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戦国時代
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三好長慶と一族が長生きしていたら?
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信長の前に中央に政権を築いた三好長慶。
しかし十河一存、三好実休、三好義興、安宅冬康と兄弟・子息を立て続けに失い、自分も病死して政権は崩壊同然になった。
もし、長慶と兄弟子息が生きていたなら、信長は畿内に進出できたのであろうか。 - コメントを投稿する
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メンヘラが遺伝してろくなことにならん
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信長の台頭も無いだろう
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松永兄弟と三好一族で内部闘争
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難敵は朝倉義景だろうけど
加賀門徒と越前を挟撃したかも
対毛利は大友・河野・赤松で包囲して
山名・別所・内藤で赤井を封じ込めて
その先は羽柴秀吉のような天下一統のビジョンがあるかだけ -
>>5
朝倉がそんなに問題になるかな? -
六角の方が問題じゃない?
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そもそも三好が先に東に進むの前提なのがおかしい教興寺の戦いの後も攻めなかったのに
三好は立地上瀬戸内海周辺の勢力と戦うほうが先 -
>>6
若狭を巡って内藤宗勝と合戦したけど
本願寺の仲介で和睦するかもね
河野は史実で三好と結んでいたし土佐は元々細川領国なので畿内で三好の覇権が確定すれば
四国全土も早々に三好になびきそう
毛利は貧乏なので富裕な三好と敵対できるとは思えない -
長慶が阿波公方を上洛させることはまあ無いだろうから長く続いた上洛合戦はこれで打ち止め
諸悪の根源だった管領も三好が力で押さつけて中央の政治腐敗は改善
あとは義輝が全国津々浦々で調停して平和に
はい戦国時代終了、室町幕府は千年続きましたとさ -
信長も三好と戦う理由ないし室町幕府の連立政権で終わりだな
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鎌倉幕府の得宗みたいに、三好専制か。意外と安定しそう
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天野氏が四国の実休と長慶との間でなぜ四国衆より畿内衆を重用するのか的な問題はすでに発生していたと確か本に書かれてた記憶がある
当人たちはもめごとが激化する前に亡くなってるけど生きててもやはり細川京兆家と同じ宿痾を抱えたかも -
元々阿波公方を担ぐ勢と義輝派で別れちゃってたのがね、堺公方の時も畿内と四国の武士で揉めてるし。
松永久秀は可哀想、篠原とか三人衆は長慶亡くなって爆発しちゃったんだろうなぁ。義継が松永の元へ行くのも当然だわ。 -
ちょうけい
ながよし
どっち? -
どっちも読める
困ったら音読みしとけば有職読みって言い張れる -
手紙やらに名前が漢字で書いてあっても、ふりがながふってる訳では無いから
読む人によって読み方が違ってたんだっけか -
おそらく正式にはナガヨシなんだが、
あまり正式な読み方は他人に知られるとまずいという考え方があって音読みにしたりするらしい
例えば徳川最後の将軍慶喜は、自らも他人にもヨシノブとはめったに呼ばせず、自分のことはケイキと言っていたとか -
木戸孝允はみんな学者はコウインて呼ぶけどタカヨシ正しかったりするしな
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足利義輝と協調できるかどうかによるんじゃないか? 義輝は諸大名、長尾上杉や織田などと関係作っていたし。三好長慶が義輝との協調に失敗したら一波乱はあると思う。
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三好長逸と三好宗渭って最後はどうなったの?
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最近ツイッターで見てビックリしたんだが三好長慶の正確な没年月日って分かってないらしいな
2年の幅があって、とすると足利義輝暗殺に関わってた可能性も決してなくはないんだと -
あまりに完璧に長慶の喪が隠されてたせいですね
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>>23
3回忌の直前までその死を伏せられてただけで、没年月日は判明してるよ -
あれだけ優秀な兄弟・一族がいたのに、徳川政権時代には旗本としてしか残れなかった
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いろいろな原因があるが本領の阿波を人任せにしたのは原因の一つだね
阿波の兵力は三好家の力の源泉だったのにな -
阿波の形式上の国主は細川持隆・細川真之だった
だから真之の三好長治に対する「反乱」は成功した
三好氏に好意的だった持隆をうまく傀儡として利用できていれば・・・ -
結局のところ阿波公方派をどうにかしないことには何も始まらない
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周防に逃げた義維連れ戻したの冬康だよな
長慶存命中から勝手に動いてただろアイツら -
三好長慶は智謀勇才を兼て天下を制すべき器なり、
豊前入道実休は国家を謀るべき謀将なり、
十河左衛門督一存は大敵を挫くべき勇将なり、
安宅摂津守冬康は国家を懐くべき仁将なり
『南海治乱記』より -
なんかかっこいいな
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言うても三好成り上がりやし求心力のためにも阿波でも権威のある人必要やろ
長慶以外は全部勝手して足引っ張ってるって見方どうよそれ -
細川、足利の権威を利用して成り上がってるから難しいけど尾張の織田家のように斯波氏の権威を無力化するような動きが必要だったね
そういう意味では時代を変えるほどの人物ではなかったのかな -
というか三好は不幸続きすぎだろ。
1561 十河一存
1562 三好実休
1563 三好義興、細川晴元、細川氏綱
1564 安宅冬康、長慶
政権に必要な奴らがこうも連続して死ぬとか異常すぎる。松永久秀説は最近否定されてるが、誰かが何かやってたのか、と疑いたくなる。 -
前科のある義輝は何故か全く疑われず
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お前ら死ぬの早すぎ!!
三好元長(31)
三好長慶(42)
三好義興(21)
三好実休(35)
三好長治(24)
十河存保(33)
安宅神五郎(?)
安宅冬康(36)
安宅信康(28)
安宅清康(?)
十河一存(29)
三好義継(24)
十河存之(30代後半?)
松浦信輝(20代?)
野口冬長(20代前半?) -
織田家で例えたら
信忠、柴田、丹羽、羽柴が死んで明智光秀が生き残った感じか -
>>38
タイムマシンがあったら、会ってみたいのう -
篠原長房は死んだとき何歳だったんだろうな
殺されちゃったけど -
H2インタラクティブを経営していた
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平太という子孫が生まれて中二病になった
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平家みたいになってたよ
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三好長慶に全国を統一する気持ちがあったとは思えない。
畿内の拡大も西側だけでやめてるし。
信長とはやはり違うと思う。そもそも三好政権とみなしてよいのかな? -
信長も自分がもめた相手を順繰りにどついてたら規模が全国的になった&義昭ともめて結果追放することになったせいで自分が天下牛耳る必要に終われただけで、はなから全国を統一する気があったかというとそうじゃないし
いわゆる全国統一目指す大名とかいないとみなしていいよ、要職になりすぎていつの間にか自分が天下治める事になってるって状況ばっかり
朝廷への影響力なり考えたら元号や他大名へ官職を与える事にまで口出ししてるわけで、充分中央政権だと思うが
義昭かかえて上洛した直後から義昭追放するまで信長は中央政権じゃないのかって言われると、多分ノーだし -
全国政権だと言っているわけじゃないのだから何の問題もないだろう
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長慶があと数年存命なら畠山と通婚するか重臣を送り込んで実質支配下に置いてた可能性が高そうだ
三好政権の武将は大軍や混成軍のの運用には慣れてるから案外早くに天下統一までいった可能性もないとは言えない -
長慶よりも義興が長生きしてたらなあ
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重臣死にすぎだ
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義輝追放して改元してる時点でもう天下人だよね
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江戸時代までは本朝百将伝や英雄百人一首にも選ばれるくらい知名度があったのにな
オランダだかの日本史の統治者の変遷にも、内裏(天皇)、室町公方の次に、三好殿、信長、羽柴太閤様、内府様と書かれてるくらいだし、少なくとも当時の日本においては天下人として認められていたってことだよな -
朝廷が足利義輝と幕府頼りねえと思って三好長慶頼ってたくらいだから天下人であったことは間違いない
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三好が天下人?
六角程度の兵力しかないじゃん。
同時期の上杉輝虎、北条、毛利、大友の方が巨大勢力だろ
西機内勢力にしてもとくになんもなかった
信長みたいに朝廷、将軍使って何かしたわけでもない
むしろ傀儡将軍立てたけど各地の大名は認めず
義輝に使えてた武田信虎でさえ味方につかず去っていった -
大友の官位を上げて毛利牽制に使ってたはずよ三好
ましてや変えた元号をみんな使ってるし -
動員兵力は三人衆+松永と上杉北条毛利大友でいい勝負だろ
地方と違って畿内は万の軍勢はすぐ集まる -
3万程度の織田軍に蹴散らされた三好が
毛利大友北条以上は無いわ
検索してみたらやっぱり少なかった。
三好は数千程度が多く、集めてもせいぜい2万ほど
畠山の軍勢たして4万とかあるが -
内紛起こしてからの三好との比較かいな
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ちょこっと思い返しても教興寺の戦いとかでがっつり兵率いてると思うが
まぁ、四国と畿内で領国が分かれるしあっちついたりこっちついたりが畿内衆は特に多いんで正確な兵数測りにくいってのはあるだろうが
なんか本郷あたりが兵数少なかったって本出してた気がするけど、それを真に受けてしまったんだろうか -
教興寺の戦い 三好6万?
さすが誰でも書けるWikipedia
内訳もあるけどひでーなこれ
これ信じてるやつって龍造寺の沖田畷6万、河越野戦8万、上杉の小田原征伐10万をころっと信じるアホでしょ -
こういう兵数ってのは相手側の記録もないと信憑性無い
一次史料だなんだ言われてる信長公記だと長篠1ヶ月前に10万騎集まって感動しただの
桶狭間のおかしすぎる兵数、
上野ほとんど領有してないころの北条対武田では北条軍6万など書いてしまってるが武田の軍艦では4万。
軍艦のほうが正解に近いだろう。
桶狭間も信長公記では今川軍4万5000
軍艦では2万。これも軍艦の方が正解に近いだろう。
こういう兵数ってのは対戦相手の記録か第三勢力の記録もないと実数がわからない
では三好は250万石近くあったのかというとそんなにない。
6万ってどっから沸いたんだ
三好の場合だと四国にも兵は残さなければならず全軍を畿内に向けるなど不可能 -
言継卿記なり多聞院日記なりでも畠山抜きの畿内勢のみで2万程度
全軍とまでは言わないが四国勢からさらに2万程度はちょくちょく上陸させてる様子は描かれてるな
教興寺の記述はヴィレラ書簡で盛られてるだろってのはその通りだけどやはり1万単位で兵動かしてる
やはりそこらの大名に兵数で負けてるって認識はしづらいな -
教興寺の戦い Wikiペディア
三好方 60000余
摂津35万石 国人衆:25000余(多すぎる。10000が妥当)
丹波26万石 国人衆:7000余(多すぎる。5000が妥当)
山城22万石 国人衆:300余
播磨:500余 播磨の東南1/20程度領有してるだけなのでこんなもん
淡路:200余
讃岐12万石 国人衆:7000余(多すぎる。2200が妥当)
阿波18万石 国人衆:5000余(多すぎる。3000が妥当)
譜代・旗本:5000余 ???
一門衆:10000余 ???
摂津:25000
丹波:7000
讃岐:7000
阿波:5000
からすでに動員してるのに譜代、旗本、一門衆 15000どっから湧いて出た
2重に計上してんじゃん
朝日新聞みたいな印象操作するの好きだね三好ファンって。
しかも上のこれ守備兵割いてない全力出撃の兵数。実際はもっと減る
もぬけの殻で出陣なんてあり得ない
こんな計算でいいなら武田軍120万石は4万で西上作戦してるわ
永禄5年(1562年)5月14日 三好義興、松永久秀、三好康長、三好政康、三好長逸、安宅冬康、十河存保の軍勢が飯盛山城救援に出撃。
「「「「号して5万」」」」ともいう大軍であったという。
ああ、よくある自称ね
ってか太閤検地でさえ120万石に余裕で届きませんねぇ
1562年なんて太閤検地の頃より石高は低いはずでもっと下がる。
石高+金収入とかいいそうだけどそれ出していいなら織田なんて桶狭間の時点で2万動員したりとんでもない兵数になり
毛利、大友なんて8万動員しちゃうわ
1578年宇喜多も味方で中国地方の大半の国人衆が毛利に味方してた時でさえ毛利は6万さえいったこと無く3万程度だ
1562年の三好が6万も動員できるわけねーだろ -
人の話読めよちょっとは、読めないならそもそも他人を煽るなよ
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というわけで三好の石高計算から最大でも2万程度の軍勢動かすのが精一杯
のちの完全制圧してない大和入れても3万行くことは無いだろう
ましてや無駄に広範囲に国があるため兵を置かないで済む国が無い
武田が上杉と戦っていた時は北条、今川と同盟結んでて美濃からの侵入も木曽さえ置いとけば大丈夫で
斎藤は斎藤で国内ガタガタ、織田に攻められ対外侵略などしてる余裕は無しで留守は少なく済みほぼ全力で北に迎えた
武田信玄が北条と戦っていた時は織田家と同盟。平山優氏いわく明確な史料は無いが信長が徳川に武田領に攻めないよう自重求めたのだろうと推測。
その言葉の通り徳川静観で北信濃に守り置くだけで北条と戦えた
三好にはこれができない。
守備兵割いたら2万きるね -
動員可能数は4万程度、もちろん四国の虎の子1万強を入れての計算なので
即座に動かせる兵数は自前の1万と畠山氏の支配領域から1万程度と考えるのが妥当
これは関ケ原の動員数だけ見ても明らかに間違いのある石高からの兵力算出ではなく、言継卿記なり多門院日記、細川両川記の記述から
もちろん目測なりがあるので過信はできないが、第三者の記録としてある程度信用していいと思うよ -
>>66
六角氏が戦わずに敗走したのは三好義興が一色(斎藤)龍興と同盟に向けた交渉をしていたと古簡雑纂にあるねぇ残念ながら
あと教興寺の戦いが三好対畠山の戦いだと思ってるやつはWikipediaを批判しつつも結局はwikiに毒されてるのな
実質は三好対足利義輝だったことにこの戦いの意義がある
兵数が〜とかどれも概算こねくり回してるだけだろアホらしい -
当時5畿内に200万の人口(総人口の6分の1)と国内最大の商業都市を抱えてるのに5万も徴兵できないのかよ
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徴兵制度でもあると思ってるのかな
おめでたいな -
首都近郊は米作ってないから集まる兵も少ないんだよ
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職種も多様だしね
あと畿内は寺社の勢力圏が強いから寺社所属の兵士や人口も差っ引かないと -
あのあたりの時代で5万以上の兵隊が出てくる戦いってよっぽど限られると思うが
それこそ鵜呑みにできない記述ばっかだし -
摂津の人口は当時の九州一個分とどっこい
25000くらいいても不思議ではないな -
池田単独で万余の軍勢を動員できるのに
最盛期の三好なら5万は動員できる
東国とちがって銭で雑兵を雇えるし米も買えば調達できる
なんせ本願寺も法華宗も三好と組んでるんだから物資は潤沢に調達できる -
石高とかいうド田舎の指標で兵数を推定するのは妥当性がない
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三好久助だけで2万人率いてたって言継卿記か多聞院日記に書かれてなかったけ?
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将軍相手とか勝ち確だから2万ぐらいすぐ集まりそう
雑兵を臨時雇用する形なら -
それは結果論
将軍側につきそうな六角とか寺社に対して三好は切り崩し工作してる
結局はカネ払い
織田のような殲滅戦争しないから負けても死なない -
相手が国人の寄合世帯の戦国大名なら
信長が朝倉や浅井にやったように
調略しかけまくって内部崩壊させたろうけど
紀北から泉南・河南に進出してた根来寺は難敵だよね
金はうなるほど持ってるし
養ってる僧兵はガチで強いし -
三好一族は主君細川を下克上で討つわ、将軍義輝を殺害するわ、将軍義昭を襲撃するわで、逆賊、大悪党じゃないか?
当時は新聞やラジオ、テレビ、インターネットがない時代だから世間の評判なんてものは当人たちの耳には届かないけど、当時の公家や他の大名や庶民たちからは三好一族はどんな評判だったのだろうか?
天下の大悪党?逆賊?
戦国時代はこんなのは当たり前だから特に問題なしなのかな? -
細川との揉めは細川との確執や国衆問題もあって畿内国衆はある程度わかってる
義輝殺害も当時の公家の記述に将軍が謀反したため、と書かれてたりかなり三好寄り
ただ地方の方はわりかし将軍が死んだのはショッキングな出来事だったようである
って感じ
うわべだけを見ず、なぜ揉めたのかとかまで見た方がわかりやすいんじゃないかな -
>>83
将軍が謀反ってのがおかしい
謀反は家臣が主君にそむいて兵をおこすことだから
将軍に力が無くお飾りのような存在だったにせよ、主君は将軍で家臣は三好でしょ
鎌倉幕府も室町幕府も将軍が殺されたり追放されたりして、将軍の存在意義が無いな -
それを俺に言われても困る
当時の公家に主上ご謀反って書かれてるし
天皇だろうと当時の実力者に対しての反逆は謀反とみなされるのはいくらかあるし -
信長公記にも書かれてるからな
当時の人の認識が伺える -
弘治改元の朝廷への費用負担を義輝が怠っていてさらに辛酉、甲子の年は慣習で必ず改元しないといけないがそれも義輝が費用を捻出できず怠った
永禄改元後は朝廷からの知らせもないほど完全に無視されているので朝廷と公家は義輝に代わって費用負担したと見られる三好を支持してたのは明らかだよ
ちなみに義輝は改元を知っても永禄の元号を使わなかったんでこれは天皇の権威に服さないのと同様と見なされる -
主君であるのはその義務を果たしてこそな訳で
それが果たせてないとみなされた場合は世間でも扱い雑よね -
三好長慶って麒麟がくるでも凄い悪人っぽく描かれてるけど、地元民からは尊敬されてるって話も聞いたことがある。
良い評価とかも結構されてたりするの? -
天野先生の研究とか読んだらいいんじゃないかな
少なくとも単純な悪人像を思い描く人は研究読んだ人では結構少ない
というか麒麟が来るのあれも別に悪人のように描いたわけではなかろうよ -
三好長慶(山路和弘)のキャストメッセージ
どう演じるのがいいのか?三好長慶の人物像を自分なりにあれこれ考えながら撮影初日を迎えたら、
監督から「めちゃくちゃ悪そうな感じで」と言われました。
それは得意分野だったので「よっしゃ、わかった!」という感じだったのですが、次の監督からの言葉には驚かされました。
「このころの長慶は20代です」。いやいや、むちゃおっしゃる(笑)。
大河ドラマの三好は悪役で描かれているね -
20代には全く見えない
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仕方なく長慶が悪役させられてるけど実際は義輝の方が暗殺しかけたり反三好扇動したり裏で色々あくどい事してる
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実際には長慶ってどういう人だったん?
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>>95
綺麗な信長 -
細川藤孝が模範にするくらい姿勢が良かった
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>>95
代替わり後は文化人としての名声も高いから相当賢かったと思うよ -
子供が亡くなって、やる気を失った人
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現代人の感覚からするとこの時代は理解しがたい。
将軍は偉い人で三好君の上司なんだよね。
三好君は上司が気に食わないことをすると怒って兵を集めて襲撃して上司を追い出したり、仲直りしたりしてるんだよね。
会社がこの時代だったら面白いね。
部長と課長が対立して部長派と課長派の社員が戦ったり、専務が社長を暗殺したり、非正規雇用の契約社員と派遣社員が一揆を起こして正社員を襲撃したり。
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