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戦国時代
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龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ2
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>>1乙
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島津の工作員
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そういや金敷峠で伊集院某ってのがいたって言うのは
島津は神代を援護してたの? -
山伏の阿含坊のことかな
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当時の脊振山は大規模な修験道場だったので方々から人が来てた
山岳信仰繋がりで脊振山は霧島とも関係が深いので阿含坊もその伝の人だと推察 -
坊主って狙撃主多いね
職業柄精神統一に長けていたのかね -
>>6
そういうことかなるほど?クス -
年代を考えれば分かるだろ
陣借りしただけやん -
少弐を小田と龍造寺で補佐しよう→少弐と小田が龍造寺を排除
少弐と龍造寺と千葉で有馬に備えよう→少弐が有馬と手を結んで龍造寺と千葉を攻撃
なぜ少弐は龍造寺を抱き込もうとしてことごとく失敗したのか -
家兼が大内と通じた為に資元が自害したという風聞を冬尚が信じたから
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四天王なのに五人いるの家ですよね
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だから龍造寺四天王は四人しかいないとあれほど
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>>11
龍造寺と千葉の勢力を乗っ取って自前の戦力が欲しかったんじゃないの
早い話が少弐冬尚も強権的な戦国大名化を志向していたと考えれば行動にも一貫性が見えてくる
少弐宗家ともあろう者が政資の時代から半世紀以上も根無し草で流れ公方な宿借りプー太郎状態じゃいかんと考えるのも自然 -
婚姻政策もせずに謀略でって直家もびっくりなバカだな
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東千葉当主千葉胤頼は冬尚の実弟
西千葉当主千葉胤連は少弍家重臣横岳氏の親族
千葉に関しては数世代前から仕込みは済んでるけど
龍造寺は基本的に他所の血をあまり入れないから閨閥に取り込む事が出来なかった
だから状況証拠で難癖つけてから強行手段に出たのだと思う
ただ冬尚とその周辺の計画が色々杜撰だったのは間違いないよ
千葉と龍造寺の逆襲を想定していないとしか考えられないような行動とってるから -
少弐家は戦闘では強いが、政略や外交は二流。
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近親相姦が大好きだったんだろう
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領地財産分与を防ぐ為の近親婚なんてそう珍しい事でもないでしょ
これも婚姻政略の手法の一つ -
龍造寺家兼の妻は片田江家定の娘
嫡男家純の妻は蒲原家秀の娘
娘たちの婚姻先
本告増景 神崎本告牟田城主
於保胤宗 佐嘉於保城主
空閑光家 佐嘉淵川城主
徳島盛秀 小城蘆刈陣ノ森城主
龍造寺盛家 東高木城主高木満兼ノ子 龍造寺胤家ノ養子
鹿江兼明 川副鹿江城主
領地近郊から固めていく方法 -
鹿江って龍造寺再興に尽力してたのに神代と姻戚関係になって隆信と敵対
最後は討死か -
鹿江は元々千葉家の重臣で動向を辿るとどうも東千葉よりの立場っぽいんだよね
同じく千葉重臣で川副郷司の石井や南里、後は -
途中で誤送信
後は神埼郡南端の仁戸田氏辺りは同族的一体感がある身の振り方をしてる
そこで鹿江だけ別行動なのはよくあるどっちが勝っても生き残る為の処世術だったと思う -
隆信に攻められた兼明は長男久明と二男元明と共に討死してるが、
三男重明だけは隆信へ加勢して後々まで活躍してるね。
可哀そうなのは長良へ嫁いだ娘だな。二人の子供は病死してるし。 -
仁戸田って千葉の庶流だね
直茂が千葉から鍋島へ復帰する時、千葉から同行した12名の家来の中に
仁戸田藤次兵衛って名がみえる -
龍造寺は日紋で千葉が月紋だから並べたら日月紋になる
龍造寺千葉で一蓮托生な状況になったのは運命的な物を感じる -
>>21
婚姻じゃないが養子縁組が結果的に失敗だった例が肥前戦国に多いね -
後藤家のことかな?
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後藤さんちは三代続けて養子で大変でなかなかおもしろいよね
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渋江公勢の長男・後藤純明
大村純前の庶子・後藤貴明
松浦隆信の次男・後藤惟明
龍造寺隆信の三男・後藤家信
なので実は三代続けてではなく四代続けて -
家信は惟明の養子じゃないから四人続けてではあるが四代ではないだろ
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惟明くんは養父倒すのに失敗して実家に戻ってるね
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後藤の養子と言えば龍造寺晴明はなんで龍造寺に養子に入れたんだろ
実子がいると支配がうまくいかないからかな -
元々人質やん、隆信が信長みたいに悪逆非道の人なら殺してるよね
北畠みたいにさ -
後藤父子の喧嘩は、当初互いの家臣同士の喧嘩が原因だが平井との絶縁も関係してるな
惟明の妻は平井経治の娘だしね
敗れた惟明は実家へ戻れず流浪してたのを、隆信が拾い龍造寺姓と知行50町を与えている
晴明は家信との養子交換だが実質人質だろね
のち長信の娘と婚姻して久保田に130町の知行を貰ってる -
惟明は実父の松浦隆信に唆された説も
貴明がよりにもよって龍造寺と和睦してしまった結果を見ると無理筋というか
もし本当なら道化もいいところ -
なんで平戸松浦は二字名にしたんだよ…隆信被ったやん…
隆って先にいたの? -
大内政弘ー平戸弘定
大内義興ー平戸興信
大内義隆ー平戸隆信
大友義鎮ー平戸鎮信
偏諱も信の字も平戸の方が先
龍造寺隆信も胤信から改称して本家継承する時に通字を入れて隆家とでもしておけばよかった
だがそうなると名乗りが山城守藤原隆家になり今度は先祖という事にしてある大宰権師藤原隆家と被る -
家信は後藤貴明の娘婿だから後藤家の血縁を保ったが
家種を養子に迎えた江上家は残念ながら途絶えてしまったね
確か家種の妻は大村純忠の娘だったと思う -
お福さんだったな確か
隆信によくしてもらってて戦死を聞いたとき悲しんだと聞く -
武士家業の存続が血統の維持より優先される事が多かっただけで
血統が絶えるというのは世襲にとっての大前提が崩れる一大事でしょ -
養子縁組なんかでも、とにかく家名を残すことも大事ではあったんじゃない?
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大名なら血統、家臣なら家名
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家種の養父武種の妻は龍造寺胤久の娘なんだけど実子はいなかったんだろか
澄種、晴種は庶子なのかな -
家種の家来と云えば執行種兼をはじめ豪者が揃ってたね
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隆信の資質を一番受け継いでいたのが家種だったね
嫡男を廃嫡して継がせるべきだったんだよな -
嫡男は特別な存在だっただろね。
弟、また妾の子は年長であっても嫡男の家臣的存在だろ -
龍造寺政家>江上家種>後藤家信
北肥戦史読んだ限りだと指揮系統の優先順位は厳格にこの並び
三人が一緒にいる時は政家の幕僚が指揮権を握り、政家隊が離れると家種幕僚に権限が移って家信隊を指揮下におく
家信幕僚が指揮権を得るのは家信が単独で出動して他国衆が家信隊の隷下に入る場合
それで政家の幕僚トップは鍋島信生、家種の所は執行種兼、家信には成松信吉がついている -
>家信には成松信吉がついている
成松信吉と云えば、成松信勝の庶子で、祖父は馬場の罠にはまり杵島志久峠で
討死した龍造寺胤栄の弟胤明だよね。 -
なかなかにマニアックだな
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そういや以前にも成松は龍造寺の一族って話題出てたな
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信勝には庶腹の弟がいたと云うことは、信勝自身は胤明の正妻の子だったんだろね。
姉は龍造寺の武将西村信勢の妻。
沖田畷合戦で信勝と嫡男信実が討死した為、跡目は二男の信宗。
娘は隆信の重臣勝屋勝一軒の息子に嫁いでいるね。 -
剛の者揃い
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龍造寺の大元である高木党は分流の菊池氏族系も含めるなら
間違いなく鎮西最大の氏族集団だが当の高木氏が藤原氏を仮冒していたので
実態の把握がきわめて困難 -
>娘は隆信の重臣勝屋勝一軒の息子に嫁いでいるね。
この勝屋夫妻は、勝茂の長女市姫(伝高院)が上杉家三代藩主定勝へ輿入れ時に
付添人として江戸へ同行
12年後市姫が亡くなった時、夫妻は上杉藩邸で追腹してる -
勝屋勝一軒や広橋一遊軒は浪人からの取り立て?
隆信が個人的に気に入って雇ったっぽい -
今話題の龍造寺隆信の子孫がお話したってやつ
家信の息子が福岡に逃亡して姓を変えて・・・ってのなんか信用できない -
佐賀新聞の記事読んで既視感あったけどあれだ
杉山茂丸の著作で似た話があった、龍造寺龍丸が云々というやつ -
>>64
勝屋勝一軒は元々大内義隆の家臣だったと云われているが、
大寧寺の変で肥前へ逃れて来たのかも
広橋一遊軒の本名は確か田中信了(のぶのり?)と云って譜代の武将だよね
領地名をとって広橋と改称したのかな 古橋とも云うらしいが -
MARUSHIMA Kazuhiro @kurmacf
これは別件の調査。鍋島直茂(息子かも、記憶曖昧)のもとに母親に仕える女房から嘆願書。
「お母上のワガママにはもう耐えきれません。お暇をいただきたく存じます」
返事「ご苦労をおかけします。ただ、母もかなりの年です。あともう少しのことですから、我慢してください」
本音ぶっちゃけ。 -
鍋島の女って、みんな性格が悪いんじゃない
美智子さんが結婚された時、当時皇居の女中をしてた鍋島の女が
嫌味ぽくしてた事は有名だよね。 -
百武とかネーミングセンスには信長のそれに通じるものがあると思う
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狂歌好きだったとか聞くな
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神代勝利の本姓名乗りは武辺勝利(もののべのかつとし)なんだけど
これもその場の勢いでやっちまった感がある
というか勝利は親父浪人で本人剣術家から城主に成り上がったクレイジーな人物なのに今一この部分認知されていない -
百武姓は軒並み百式と呼ばれてたなあ
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百武とか十右衛門とか賞賛してるあたり
仁王門とか四天王とか両弾二島のネーミングも隆信だったりするんだろうか -
百武の氏姓を作ったり新九郎さんを十右衛門さんに昇格?させたりしたのは隆信の言語感覚だろうけど
両弾二島は藤津郡攻略後の城主の配置状況から隆信の側近辺りからそういう言い回しが出たんだと思う
仁王や四天王は後世視点からの俗称 -
沖田畷で「我こそは龍造寺山城守隆信なり!!」と、
名乗りを上げ討死した四天王の一人円城寺信胤。
円城寺氏は千葉氏の庶流で平姓と云われてるが、
信胤の子孫は藤原(鎌足)姓を名乗ってるね。 -
小城あたりに多いね
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確か江里口信常も小城の出
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この前Googleマップ見てたらそのまんま江里口って地名があったな
山の方 -
それなりに著名人出したところで言ったら江藤氏や原口氏も円城寺や江里口と同様にもとは小城の千葉一族よ
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千葉氏は松尾にあるお寺だったっけな
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千葉氏の名だたる武将は殆ど隆信の直参になったようだね
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千葉党が徐々に隆信の直卒へ組み込まれていく過程は龍造寺の戦国大名化を考える上で外せない点
手明槍も制度が整ったのは勝茂の頃だが、隆信と直接主従関係を持った無役の若者がその原型だろう -
来週の軍師官兵衛で龍造寺政家が登場
大河で龍造寺家が取り扱われるのは初めてか? -
たぶん島津から龍造寺を離反させたのは官兵衛の手柄という話になるかな
黒田家の史料に龍造寺と一緒に原田を秀吉に取り次いだ事が載ってるから
エピソード拾うにしても碁打った後にすっ転んで同情されたダメ当主ぶり発揮するのしか浮かばない -
その出典はどこだよw
政家が肥満だったというソースなんてどこにもねえぞ -
政家の逸話って何かあるの?
出典が示せない捏造話以外で -
龍造寺鎮賢肥後国へ出馬の事
天正八年3月下旬、龍造寺鎮賢、柳川の城を囲まれながら肥後国の随わざる輩を征伐すべしと諸軍と談合さる。
然る間、鍋島信生衆議を加えて参陣の期限は4月9日たるべしと決定あり。
此時、信生へ田尻鑑種より音通しけるに、信生の状にいわく、
如仰近日無音心外候。幾日不通候共御同前所仰候。仍鎧一領被懸御意候。御丁寧之至畏入候。
然者参陣儀、従来月九[日]可為出張候。此節別而御馳走可目出度之由被申候。
随而下小河之儀度々預御口能候條、至鎮賢申聞候為處、分別被申候。聢可有御知行之由候。尤珍重猶重々可得御意候。恐惶謹言。
追而鯛二掛被懸御意候。種々御懇志候。將又北之関竹之江あたり勢道可被作之肝要に候。
二月廿七日 鍋飛守 信昌 判
鑑種 方 御返給へ
鍋島信昌實名、此の時迄は信昌なり、天正十年に、鎮賢、政家と号せられし故、昌の字を替えて信生と改む。 -
のぶまさがまさいえとの兼ね合いで名を変えるというのは分かる
政家の改名は偏諱ではない事に意味があるんじゃないの
君主権の確立というか独立勢力である事を内外に示す意味での改名 -
黒田長政に決まってるじゃん
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なんで
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大河で長政が兄貴分になるっていうエピが入るだろうな
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勝茂は長政のこと尊敬していたっぽいし長政もよく勝茂のことを世話していた
忠之が出現するまでは両藩良い関係だったのにね -
黒田忠之はエピソードだけでなく肖像画からして基地外っぽいもんな
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唐津藩の古川康はほんと佐賀藩に恨みがあるんだろうな
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おいおいネット監視されるぞ
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政家君の娘婿で小倉城主の彼に大河での出番はあるのか
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毛利とは関係ない毛利だな
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