらず読みづらい自己満足の文だな
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>>27
わりい見落としてた -
完全なよそ者で現地の慣習に疎い分、文書偏重になったのかな。
考えたら全く地縁がないわけだから、進駐軍と同じようなもんだしな -
>>32
それは多分にあったと思う。
北條側にとっても、また新参の統治者を迎える在地側にとっても、
行政案件を逐一明文化しておくことは無用の諍いを予防する為に必要でもあり便利でもあったろう。
加えて、
北條の初期に於いては大名が村々と直接向き合うという統治方式そのものが新しかった。
旧来の統治方式なら大名権力体がシステムとして関与しなかった案件まで
「何でもかんでも」取り扱わなければならなくなったことで文書量が激増したものとみられる。
あとは元幕府中央官僚伊勢盛時の役人体質…と云うのは冗談だが。 -
百姓「腰さし類之、ひらひら武者めくやうニ可致支度事って言われてもなぁ」
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>>34
六郷(多摩川河口)の漁師「それぐらいなら何とかなるだろ。こちとら『鯛と蛸と海鼠を八王子まで持って来いスグ持って来い今持って来い』って云われてんだぞ…。」 -
>>36
有名な書状だよ -
35は知らんな
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右、此虎之御印判ニ代官之判形を添、小事をも可被仰出。
虎之御印判なくハ、郡代同雖有代官之判形、不可用之。
(永正十五年十月八日付伊勢家朱印[虎印判]状より)
何れにせよ、
北條の行政事務文書が厖大な量になったに就いてはこんなことを最初に宣言したウツケ者が悪い(笑)。
これのせいで歴代当主がすっかりブラック勤務になっちまったんですよ宗瑞さん。
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>>35
横浜戸部の漁師に海鼠200・鯛50・蛸30を栗橋まで届けろと言ってる氏照朱印状もあるよな -
東国では銅銭にかわりなまこやタコなどが通貨して使われていた
これを魚高制という -
>>43
民明書房か。 -
でも岡野友彦さんは「家康はなぜ江戸を選んだか」で
頼朝の太日川渡河が成功した理由として
三浦水軍などが江戸湾を封鎖して江戸氏が交易で干上がったから、
と推測してたけどね
中世関東は水の世界だし、今思う以上に海産物は身近だったのかも -
さすがに源頼朝のことは何とも云いかねるが…。
伊勢宗瑞が武蔵再侵攻よりも真里谷との同盟を優先したこと、
北條氏綱がいち早く江戸を奪取・確保したこと、
北條氏康・氏政が関宿攻略に執念を燃やしたこと、
世代を超えて里見と激闘を繰り広げたこと、
これらは全て武総之海~利根川の水運権益掌握及び一体経営への指向として終始一貫している。
更に伊豆・小田原から三浦廻りの外洋海運と併せれば北條の目指した国家像が明確に見えてくる。
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>>45
> 中世関東は水の世界
北條対里見は勿論、
享徳ノ乱、永正ノ乱、古河対小弓、北條対簗田、…、
等々利根川筋の関東戦国争乱に於ける河川水軍の活躍に言及する研究者が増えてきた。
「西国は舟、東国は馬」と云う図式は実態から懸け離れた幻想なのかもしれない。 -
>>35
年次と文書名教えて -
>>35
年次と文書名教えて -
鎌倉、横須賀ときたからそのうち小田原も大河になるか…?
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>>50
今や大河にされたら負け -
>>35
何年のなんという文書で何で読めますか? -
10日経ったけど返答なし
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小田原大河ってセット撮影で安くできそう。何となく。
関ヶ原みたいに大会戦シーンは誰も期待してないし。 -
>>54
北条氏照著「秘伝・北条流おつまみレシピ集」(1587、吉川弘文館) -
大河の戦シーンなんて始まったと思ったら直ぐ場面が切り替わって殆ど無いに等しいじゃん
両軍が槍衾を作って衝突するかと思ったら何故か槍を相手に真っ直ぐ刺さずに上にあげて槍をぶつけ合うとか謎の動きをするし -
合戦では槍で叩かないって裏を取って書いてます?
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叩くこともあるけど毎回じゃないくらいの理解
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相手を叩くんじゃないよ
互いの槍衾が接近したところで双方とも槍を斜め上に挙げて槍同士をカンカンぶつけ合うって謎の動きをするって事 -
大河ドラマかあ。歴史考証からの助言でそうさせているとは思うよ、謎ではないと思う
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謎だよ
なんで目の前に敵がいるのに槍を真っ直ぐ突き立てずに斜め上にあげるんだよ
単に撮影のとき危ないからやってるのだろう -
じゃ出典つけて転記するわ。多分長くなる。これを否定するならそれ以上の俺が納得できるもの出典付きで出して。
「今日の常識では、槍はもっぱら突くもので、刀は両手で握って振りまわすものというころになっている。だが、これは江戸の太平期の槍術や剣術が植え付けた感覚で、戦国時代の常識では、そういうことになっていなかった。
江戸時代の槍術では、左足を前にした左構えになるのがふつうである。ところが戦国時代からあるような古い流派には、しばしば右足前の右構えになるものがある。これはどういうことでしょうと、かつて武術家で時代考証家の名和弓雄さんにお尋ねしてみたことがある。
名和さんのお考えは明快で、突くだけではなく、打ち叩くことも考えていた時代には、右構えにしたほうが便利だから、当然、それが基本になったのだという。近世になって、槍は突くものばかり心得るようになれば、左構えにするのが当たり前ということになる。
戦国時代には、足軽などは長柄槍という大量生産の長めの槍をもち、士分の者達は、各自が持槍といって短めの槍を用意した。この長柄槍は、戦闘になると、いわゆる「槍ぶすま」をつくって敵の突入を阻止したり、振りまわして敵を打ち倒すために用いられた。槍本来の機能であるはずの刺突などというものは、あまり考慮されることがなかった。
士分の連中にしても同じようなもので、いざとなれば突き合いというより、叩き合いになることが多かった。大坂夏の陣のとき、加賀前田家の者達が城兵と槍を合わせたが、最初の一槍、二槍は、双方確かに突き合ったものの、あとはひたすら打ち合い、叩き合うばかりだったという話が残っている。
江戸初期に風伝流の槍術者として知られた国枝重隆の父親も、大坂の陣を体験した人だったが、戦場での槍はただ打ち伏せるだけで勝負が決まるものだと息子に教えたという。だから槍は頑丈につくっておくべきだというのが、その人の主張であるが、これはべつに大坂の陣に限った話ではなかったことは、もちろんだろう。
そういう記憶が鮮明に遺っていたあいだは、槍術者もそのような教え方をしていたらしい。加賀藩の関屋新兵衛という槍術師範は、大坂の陣のころ生まれた人だが、弟子たちが相当の腕前になるまで絶対に突き技を教えず、槍を振り上げて敵と敵の槍を叩くことだけを稽古させた。関屋にいわせれば、突き技などというものは、敵を叩き伏せるか、敵の槍を打ち折ったり打ち落としてから、はじめて用いるものだというのだ。
太平が続くうちに、こうした戦場の実態はしだいに忘れられ槍は突くものという考え方が当たり前のようになっていった。疑問をもつ人もいたかもしれないが、なにしろ実戦の機会がないのだから確かめようもない。
そのうち幕末の動乱が始まって、戦場に槍を担ぎ出すような場面がまた現れた。そのころ水戸の尊皇攘夷派に加わって何十回か戦闘を経験した人の遺談によると、もっぱら叩き立てていたようで、槍で敵を突き伏せた話なんて聞いたこともないとある。突く稽古などしていたのは、太平時のことだったともあるから、いざとなると、教えられなくても戦国時代の常識がよみがえってきたらしい。」『戦国時代の大誤解』 / 鈴木眞哉 / PHP新書446 -
>いわゆる「槍ぶすま」をつくって敵の突入を阻止したり
せっかく槍衾を作ってるのになんで敵が目の前に来たら槍を斜め上にあげてたら「敵の突入を阻止」できないじゃん -
しかも敵味方同時に槍を斜め上に上げて敵に振り下ろすでもなく頭の上で槍同士をカンカンぶつけ合うって何の意味があるの?
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>>64
あなたの想像で語る話なんて知らないですしはいそうですねって即座に同意できません。
反論したいなら納得出来る出典付きで出してください。
こちとら書籍を2冊引っ張りだして当該箇所を探し出して転記するまで対応してます。 -
名和弓雄氏懐かしいな
長篠の戦いについても一冊発表してたな -
>>68
>槍を斜め上にあげてたら「敵の突入を阻止」できないじゃん
これのどこが想像じゃない話なんですか。
PCかスマホから知りませんけど一歩も動かないで自分の求めてる回答に寄り添った返信だけ求めてる姿勢にしか見えません。
>これを否定するならそれ以上の俺が納得できるもの出典付きで出して
と最初に断っています。調べたり裏を取ったりするのが嫌で気持ち良くなりたいだけなんですか。 -
>>56
若干スベったな -
>>35
まだですか?
知ってる人間少なくとも3人いるのにだーれも教えてくれない
35人間七七四年2025/02/18(火) 00:15:15.07ID:oqQ1TDAk
37人間七七四年2025/02/18(火) 20:21:31.91ID:fOqCLiM+
>>36
有名な書状だよ
39人間七七四年2025/02/18(火) 21:56:18.68ID:XwMJLFU+
>>36
> 何でタコと海鼠…
理由を推測できる材料は無いが、
北條氏照が呑兵衛だったことは断定してよかろう。
40人間七七四年2025/02/18(火) 23:45:43.98ID:XwMJLFU+
何れにせよ、
北條の行政事務文書が厖大な量になったに就いてはこんなことを最初に宣言したウツケ者が悪い(笑)。
42人間七七四年2025/02/19(水) 01:32:20.70ID:QYSnKOjH
>>41
蛸案件文書だけ意図的に切り取っていくとどう見ても暴君だよな、北條氏照。
「偏向情報による印象操作」という現代のネット社会にも通底する問d(以下略) -
槍の穂先だって刀鍛冶が精魂込めて打ってるのに打撃ばっかりで刺突は稀だなんて何だか切ない話だな、、、
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半農で槍術も禄に学ばせてもらえないまま槍足軽として集められた集団が戦の中で出来る事として
敵を打ち倒すか敵の槍を叩き落とす処が出来る事の最初なのでしょう。戦の緊張もあるだろうし。
それが「斜めに構える」に集約されたのではないですかね。戦国時代が終わると>>6に書いた武芸としての槍術となる。
ファランクスみたいな前に構えて何者をも寄せ付けない密集隊形の槍隊の役割と勘違いしない方がいいと思う
大河ドラマの戦の演出で最もおかしいのは日本刀で甲冑ごとぶった斬るシーンではないかと思いますけどね。 -
まじかよ
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大河の戦シーンでは一列に並んだ足軽が槍を真正面に構えて槍衾を作りながら敵味方が両サイドから突っ込んでいくんだよ
んで、いざ両軍がかち合ったら一斉に槍を斜め上に上げて相手に振り下ろすでもなく
頭の上で槍をカンカンぶつけ合うという謎のシーンを何度も見た -
それはもう統率された一糸乱れぬ動きで敵も味方も一斉に同じ挙動をするから相当訓練された軍隊だろうね
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>>79
エキストラが自衛隊とか、、? -
大河ドラマで作られた映像は全て史実の通りだと信じて疑わずに意地でも擁護したい人がいるんだね
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突いたり叩いたりすると単純に画面の中に収まらないからでは?
大河ドラマは金がないからカメラを寄せてばっかりだからだろう
引きで撮ると色んなものが映るからそれだけセットやエキストラが必要になる -
>>83
自分の中で答え出てるじゃんw -
また撮影時に危ないから槍をカンカンぶつけ合ってる論くんが現れたのか
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怪我するって主張してる人は撮影に本物の槍を使っているとでも思ってるのかね?
ああいう小道具は当たっても怪我しないようにプラスチックにメッキがしてあるだけで本物の金属じゃないだろう
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