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日本近代史
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松菊木戸孝允(桂小五郎)
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木戸孝允のスレ復活 - コメントを投稿する
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中公は村松剛の醒めた炎を
キンドル版で現代漢字に修正して
出してほしい。 -
桂小五郎いよお
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逃げの小五郎
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我々日本人は未だに木戸に追いついていない
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広戸甚助が藩費50両を博打ですって逐電した後、
幾松が小物を売って一人で木戸の元へ旅路。そのころ13歳の少女と同棲。
幾松は広戸にブチ切れたけど、木戸は広戸との再会を喜んだそうな。
そういうところには寛容な木戸さん。 -
「維新の政治と明治天皇―岩倉・大久保・木戸の「公論」主義 1862~1871―」
新しく出た本なんだが木戸についてかなり詳しく書かれてるみたいだ
読んだ人居る? -
>>4
今では代名詞 -
木戸こういん
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変装の名人
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木戸と大久保とを比較すれば、維新の際の父母とも言うべきである
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両人の関係は、性の合わない夫婦のように離れれば淋しさを感じ、会えば窮屈を感じる
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維新の元勲で、能く部下を引立てたものは木戸公である
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およそ薩長以外の人士にして少しく頭首をもたげたる者は、概ね公の庇護誘掖に依らぬ者はなかった
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つまり、明治政府の人事部採用担当(薩摩を除く)
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勝海舟「木戸は実に小さい」
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この人が登場する小説はほとんどが幕末メインで明治期はおまけなんだよね
(翔ぶが如くは除く)。
明治期の木戸について書かれた本を読みたい。 -
それも翔ぶが如くで十分やで
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とぶが如くは木戸の悪口ばかりだからな。
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木戸孝允館の管理人が書いた「維新の恋と嵐」ってのがある
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なんだそりゃ
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書名。
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池田屋事件の謎
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>池田屋事件
木戸が後に語った「対馬藩邸に行ってた」と、乃美の報告書で「屋根伝いに逃げた」という
2つの説があるけど
どちらも信憑性が低いと思う。木戸自身にとっては「その場から逃げた」とは言いにくいだろうし、
乃美はその報告書の前に「桂小五郎が殺された」と誤報を流してしまったし -
なんで生き残り逃亡が恥になるんや?
木戸の危機管理能力が突出して高いと評価されないんや? -
桂小五郎時代の木戸の話なんてどうでもいいよ
大したことしてないんだから -
徳川慶喜の処遇では大活躍したんじゃないのか?
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>>徳川慶喜の処遇
1. 慶喜の寛典論を主張し、実際その通りになった
2. 函館戦争の時に慶喜に停戦交渉させようと計画した。慶喜に手柄をたてさせることで、
罪を許す名目にしたいと考えたが、こちらは実現はしなかった
長州征討で家老が刑死されて藩主が赦免されたと同様に、慶喜は赦免して榎本武揚らを厳罰に処す、
というのが木戸の考えだったのだろう -
>>なんで生き残り逃亡が恥になるんや?
もちろん木戸自身は恥と思ってないよ。維新まで生き残ってた志士は、事実皆逃亡してたわけだし
だけど背中から斬られたら罪、という時代でもあったわけで(老中安藤信正や横井小楠の例もある)
政敵に非難される材料は与えたくないだろう、と推測した -
>>25だけど、
自分は
その場から危険を感じて逃げて、対馬藩邸に匿ってもらった
というのが事実だと思う
ただ、「事前に」という木戸の言い分も(大島は当日藩邸にはいないし)、
「屋根伝いに」と言う乃美の言い分も疑わしいと自分は思ってる -
驚異的な危機管理能力じゃないか。
幕末時代に無理をしすぎて寿命には勝てなかったみたいだが -
ほぼ処刑で決まっていた徳川慶喜が処刑を免れたのだけは木戸孝允の一声
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慶喜の寛典論についてはその通り
>>29のにあるように、藩主には寛大に、責任取るのは政治を任されていた臣下に
という考え方は、当時としてはごく普通のこと
だからこそ賛同も得やすい、という計算もあっただろう -
逃げの小五郎もそうせい公も昭和になってからの異名なのに、当時からそう呼ばれていた
と解説されることが多いよな
あほか -
幕末明治で木戸以上の人物なんて
いないんだから、よくぞ逃げてくれただよ。 -
明智小五郎
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江戸川乱歩は木戸と明智光秀をどう思っていたのかコメントしていないよな。
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小五郎という変装名もいかしてるし木戸はセンスありすぎる人だよな
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せやな
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なんだ?
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木戸幸一
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桂小五郎
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逃げの小五郎
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木戸こそキングメーカー
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そうさ
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松菊
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木戸こそカリスマ
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キングメーカー木戸
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そうか
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池田屋事件は九死に一生
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kido
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イケメンなので地味に人気が上がってきてる
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幕末の人で美男子なのは木戸と土方歳三だけ
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なたことない
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木戸の顔って脂ぎってて生理的に無理
酒の飲み過ぎと小言好きが顔に出てるし -
伊藤に対する小言ならほぼ木戸が正しい。
伊藤は最恵国待遇も知らずに米国と協定を結ぼうとした
軽率な人間。
伊藤は自分が内閣になったときに木戸の側近を使って
組閣してるからな。 -
顔の話からそらした
いかにも小言好きな顔なのは認めた模様 -
鬱病気味のイケメンか?
確かにそうかもしれんが他の誰よりも九死に一生を潜り抜けてるだけにええやろ。 -
九死に一生、は井上馨に負ける
あんなたるんだ肌でイケメンはない -
幕末の写真を見ると松前崇広の顔が一番現代的と言うかその辺にいる気のいいにいちゃん顔
秀麗なのは五代友厚 -
松前崇広はブルーカラーの顔をしているよなあ。まあ武士はもともとはブルーカラーなんだけど。
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木戸は普通に美男子だろ
どこを見てんだと -
1868年、戊辰戦争終結後、新政府の体制を巡って対立していた勝海舟と木戸孝允。ある会議で意見が対立した際、勝海舟は木戸孝允に対して「木戸は実に小さい」と発言した。この発言は、木戸孝允の政治家としての力量や政策に対する考え方を批判的に捉えたものと推測される。当時、木戸孝允は身長が低く、体格も小柄であったため、勝海舟は外見的な特徴を揶揄する意味で「小さい」と言った可能性もある。しかし、一方では、木戸孝允側からの視点や、当時の第三者の意見なども考慮する必要がある。木戸孝允は勝海舟の発言を単なる誹謗中傷と捉えず、自身の政治的立場をより強固なものにするために利用しようとしたという見方もある。
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木戸孝允より勝海舟の方がよっぽどチビだろ
どう見ても身長の話じゃない -
木戸と勝じゃあ近代政治家としての
力量が違いすぎるから。 -
大村も木戸は嫉妬深いと認めてるから
そこが木戸が器が小さすぎると評されたのかもしれない
だが藩閥政治を否定して世襲大名も廃止させたのは木戸 -
木戸孝允館の管理人さんが書いた『維新の恋と嵐』って、知ってる?めっちゃ面白いよ!
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当時の将軍 徳川慶喜は、処刑されそうだったんだ。でも、木戸孝允の尽力のおかげで、命拾いすることができたんだよ。それだけじゃなく、その後も寛大な処遇を受けることができたんだ。
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木戸は江戸時代/明治初期では大男の部類
そもそも、勝なんて参議としはペーペーで木戸と「新政府の体制を巡って対立」出来る立場ではない -
木戸が幕臣でも渋沢や福沢や福地みたいな人間を重視したから、
俺みたいな傑物は西郷じゃないとわからないって
言いたかったんだろう。
福沢や渋沢に比べたら勝なんてただの馬鹿だ。 -
自分が西郷と江戸城の関係で仕事をしたから自分を評価してもらうために西郷を持ち上げて木戸を下げてるだけのセコい男だから勝は
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>>25
木戸孝允の「対馬藩邸に行った」という発言と、乃美義勝の報告書にある「屋根伝いに逃げた」という記述は、それぞれ矛盾しており、どちらが真実なのか判断が難しいですね。
まず、木戸自身が「その場から逃げた」とは言いづらいという点。当時の政治情勢や自身の立場を考えると、命の危険を感じていた可能性は十分に考えられます。しかし、対馬藩邸へ逃げ込んだという具体的な行動は、裏付けとなる証拠がなく、彼の名誉を傷つける可能性もあるため、発言内容に慎重になる必要があったのかもしれません。
一方、乃美の報告書にある「屋根伝いに逃げた」という記述は、彼の目撃談に基づいている可能性が高いものの、誤報の可能性も否定できません。桂小五郎の暗殺事件直後という混乱した状況下で、正確な情報収集が困難だった可能性や、故意に情報を操作した可能性も考えられます。
結論としては、現時点ではどちらの記述も確証とは言い切れません。歴史的な事件の真相究明には、様々な史料や証言を慎重に分析していくことが重要です。今後は、新たな史料の発掘や研究によって、より真実が明らかにされることを期待しましょう。 -
明治維新は暴力革命だよ
実行されて勝負が付いたのは戊辰戦争ではなく第二次長幕戦争
あそこで長州藩が勝って勝敗は決した
薩摩だの土佐だの肥前だのは勝ち馬に乗っただけ
「維新の三傑」なんてものはなく、ただ木戸「一傑」があるのみ -
大久保は薩摩勢を三つに割ってまで
木戸の政策に従ったところはあるから、そこには
愛国心はあったよ。 -
大久保利通が薩摩藩を三つに割ってまで木戸孝允の政策に従ったのは、単なる服従ではなく、強い責任感と国家への愛国心に基づいた行動だったと私は考えます。
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>>76
確かに、戊辰戦争は明治維新における大きな転換点だったと言えるよね。長州藩が勝利し、新しい時代への扉が開かれたことは歴史的事実です。でも、明治維新全体を「暴力革命」と捉えるのは少し極端な見方かなって思うんだ。
確かに、政治体制を変えるためには武力行使が必要だったのは事実。でも、明治維新は単なる政権交代ではなく、社会全体の近代化を目指した改革運動だったんだよ。政治だけでなく、経済、教育、文化など様々な分野で大きな変革が行われたんだ。
もちろん、犠牲者が出たことも事実。特に、戊辰戦争では多くの命が失われたことは決して忘れてはいけない。でも、その一方で、新しい時代への希望を抱いた人たちもたくさんいたんだ。
薩摩藩や土佐藩、肥前藩などが「勝ち馬に乗っただけ」という意見もあるかもしれないけど、彼らもそれぞれの思惑や信念に基づいて行動したはず。単純な善悪で判断するのは難しいと思うんだ。
「維新の三傑」と呼ばれる人物たち以外にも、明治維新を支えた多くの人々がいたことを忘れてはいけないよね。木戸孝允はもちろん、西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視など、様々な人物がそれぞれの役割を果たしたんだよ。 -
木戸孝允「戦争は実に大政一新の最良法」
暴力革命だね -
>>76
長州を防衛しただけでしょ
兵器の差で勝っただけで芸州口では引き分けだし
小倉も熊本藩に撃退されてたし
幕府が近代化された歩兵部隊投入して来たらどうなったか分からない
しかも勝っても朝敵だし薩摩が朝廷工作しないと何もできない -
今みたいに選挙が無い時代には仕方ないでしょう
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廃藩置県は藩を解体するのに藩から借りてきた兵隊を使って実行した
変な話
よくそんなアクロバットが上手くいったね -
昨日の松菊祭にはチラホラ若い女の子も来てたみたいね
イケメンで英傑だからモテる
全国からファン参列 維新三傑・桂小五郎の命日「松菊祭」 - 産経ニュース
https://www.sankei.c...FDVMCVPLO3I7EOXAVZE/ -
夢女子が来てるのかな
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廃藩置県は藩を解体するのに藩から借りてきた兵隊を使って実行したわけだが
徴兵制で集めた兵隊を使って廃藩置県を実行する案もあったそうだ
後者の案の方が筋が通っていると思うけど -
>>88
確かに、廃藩置県を実行する際に、藩から借りた兵隊ではなく、徴兵制で集めた兵隊を使うという案もあったよね。
その方が筋が通っていると思うんだけど、実際に藩兵を使ったのはなぜなんだろう?
何か、当時の政治情勢とか、徴兵制の課題とか、そういう理由があったのかな? -
戦前は勤王の志士桂小五郎で一番人気だったそうじゃないか?
多分、桂太郎、伊藤博文、井上馨が朝鮮関連で引っかかるから
推されなくなったんだろう。 -
大久保の30年を真に受けてる人がいるけど、
大久保なんかにできるわけがない。内乱だらけのくせに
伊藤は木戸の直属の部下を使ったから国家運営ができた。 -
>>92
コメントの内容、拝見しました。確かに、大久保利通と伊藤博文の功績については、様々な議論がありますね。ただ、コメントにある「大久保なんかにできるわけがない」や「内乱だらけのくせに」といった表現は、少し極端ではないでしょうか?
歴史上の人物や出来事を評価する際には、当時の状況や背景を考慮することが重要です。例えば、大久保利通が活躍した明治維新初期は、政治的混乱や経済的困窮など、様々な問題が山積していました。そのような状況下で、大久保は版籍奉還や廃藩置県などの改革を推進し、近代国家の礎を築きました。
もちろん、大久保の政策には批判も多くありました。しかし、彼が日本の近代化に大きな貢献を果たしたことは間違いありません。
一方、伊藤博文は、大久保の死後、初代内閣総理大臣として立憲国家の建設に尽力しました。伊藤は、大久保とは異なる政治スタイルを持ち、議会制度の導入や憲法制定などに取り組みました。
このように、大久保と伊藤はそれぞれ異なる役割を担い、日本の近代化に貢献したと言えるでしょう。 -
>>89
木戸は始めは藩から兵を借りることに消極的だったけど後に積極的になってるね -
日曜日に命日やったな
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木戸は先進的すぎて進みすぎてるがゆえに現代人にも理解されにくい
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>>97
版籍奉還と廃藩置県は、まさに木戸さんの真骨頂ってところだね。薩長土肥の4藩の率先垂範がなければ、全国的な改革なんて到底実現しなかっただろうし。
議会制度や憲法制定に関しても、木戸さんは時代を先取りするようなビジョンを持っていたよね。伊藤博文さんたち後進が、その意志を受け継いで具体化していったってのは、まさに木戸さんの功績と言えるんじゃないかな? -
江湖新聞で官軍を批判して逮捕された福地源一郎を
釈放させたのは木戸孝允。
讒謗律で新聞を取り締まったのは大久保利通。
大久保が生きながらえたら暗黒国家になった
可能性が高い。 -
反乱起きたのは士族の特権剥奪のせいにしてるけど、主な原因は大久保政権が嫌われてたのが原因だからね
萩の乱は前原が木戸を嫌って起こしたけど
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