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江戸時代に何度も禁止令が出た庶民金融「頼母子講」が目指した“誰も損をしない”仕組み [きつねうどん★]
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江戸時代の伊勢参りの様子を描いた歌川広重「伊勢参宮 宮川の渡し」
近代以前の日本で、庶民による“相互扶助組織”として発展したのが「講」と呼ばれる集団だ。講の種類は様々だが、町や村に住む者同士が掛け金を出し合い、くじや入札で配当を得るなどの経済的性格を持つものや、寺社などの信者同士で構成される組織もあった。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第16回は、日本の庶民金融や旅行代理店の先駆け的存在でもあった「講システム」について取り上げる。【第16回】
封建時代の武士は主従関係を基本としながら、それと地縁・血縁を頼りに生きていた。地縁・血縁を頼りにしたのは一般庶民もいっしょだが、彼らは地縁と一部重なる形で、「講」という“相互扶助組織”を築いていた。小学館の『日本大百科全書』によれば、「講」は目的に応じて大きく信仰的講、経済的講、職業的講の3種に分類される。職業的講は炭焼きや猟師などの山仕事に携わる人々の「山の神講」や、大工、左官などによる「太子講」などがあり、同業組合的性格を持つ。
3種のうち最も古い歴史を持つと考えられるのは経済的講で、その中でも頼母子講と呼ばれるものの始まりは鎌倉時代にまで遡る。鎌倉時代末期には年貢の銭納が合法化されているから、頼母子講は貨幣経済の浸透を受けて誕生したものと考えられる。
禁止令が出ても「隠密に続けさせて欲しい」と嘆願したわけ
頼母子講は無尽講、憑支講とも呼ばれ、『山川 日本史小辞典(改訂新版)』(山川出版社)では以下のように説明される。
〈中世に始まる金融方式。参加者は一つの講を結成し、毎回の会合で懸銭を出しあって、抽選または入札で参加者の1人に配当する。講の会合は定期的に開かれ、参加者全員に配当が行き渡るといちおう終了するが、講組織が永続化して講有田などの財産をもつ傾向もみられる。本来は村落などの相互扶助の目的で発達したもので、寺社の修造費用の調達にも利用されたが、やがて営利事業として行う事例が増加する〉
これだけを見れば健全な庶民金融としか思えないが、江戸時代には幕府や諸藩からたびたび禁止令が出されている。誰が選ばれるかを賭けの対象とする賭博的性格を問題視すると同時に、一揆の温床になる危険を警戒したようだが、頼母子が近代まで存続した事実からすれば、当事者たちがあの手この手で摘発を逃れていたことは間違いないようだ。近世史を専門とする横田冬彦(京都大学名誉教授)は著書『天下泰平 日本の歴史(16)』(講談社学術文庫)の中でその一例を示している。
時は万治元年(1658年)、仙台の伊達藩で次のような法令が発せられた。
「前々よりしていても、今後は頼母子をしてはいけない。そのために寄合をすることは、不要な出費でもあり、これからは堅く禁止する」
これに対して村人は連名で意見書を提出。禁止されれば何かと支障が生じるので、寄合の酒食はやめにするから、頼母子自体はこれまで通り、隠密に続けさせて欲しいと嘆願した上で、次のように書き添えた。
「もし御公儀様へ露見し、庄屋・肝煎が処罰される場合には、村中全員が出頭して、庄屋・肝煎に落ち度はないと弁明し、お詫びする」
ここにある「肝煎」は庄屋と同義で、名主とも呼ばれる。地域によって名称が異なるだけで、村や町の代表者である点に変わりはない。横田前傾書はこのやり取りを記した後で、頼母子の取り締まりとそれへの対応について、次のようにまとめている。
〈頼母子とは中世からある講形式の庶民金融のことで、小百姓の年貢納入も含めて、在地の経済活動の不可欠の一環として存在していたのである。そうした在地の実情や慣行を無視した領主法令は、形式上は請けられたものの、隠密にて行うというこの取り決めによって実質的に拒否された。というより、禁止の理由とされた講寄合での酒食は自粛されているから、法内容に対する自主的な取捨選択が行われたといえよう〉
つづき
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共済
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今の日本人には出来ない制度だな
揉め事か事件にしかならねえ
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