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戦国時代
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佐竹氏を語るスレ 5
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保守おわり!
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佐竹氏の専門書なら以下がおすすめ!
『戦国期権力佐竹氏の研究』 2011年 思文閣出版
『佐竹一族の中世』 2017年 高志書院
『常陸佐竹氏』 2021年 戎光祥出版
『戦国佐竹氏研究の最前線』 2021年 山川出版社 -
佐竹家含め北関東からみた北条家上杉家との関係は面白いね
だんだんと上杉家への疑念が高まって、ついに越相同盟で北関東の大名・国衆たちは自活せざるを得なくなる
北条・上杉という外圧で北関東の政局は一気に動くんだよね -
北のミサイル発射で「手のひら返し」秋田の“お殿様” 佐竹知事にネットで批判噴出
https://sakisiru.jp/24017 -
ひどい記事だなw
SNSの投稿をそのまま引用して終わりとかゴシップ以下じゃないか
キュレーションサイトの質とかこんなもんか -
大河にちょっと出てきたね
討伐受ける側だけど -
佐竹って人気が高い後北条や伊達から見て悪役になっちゃうから地味なんだよね
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まだ「ゲーム脳」とかいう似非科学を信じている奴がいるのか
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佐竹氏の史料を読んでみたくて探してるんだけど
戦国遺文もないし茨城県史料しか見れてないんだけど、ここに載ってないのもある? -
https://da.apl.pref....0010005/ref-C-123352
https://da.apl.pref....0010005/ref-C-123353
秋田県公文書館の秋田藩家蔵文書とかかなぁ…
古文書読める人ならいけるかも、俺はさっぱりだ -
やっぱりほとんどは翻刻されてないのかあ
>>21の本も見てみたけど史料は全部原文書から引っ張ってて史料集ないのか?と思ったけど
茨城県史料とか秋田県史みたら結構載ってはいたけど、漏れてるのも多いっぽい -
北条って佐竹が会津や下野遠征しても本国つかないよな
沼尻の合戦で下野で北条と佐竹宇都宮が対陣したけど佐竹の2倍は国力あって千葉里見従属してたんだから2万ぐらい別働隊作って佐竹本国つけばよかったのに -
https://i.imgur.com/nGRLkrH.png
ドでかい霞ヶ浦があるせいで房総方面からの侵攻は難しそう
西岸も東方之衆が固めてるし、佐竹本国ってやっぱり対北条では後方地帯って感じがする -
地図見てると北条が上野下野に執着した理由がよく分かるなぁ
常陸方面の地形こんなに厄介だったのか
そりゃ後回しになるよね -
北条は
「関八州の王者」
と呼ばれることもあったらしいが。
常陸は支配していないような。代わりに伊豆は支配していたが。 -
毛利や上杉については関ヶ原後を描いた作品はあるが、佐竹についてはどうでしょうか?
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岩明均『雪の峠』
メインテーマは藩主居城の建設場所を巡る新参能吏渋江内膳と古参重臣との意見対立だが、
裏テーマは藩主佐竹義宣による古参重臣の粛清劇(いわゆる川井事件) -
>>23
そもそも戦国時代までは利根川が東京湾に注いでたから北関東と南関東ではなく、東関東と西関東だったんだよ
足利成氏が古河に本拠を置いたのも東関東の八屋形を味方にしたかったから。
上杉の勢力範囲は西関東までだからな
後北条と里見が国府台で激突したのは必然だった -
>>34
佐竹と小田原北条は領地が接していないから佐竹の領地を攻めるのは無理
常陸だけ見ても江戸、大掾、小田、多賀谷、真壁、岡見、土岐、笠間など中小勢力が間にひしめいていて
その外側にも結城や佐野などの大名がいる
だから佐竹と北条が直接対決した事は一度もない
あくまで救援要請に応じて後詰めに出ていただけで佐竹自身の戦いは南陸奥進出に終始していたんだよな
北条が有名だから関東で戦いばかり取り上げられるけど
実際は南奥の特に赤館周辺を巡る戦いが戦国時代の佐竹の最大の戦場であり
一門も大勢戦死するほどの激戦が幾度も繰り広げられて義重も危うい場面に遭遇するなど北条との戦い以上に大変だった -
北条も天正壬午の乱で佐竹が動くの報告受けて当主直に4万も動員しときながら甲信譲る大譲歩でいいからと織田政権に仲介してもらい和睦してさっさと切り上げて撤退
天正壬午の乱で敗北した北条の名声は落ち北条についていた上野、下野国衆が佐竹に裏切り佐竹、宇都宮、裏切り勢力で3万の軍勢に膨らむ
佐竹も北条もどっかに遠征すると背後で動き出され本国つかれたら一大事と引き返すシーソーゲーム状態だったんだよ -
佐竹も北条も複数の敵がいるからなあ。
北条としては佐竹を滅ぼすことができたとしても
自分たちもかなりの打撃を受けるから
別の敵に攻め込まれたらどうしようもないってのはあるなあ。 -
>>43
そりゃ反北条や中立の勢力が北条に攻められて呑み込まれたら直接領地が接してしまうから見殺しになんて出来る訳ない
だから領地が増える訳でもない北条との戦いに何十年も参加していたんだよ
常陸、下総、下野の勢力が北条に攻められたら後詰めに出て、北条が動いていない間は南陸奥に進出して領土拡張を図り
北条が動いたらまた後詰めに出てと南北への出兵を毎年のように繰り返していた
十数万石の国力でよくあれだけの遠征を繰り返せたものだと感心するよ -
人取橋の戦いで江戸・里見が攻めてくるから撤退したってのは江戸初期に作られた俗説っぽいね
従属後の江戸氏は佐竹氏の忠実な味方であり続けたし、里見とはそもそも地続きじゃない
>戦国の<大敗>古戦場を歩く:なぜ、そこは戦場になったのか
この本によると伊達勢を阿武隈川東岸に追いやって、二本松との連絡を確保できた
連合軍謎の撤退というのはあくまで伊達視点で、佐竹的には西岸確保できたしひとまずの目標達成で撤退ってことらしい
引っ越しで本仕舞っちゃって見れないけど確かこんな考察がされてたよ -
それに佐竹勢は総大将が死ぬという事故が起きたから継戦など出来る訳もなく撤退する事になった
葦名勢は追撃を主張したけど佐竹勢が徹底してしまったから自分達だけで追撃するのも不安だからやはり撤退しようという事になり割とぐだぐだな感じで終わった
伊達にとってはかなり幸運だったけど -
出た
論破されるとそれ江戸時代の創作らしいよw
あれだけ伊達不利だったのに意味もなく撤退したのなら佐竹義重は相当な無能になりますな -
伊達サイドが
「江戸氏に謀反の兆し」
とかそういう虚報を流したのかもしれないな。 -
里見(というか正木)も香取のあたりに長年にわたって侵入して支配してたときもあるからなあ
そんな噂が広まることもあるかもね -
伊達は葦名方が何で撤退したのか分からず困惑しているからそれは無い
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まぁでも佐竹に詳しくない人間の認識なんてこんなもんだよな
伊達氏の論文集で郷土史家が「人取橋の戦いでは連合軍が謎の撤退を遂げ…」とか書いてて、それを調べるのがお前の仕事だろ!ってツッコんだけどw -
それはまだマシな方
十数年に出版されて読んだ本なんて、政宗が放ったくノ一が小野崎義昌の酒に毒を盛って殺害し撤退に追い込んだとか書いてあったw
もちろんソースは一切なし(あるわけない)
小説本じゃなくて郷土史研究本として出版されたものだよ
妄想小説をさも見てきたかのように書いて恥ずかしげもなく出版までしているのだから本当に呆れたわ
那須氏についての本でも佐竹は54万石もあったのに僅か8万石の那須から正室を貰うなんて無能だという風に書いてあった
佐竹が54万石になったのは豊臣時代であって婚姻したのはその20年も前であるのに、その程度の知識で本を出版してしまう神経にも呆れた
佐竹に限った事ではなく全国的にこういう事が行われているんだよな
贔屓の大名を持ち上げて敵対大名を貶めるという5chレベルの事を大学教授でさえやっている人が多い -
持病の仮病が悪化して
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一次文献ですら工作されているわけでタイムマシンでもないと真実は知れない
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多方面から検証する事でかなり真実に近寄る
自国、敵国、第三者の記載で状況に不自然さがなければそれはもう真実と言っていいだろう -
たしかに多くの文献を読むことは大事だな
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常陸大宮市で「佐竹一族と中世の常陸大宮」展やってたけど話題無いからここでは行った人居ないのか?
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>文書館・歴史民俗資料館連携企画展『佐竹一族と中世の常陸大宮』
>令和5年6月10日(土曜日)から7月9日(日曜日)まで
なんてことだ、知らなかった
明日までか… -
>>62
レス速えw小場義躬の肖像画とか義宣の書状とか秋田から来てるので近くで見に行けるなら見に行ってみるのもいいかも。 -
>>61
常陸大宮市って積極的に佐竹氏関連のイベントやっているんだよな
この前も部垂の乱の講演会をやっていたし年に何回かそういうものをやっている
城跡案内のイベントもやっているし
茨城に住んでいる歴史好きの伯母さんがいつも参加していて色々と話てくれるわ -
今日展示最終日なので見納めに行ってきた。
自分以外にもパラパラと観に来てた人が居たなあ。
>>64
今回の展示は常陸大宮市は市史編さん事業の一環らしいね、常陸大宮市は市文書館とか整備してて色々やる気を感じる。
常陸太田市は佐竹の本拠地なんだからもっと積極的に佐竹関係の展示とかのイベントやって欲しいなあ。 -
REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 -
秀吉のご機嫌取りに成功して常陸を平定
→家康に睨まれ難癖付けられ転封
早い話こんな感じでしょうか -
既出かもだが
美濃佐竹氏も面白いよな
鎌倉時代初期に承久の乱の
恩賞で美濃山口郷と上有知郷を
もらい、一族が赴任
室町幕府奉行衆になっていく -
美濃佐竹氏か
数百年ぶりに常陸に帰還するも反乱を企てて死罪になるという何とも数奇な運命を辿っているな -
秋田だけではなくて高知の須崎にも
町会議員かなんかになって活動してる
土佐佐竹氏の子孫がいるな
土佐佐竹氏は一条氏に属してたようだが -
相変わらず秋田の知事は熊のことで騒がれるな
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土佐佐竹氏は佐竹宗家との繋がりが分かっていないんだよな
面白そうな家だけど研究している人がいなそうだ -
土佐佐竹氏も承久の乱後の
新補地頭という説を見かけたけど
それで確実かは分からないんだね -
現状では義光流佐竹氏との繋がりを示す史料がないため仮冒ではないかと言われており何だか分からない
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無能議員がまーたやらかしたな
さっさと御家断絶してくれやマジで -
無能議員がまーたやらかしたな
さっさと御家断絶してくれやマジで -
じゃこ天は「貧乏くさい」と発言 秋田県知事が「不見識な発言だった」と陳謝
秋田県の佐竹知事は臨時の記者会見を開き、23日に行った自らの講演で、四国地方の酒と料理を挙げて
「うまくない」「貧乏くさい」などとけなす発言したことについて「不穏当で不見識な発言だった」と陳謝しました。
https://news.yahoo.c...e9c8750ce4faf5b7198c -
「じゃこ天をきりたんぽに」愛媛知事が秋田県に“提案”…「貧乏くさい」発言で
きょう愛媛県の中村知事が松山市内で開かれた会合に出席し、「じゃこ天が全国で話題になっている」と触れて、次のように挨拶した。
「揚げたてのじゃこ天は格別でありますし、普段は炭火で両面に焦げ目をつけて焼き、ねぎをのせてショウガ醤油。これが一番の食べ方であります」
また中村知事は、秋田県に「1つ提案したい」として、「秋田県のきりたんぽ鍋に入れるともっと美味しいのかなと思います」と笑顔で語っていた。
https://news.yahoo.c...e5118b853e7c0a57e674 -
佐竹は伊達との蘆名養子戦に勝ったのに、政宗に東北から追い出されたからなぁ。秀吉の北条征伐無ければ佐竹は北条と伊達から挟撃されて危うかったと思うね。
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いや、知っての通り伊達は蘆名・佐竹側に押されていて危うかった
だが佐竹は早くから豊臣と連絡を取り合っていたから近々関東仕置があるので戦は控えるように通知があったために積極的に動かなくなった
伊達はそういった中央の動きに疎かったので佐竹が動かないのをいい事に周囲を攻めまくった
あとは知っての通り秀吉の怒りを勝って本領を失う事になる
だから伊達が一瞬でも勢力を拡大できたのはむしろ豊臣の北条征伐(関東仕置)があったからなんだよね
佐竹が惣無事令に従っていなかったら勢力拡大なんてとてもじゃないけど無理だった -
>>83
惣無事令って秀吉方が攻められても無視しなきゃいけなかったの? -
分家のくせにw
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信長だったら許されなかったけど秀吉は基本的に潰すより手懐ける方針だからな
長宗我部も島津もあれだけやりあっても本領安堵された
特に九州仕置を始めるあたりから唐入りを決意していたので国内はさっさと片付けたいという考えだった
だから関東東北などは僅か数日で仕置を終わらせて帰ってしまった
まあ、その点北条の嫌われぶりは異常だったな
北条のやり口の汚さにさすがの秀吉もブチ切れて北条を潰して首を晒すまでやっているし -
小説佐竹義宣によると、家康からの条件は常陸、下総、上総、安房、下野五カ国100万石の内容だったが、無高で仙北郡15万石相当で、「100万石を捨てて15万石を取った、佐竹殿は名物大名と呼ばれるであろう」と感嘆とも皮肉ともつかぬ言葉を榊原康政から言われていた
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無高ってとんでもないサービスだったのでは
うちは無高なのでー、と言って参覲交代を10人くらいで行ったり
天下普請でもうちは無高なのでー、と3人くらいで掃除でもしていてもおkじゃん -
関ヶ原の後、上杉島津毛利としっかり潰した後適当に左遷されるという割と酷い扱いされた
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佐竹の場合は単純に目障りだから出てけって話だからな
佐竹にとっては家康の関東移封は最大の不運だった -
もし今、佐竹氏が茨城県にいたら、知事がじゃこ天、ディスってんだろうかな
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>>33
永禄11年(1568)12月下旬に佐竹義重は上杉輝虎(謙信)に「武田氏と北条氏が手切れとなったから今から関東進攻をしてくれ」と書状を出してる。
この時輝虎(謙信)は武田信玄と通じ謀反を起こした家臣の本庄繁長の居城・村上城を包囲してる状況。そんな状況で越後国北部から関東地
方まで出掛けるのは無理な話でましてや雪の降る時期に出兵するなど無理。
天正2年(1574)秋に下総関宿城主の簗田晴助から上杉謙信に対して救援要請があり謙信は佐竹義重と挟撃を提案するも佐竹家中が纏まらないという事で計画中止。簗田晴助は北条氏政に降伏する事となった。
越相同盟で上杉北条両氏が同盟を組んだから佐竹里見両氏が不信感を感じるのはわからなくないが、元亀3年(1572)8月に佐竹義重の客将の太田資正妹に手紙を出して謙信は反北条勢力国衆との関係改善をしようとしてる努力を無下にする佐竹里見両氏もどうかなと思う。
里見氏は結局天正5年(1577)に北条氏に従属したからね。 -
越相同盟を組んだ時点で関東衆とは完全に手切れでしょ
ありえない裏切りだし
謙信が反北条の旗頭となるから関東衆は上杉に協力して多くの血を流してきたのに
それが北条と同盟を結ぶとか頭がおかしくなったのかと疑うレベル
しかも関東衆の象徴的存在である関東公方も皆が正当な後継者としていた藤氏を否定して
北条の血をひく義氏を立てるとか一番やってはいけない事までやってしまった
今で例えるならアメリカがいきなりロシアと同盟を結んでウクライナの大統領はプーチンの娘婿にしましょうとか言い出したようなものである
さぞ皆唖然としただろう -
謙信は味方を助けないしな
自分の都合でしか動かないからあれでは信用されない
佐竹は割り切ってつき合おうとしていたみたいだけど他の大名は不信感が強くて北条についた方がマシというところまで行ってしまった -
助けに来ないといっても雪深い越後国から上杉氏のみでくる事がどう考えても無理があった。謙信の敵は後北条氏だけじゃないし。
後北条氏以上に東関東の反北条勢力に振り回された感もあるな。謙信が本当に目を向けたいのは北陸から畿内だからね。
越相同盟で古河公方を足利義氏、関東管領を上杉謙信で体制を再編して室町幕府の体制を守り関東地方の監視役という役目を果たしたかったという思惑もあったと考える。 -
>>96
上杉謙信が後北条氏の同盟を受け入れる前の永禄9年(1566)5月9日の願文にて「北条氏とは和睦したいと考えているが、武田氏とは戦う」という事を表明している。
将軍・足利義輝は生前時から上杉・北条・武田氏の和睦をして謙信の上洛を望んでた。義輝の弟・足利義昭(義秋)も引き続き謙信に御内書でそれを要請している。
将軍足利義輝と義昭の意向は後北条氏と関東地方の反北条勢力国衆が纏まるのを望んでいたと考えててたと思われる。永禄5年(1562)3月に古河公方・足利藤氏が古河城を後北条氏に逐われて行方がわからなくなり足利義氏しかいない状況では関東管領である上杉謙信は後北条氏との同盟を受け入れた上で、後北条氏と反北条勢力とが纏まるのを構想してたと思われる。 -
謙信は関東管領の肩書を手に入れれば上野あたりの山内領を手に入れてられて関東衆も私兵化できると思って安易に目先の欲で飛びついたんだろう
関東の情勢を全く理解していなかったからめちゃくちゃやってあっと言う間にみんなにそっぽを向かれ相手にされなくなってしまった
謙信も思い通りにいかなくて途中で放り出してしまったのは情けない
関東に何の地盤もない状態から上手く関東衆を操りだし抜き取り込みながら成長し関東を制してしまった北条とは対照的
北条の方が何枚も上手だったと言わざるを得ない
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