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日本近代史
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西園寺 公望
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公家出身で総理大臣にも就任した最後の元老である西園寺公望 - コメントを投稿する
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徳川慶喜並みのフランス病に罹患してた西園寺
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さいきんをやれば、幕末ありーの、2回のフランスロケはありーの、2度の世界大戦もありーの、と大河ドマラにふさわしい見所満載なのに、何故やらないのか意味が分からんは
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色情が酷すぎて出来ないんじゃないか?
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山本権兵衛の元老の可能性を潰した屑
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岩倉具視との仲は?
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悪い
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悪い
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悪い
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>>4
それでも生涯独身を貫いてる -
お寺さん
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性欲狂い
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きんぼー
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伊藤博文の劣化コピーって印象かな
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なわけない
西園寺のほうが一枚上 -
どこが?
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どこが?
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最後まで元老の地位にいたところ
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家柄が上
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顔つきが気持ち悪いぐらい公家顔
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大滝秀治顔だよな
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公卿総理大臣
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お寺さん
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生涯独身
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住友様だぞ
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西園寺公房
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変態狂い
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エロエロ
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親父かよ
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お寺さん
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エロ
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西園寺公房
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西園寺公望さん、まさに日本の近代史を彩る偉人ですよね!公家出身でありながら、明治維新後に政治家として活躍し、3度も総理大臣を務めたなんて、そのバイタリティとカリスマ性に圧倒されます。
特に、伊藤博文さんや桂太郎さんと共に推進した立憲体制の確立は、日本の民主主義の発展に大きく貢献したと言えるでしょう。公家としての伝統的な価値観と、西洋の近代思想を融合させた柔軟な考え方は、まさに時代を先駆けるリーダーだったと思います。
ただ、一方で、陸軍との対立や政党政治の台頭など、様々な困難にも直面したようですね。それでも、常に冷静沈着な判断で乗り越えてきた姿は、まさに「最後の元老」の名にふさわしい風格を感じます。 -
生涯独身やったんだな
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>>34
内閣総理大臣としての在職期間は以下の通りです。
第1次西園寺内閣: 1906年1月7日 - 1908年7月14日 (888日間)
第2次西園寺内閣: 1911年8月30日 - 1912年12月22日 (488日間)
第3次西園寺内閣: 1914年4月16日 - 1916年1月26日 (657日間)
合計在職日数は2,033日間に及び、歴代4位の長さです。 -
>>36
>第3次西園寺内閣: 1914年4月16日 - 1916年1月26日 (657日間)
あんた、どこぞの偽情報をコピペして悦に入ってる姿は滑稽だぞ
ちなみに上記に重なる時期の1914年4月16日-1916年10月9日は第二次大隈内閣の時だ
官邸HPで確認してみろ -
>>37
そろそろ遊ばれてることに気づけよ、歴史博士さんw -
元老制度を自ら廃止したのは失敗だったな。
薩摩閥への抵抗だったかもしれないけど -
AIもどきと歴史学者もどきの一騎打ち、これは見もの。俺たちを楽しませろよw
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>>41
遊ばれてる歴史学者もどき君の方が負けじゃね? -
遊ばれてみんなに見放されて、なんか可哀想だな歴史博士?学者?くんはw
迷惑だったんだよね、あちこちの板でキモいキモいって書き込みしてて。
AIだろうが間違っていようが、歴史くんの書き込みが一番不愉快だった。
正直邪魔だったから、このまま消えてくれればいいんだけどね。 -
岩倉具視と西園寺公望
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>>40
遊ばれてるのに気づかず、ワーワーはしゃいでるの可愛いですねぇ -
遊ばれてるのはお前の方かもしれんぞw
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岩倉具視と西園寺公望は、明治維新から大正デモクラシーという激動の時代を生き抜いた二人の政治家です。二人の政治理念は大きく異なっていましたが、共通の目標である日本の近代化と国家の繁栄という目的のためには、妥協点を見出して協力することもありました。岩倉は富国強兵政策を推進し、日本の近代化に大きく貢献しました。西園寺は政党政治の発展に尽力し、大正デモクラシーと呼ばれる民主主義運動の時代を支えました。
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お寺さん
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岩倉の功績は孝明天皇をゴニョゴニョ
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砒素か?
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お寺さん
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元老制度が続いていたら
1920年代は清浦、山本、田中
1930年代は彼らに斎藤実、宇垣辺りを入れて協調外交を維持できた可能性あるのに。
枢密院議長は山縣が亡くなった後山本が就任するはずが
これも西園寺と平田が妨害した -
岩倉と違い長州派の西園寺
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公卿様よ
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お寺さん
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>>52
1920年代、清浦、山本、田中。そして1930年代、斎藤実、宇垣。
もしこの元老たちが協調外交を維持する道を選んでいたら、日本は全く違う道を歩んでいたかもしれない。
しかし、現実は違った。 西園寺と平田の妨害によって山本は枢密院議長になれず、日本は軍国主義へと突き進んでいく。
歴史のIFは、常に我々に問いかける。 もしもあの時、違う選択をしていたら?
だが、私たちは歴史をやり直すことはできない。 -
寺内清浦てのは力不足だろ
義一はなかなかだったと思うがあの事件処理がなあ -
西園寺は長年にわたって政界のトップに君臨し、大正デモクラシーと呼ばれる民主主義運動の時代を支えた。その穏健かつ柔軟な政治手腕は、多くの政治家から尊敬を集めた。
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ai
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西園寺は、日本の近代政治史上、長きにわたって政権中枢に携わり、大正デモクラシーと呼ばれる民主主義運動の時代を支えた政治家である。その穏健かつ柔軟な政治手腕は、多くの政治家から尊敬を集め、日本の民主主義の発展に大きく貢献した。
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勝海舟は明治31年(1898年)10月23日の座談で、西園寺公望について尋ねられた際、「伊藤博文の子分だな。なかなか利口な人物だ」と評しています。
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お寺さん
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この人も公家特有のプライドが高く法螺吹きで責任を取りたがらない部分がある。
山本権兵衛がウザいから元老にさせなかったり後継者に近衛を指名しといてあとで勝手に匙投げたり。
まぁ近衛は近衛で西園寺のことを内心見下してたみたいだけど。 -
>>63
AI君のレスは間違いが多い。 -
西園寺公望(きんもち)、藤原氏閑院(かんいん)流のお公家さんである。
閑院流のお公家さんは、実(さね)〇ー公(きん)〇ー実〇ー公〇ー・・・というふうに
「実」と「公」がかわるがわる代々つながる家柄だ。先祖は藤原公季(きんすえ)卿である。
ほかに三条家、徳大寺家、武者小路家、などがある。
三条実美(さねとみ)も息子は公美(きんとみ)だしな。父親は実万(さねつむ)だがそういうイレギュラーもあったりはする。
武者小路実篤(さねあつ)の「実」の字も、徳大寺実則(さねのり)の「実」も、
そういう法則にのっとっている。 -
>>63
>近衛は近衛で西園寺のことを内心見下してたみたいだけど
そりゃあ、近衛は五摂家のひとつで、藤原総本家であり、摂政関白にまでなれた家柄、
かたや西園寺はどうがんばっても太政大臣までしかなれない家柄、
まぁ当然、見下しますよね。 -
岩倉具視との両雄
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ともみ
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>>66
木戸「近衛?ああ、あれは馬鹿」 -
まじか
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弁天様
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西園寺は首相や政党党首としては凡庸で元老になってから(山県没後以降)が、政治家としての本領発揮なわけだが、
もし伊藤博文がクソ長命でオツムも体も死ぬまで元気だったなら、ぶっちゃけ「元老西園寺公望」は無用だったかな。
まあ、伊藤よりはリベラルな点が評価できるが。 -
そうやな
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大村益次郎の子分だろw
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