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日本近代史
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会津観光史学
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薩長への怨念が丸出し史学 - コメントを投稿する
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逆賊の会津観光私学
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反日観光史学
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会津に怨念丸出し
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会津新選組とかのブーム終了
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会津観光史学では新政府に逆賊にされた!って被害者ぶって、今でも逆賊扱いみたいに言うけどさ
松平容保はお家断絶になることもなく明治5年には許されてるから、逆賊だったのはたった4年
これ、まっとうな幕末オタなら基本知識な
こういうスレって「会津が今も逆賊扱いされてる」って主張したい会津オタがアンチのふりして立ててるんだろうな -
会津観光史学といえば大晦日に亡くなった星亮一
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亡骸を埋葬しなかったのは民衆に侍が嫌われてたから。
一揆起こされただけ。
それを官軍のせいにしてるのはわらえる。 -
星亮一はひどいよな。
長州奇兵隊の蛮行がひどいって書いてるけど、
ソースないし。
容保を引きずりだしたのは桐野だろうに。 -
恨むなら薩摩と土佐。
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ありもしない虐待があったと広めたい長州オタか
新しいなwww -
会津信者はきもいな
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会津戦争終結後の明治元年、会津世直し一揆が起こる 会津は苛政で有名で、過年の農民の不満が爆発したのである
ウィリアム・ウィリスは、会津を去る松平容保親子に対し、領民が見送りもせず黙殺で応えたと書き残している
この後すぐ廃藩置県で旧藩主たちは東京在住を命じられ、旧領を去る事になった
領民たちが旧主に対し名残を惜しみ土下座で見送り、さらには献金や政府にとどまれるよう訴えた話が幾つも伝わっている
会津とは天地の差だった
それから約60年後 松平容保の孫、節子が秩父宮妃に決定 節子は1928年会津に里帰りするがその時の会津若松市の熱狂は凄まじいものがあった と山川健次郎は書いている
しかし考えてみれば、会津の住民の大半は、松平家を恨み黙殺した農民の子孫のはずである 秩父宮の成婚自体は目立つ事にせよと容保の孫の玉の輿に単純に熱狂できるだろうか
ここで考えられるのは、一つはすでに昭和初期には江戸時代の支配階級と被支配階級が忘却されていたと言う事、もう一つは会津の農民たちの子や孫世代が兵役その他で他地域の人間と接したときに、十把一絡げに賊軍扱いされて一の間にか地域的な一体感ができてしまったのではないかと言う事である
これは官軍側でも見られる事で、薩摩で悪政に呻吟していた農民の子孫が大半の県民がなんとなく島津を誇りみたいに思っていると言う事もある
いずれにせよ、会津観光史学は、かなり古い時代にその土壌が出来つつあったのではないだろうか -
会津若松のスレに詳細がある
簡単に観光史学と割り切れる話ではない -
戦後から存在してたからな
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>渡部恒三(83)氏が衆議院副議長に選出された時、祝賀会で「副議長公邸は木戸孝允邸>跡に建てられております。このたび、私は長州の大親分・木戸の邸を占拠しました」と挨>拶したら、もう割れんばかりの拍手があったという。
長州は攻めてません。 -
いや、北越戦争の後転戦して会津に一部奇兵隊来てなかったか?
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逆賊の会津
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会津攻めの時に、長州は参加してないというのは無理があると思う
長州藩の主力や木戸・大村などの要人は参加してないのは事実だし、会津攻めの軍勢の中で長州軍が占める比率は低いだろうけど -
会津論者の言う、長州は会津に酷いことをしたとか恨みを晴らすためにしたとか、会津への戦後処罰は木戸が主導したとかは
全く史実とは違うし、ちゃんちゃら可笑しいけどww -
会津攻めもしたけど禁門の変とか錦の御旗で一転逆賊扱いになったからだろ?
そりゃ主力は薩摩や土佐が多くてもその原因は何かって話でしょ、恭順願い出た時に受け入れてやりゃよかったのに -
会津が後北条氏のような突っ張りしてなければ他の東北諸藩は、東海関東の諸藩同様スムーズに帰順できていただろう
また、長州が世良修造なんかよこすから余計拗れる
会津に巻き込まれた奥羽越の諸藩はいい迷惑だった -
逆賊だなんだというが結局のところ皇室と公家からしてみれば夷を以って夷を制す
大正天皇の子息たち、昭和天皇と弟宮の嫁は逆賊たる中川宮、松平容保、徳川慶喜の孫娘が勢ぞろい
天から見れば武家など、掌の上の孫悟空 -
長州も会津も逆賊になったけど、その後ちゃんと赦免されているからな。
現代になっても「逆賊の汚名を着せられた」などと恨み節を言い続けるヤツらがおかしい。 -
薩長や坂本龍馬はテロリストで会津藩や新選組こそが日本を守ろうとした正義だのと
反薩長史観が盛り上がりを見せたのは2000年前後からだろ? -
色々イギリスやマセソン商会との関係が具になるにつれてそういった声もデカくなっていってる
X見るに今は維新否定派がかなり隆盛だな
下関戦争や大使館襲撃の裏でイギリス留学なんてかなりおかしいしその留学も手引きしたのはジャーディンマセソン商会、これ陰謀論じゃないぞ
色々あの時代は闇が深いよ、そうして最終的に教科書に載ってるような欧米の尖兵に至ったわけだしいいように転がされたようなもんだ -
佐幕オタっていまだに外国コンプレックスが強いから、幕末の攘夷過激派みたいに、商取引しただけで手引したーとか操られてるーとか言い出すのが笑う
個人と組織の区別がつかないから、駐日イギリス総領事が暴走して長州を攻撃すると騒いでいても、スコットランド系の商人たちは別に部下じゃないから、依頼があれば普通に商売するっていう立ち位置の違いも理解できてないし -
>>34
イギリスを攻撃しながらイギリスに留学する事の弁解になってないぞ -
異国船砲撃を主張したのは、久坂玄瑞ら過激攘夷派
異国留学を主張したのは、山尾・井上勝・井上馨
全くの別人だぞ。長州藩は個別の主張をそれぞれ容認しただけだ -
会津は良いアイデアを思いついた藩士がいても、多数派でなければ「ならぬことはならぬ」と弾圧します
統制が取れていたので負けました -
そう、長州は統制が取れてないからこそ良かった。
統制がとれたのは木戸が出石から復帰して藩政を掌握してからだ。
留学資金は、大村が商人から借りて藩の裏資金から返した。
長州が何で倒幕できたかと言えば、一つはこの裏資金があったから。
「ならぬことはならぬ」という教えがあったらできなかったことだ。 -
京都では、女好き・金払いの良い長州勢が町人に人気があった。
薩摩は醜女好きか衆道家でかつ貧乏侍だったから人気はなかった。
新撰組はカネがなくて商人から巻き上げていたから嫌われていた。
だから、長州を追い出すために薩摩と会津が手を組んだ、と考えれば面白いww -
その裏金を作ったせいで特に飢饉が起きたわけでもなく徳川から搾られてたわけでもないのに民衆が困窮してあそこだけ一揆が多発してたのにものはいいようだなw
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「ならぬことはならぬ」って、施政者には都合の良い教えなんだよ
一方、「個人がそれぞれ考えて正しいと思うことをしよう」という考えは、施政者には都合が悪い。
だからこそ統制が取れてなかった長州が、最終的に倒幕を成し遂げたんだと思う。 -
困窮している民衆から年貢を搾り取ったのは会津
京都守護職に必要な費用が莫大になったからな
会津には裏金をつくるような智恵の回るヤツはいないし -
長州の裏金は、3つ
1.農地改革で、表の石高よりも高い石高があった
2.副業として、塩・紙・ロウの三白と言われる生活必需品産業を奨励した
3.下関港の通行税や倉庫税、その代わりに商人には独占権を保証した -
長州藩内で、民衆が苦しめられたのはコレラ
コレラは西から広がったけど、開国したから悪病が広まったということで、
コレラとともに攘夷熱が拡がっていったんだよ -
高杉は今でいえば長崎で億単位で伊藤井上は京都で5000万ぐらい
遊んでるだろ。
撫育金という内部留保が凄かった。 -
当然、そのお金は長崎や京都の経済を回すわけで
原始的な公共投資的な性格もあった
京都で長州の人気が高かったわけだ
参勤交代をやめたら江戸や宿場町の経済が冷え込んだ、ということもあったし
カネも武力・国力なんだよ、今も昔も -
京都で必要なカネをねん出しようとしたのは、長州も会津も同じなんだよ
でも、会津はバカ正直に農民から年貢をまきあげただけ
長州は>>46のような経済改革を進めた
生き残るのに最善な方法はどちらだろうか? -
長州ファイブの留学資金だって、中途帰国した井上馨・伊藤でさえ語学力向上に役立ったし、
技術官僚となった山尾・井上勝・遠藤は、いずれも明治時代の殖産興業に大いに役立った。
理想的な藩のカネの使い方だと思うけど? -
幕末でそういう近代的な経済感覚があったのが、長州・薩摩・佐賀なんだよ
もちろんそれぞれの背景は違うけどね -
>>49
特別会計システムとの類似がよく指摘されている部分だな
結局のところ日本の現代に通じる悪業なんだよなぁ、私腹を肥やすための裏金問題は
ここのスレ立て人と思しき人は黒を白と言わん勢いだけどそんなんだからXでも苦言を呈されるんじゃないかね -
>>31
戦前、日本で一番逆賊呼ばわりで苦労したのは会津より足利と思う
子孫で名前変えてたところはいいが、喜連川から足利に復姓した家は大変だっただろう
貴族院で南朝臣の華族連中が足利尊氏も評価してはとか書いた大臣を罷免要求したりするんだから -
>>55
戦前の会津は軍都で、国の金で潤ってたから、逆賊と言うより戦争協力者側だよね
白虎隊も全国の学校で教えられて美化されていたし
戦後、軍がいなくなって収入が途絶えてから、会津戦争を観光のネタにしようと始めたのが観光史学
最初はそれほど偏ってなかったらしいが、小説家が次々参入し、早乙女とか星とかが自分の妄想を実際の出来事だと言い張るようになり、被害を捏造して喧伝し儲ける仕組みが確立した -
明治政府もやったのは、武士をリストラして、全国の借金を国債で賄っただけで特に凄くない
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最後まで反逆していた会津は逆賊テロリスト
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薩長以外の侍は雑魚だからリストラされるのも仕方がないだろう。
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地元の歴史的悲喜劇を盛って観光のメシの種にするのはどこでもあるが、会津はちょっと酔っ払ってる感がある
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怨念の塊だからなw
まず悲惨な敗北も自業自得やろうと -
石原莞爾など旧陸軍の東北人連中が会津ビイキしすぎてるのも一因
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会津も言われるほど悪くない
長州と同じ事やってるだけじゃんで終わる話 -
長州は、禁門の変のときに会津が長州藩士の遺体を埋葬するなと命じたとかの捏造はしてなくね?
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西郷は仲間置いて他の地域に行って、反乱けしかけたりしてないから、見せしめにする相手いないしなあ
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軍人でもない木戸孝允ばかりせめて、会津攻めのリーダーだった
板垣退助のことは言わないのは、土佐贔屓に板垣の日記を掘り起こされる
からだろうな。 -
板垣は会津の敗戦後も同情的だったからね
一方で戊辰戦争の経験で封建制の問題に気づいたのは凄いが -
会津観光史学のせいで、秋田は結構やられているんだよ。
曰く、戊辰戦争で奥羽列藩同盟がやられたのは秋田藩の裏切りだと「知事が公共の場で明言」するとか、秋田の地方紙の記者が会津で取材しようとタクシーに乗ると、運転手から戊辰戦争の嫌味を言われるとか…
秋田も秋田戦争で確かに仙台からの使者を惨殺するけど、これは世良修蔵が殺された報復に、薩摩の大山格之助が強く藩士にヤレヤレと働きかけたためであって、それを言ってもねえ。
星とか早乙女とかが盛んに著作をだしてその手の話を広げたせいだと思っている。 -
秋田は、最初に奥羽列藩同盟に入ったことの方が、なにかの手違いとしか思えない
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奥羽は外様が多い
古くからの地生えの津軽、南部、伊達、相馬
関ヶ原後に移封してきた佐竹、上杉
豊織大名の丹羽、織田など
徳川の恩顧などほとんどない家が多くを占めている
新政府に目をつけられたのは親藩の会津松平と譜代の庄内酒井である 奥羽の外様諸大名に会津や庄内に別段の義理も縁戚関係もない
これが戦国ならいくらでも調略のしようがある状況と思う
これを何故か奥羽で括って強引に事を運んだのは稚拙と思う 本当は東北戦争などやらずにすんだのではと思うのだ -
三春藩の秋田氏(秋田藩ではない。ややこしい)も、もともと幕府寄りではないのだが周囲が全部列藩同盟に加盟するもんだから仕方なく加盟した。
戊辰戦争ではいち早く新政府に恭順し、会津や仙台からは今だに裏切り者扱いだw
これも観光史学の影響だろう。 -
関ヶ原の時、領地が西側にあり、会津征討に出遅れたために仕方なく西軍に属した大名がいた
島津や長宗我部、鍋島あたりがその口だろうと思う
奥羽越列藩同盟にしても藩によって温度差は相当あっただろう -
戊辰戦争は関ヶ原の遺恨を晴らす戦いじゃないし、幕末の人にとっては260年前のことより今が大事
特に日本海側の藩にとっては、ロシア南下の脅威の方が優先度の高い問題だし、北前船交易ルートにある九州や京都の情報も入ってきてた
幕末の尊王攘夷というと水戸学ばかりが取り上げられがちだけど、秋田発の平田国学は日本海側・関東甲信越の豪農・知識人や薩摩藩士などへの影響が強かった
要するに秋田は抗幕運動の精神的中心地なのに、なんで奥羽列藩同盟なんかに入った?ってこと -
会津を見捨てられないからでしょ
敵同士の戦国時代と違い隣国は友好藩だし
奥羽全体が会津同情派だからね -
島津、毛利、長曾我部の維新達に関ヶ原の報復戦の意識があったような言説って何時ごろから出て来たんだろう
毛利の元旦のイベントも作り話っぽいが、作り話とすればいつ頃出てきたのだろうか -
>>76
平田は国学の第一人者だが、同時に仙境異聞とか、勝五郎再生記聞とか、神代文字とか結構トンデモも書いているんだよ。
で、一般人にはそのトンデモの方が受けるわけ。まるで、昭和の節操の無い流行作家の、ホントは思想があるんだろうけど
それよりも売れる方を先に優先するライターってカンジ。
だから、故郷の秋田でも若者を中心として彼を受け入れたが、彼の存在に対して、眉をひそめる人がいたのも事実。
その証拠に江戸追放の処分を受けた後、秋田に戻るが結構腫れ物扱いされたわけだ。まあ、熱狂的に賛同する人もいたし、
彼のでっかい墓もあるけどね。
しかも、奥羽列藩同盟に入った時には、奥羽鎮撫隊が藩内におらず庄内との「春の御陣」の戦闘中で、しかも大口叩いて
新政府側の「勝つ!」と言い切った(多分w)新政府側の長州の桂太郎とか薩摩の大山格之助がもろくも全戦線で庄内に
負けているのだから、こりゃどうかな?とふつー思うよw
桂太郎とか、大山格之助なんか結局終戦まで庄内藩の鬼玄蕃に全ての戦闘で勝てなかったし。(仙台藩相手なら壊滅状態
にしているんだけどね) -
民衆に一揆されたからとどまることもできずに移封されて、
自分らが斗南を選んだのに、「木戸がー」ってなんだよ
青森県民に失礼だろ。
北海道に移ったやつなんてヒグマにおびえてるわ。 -
>>78
毛利家の正月イベントは、初代藩主の毛利秀就のときにやってたって話が盛られて、幕末までやってたことにはなってたはず
出典は秀就の家老の回顧録って記憶してるけど、文書名が出てこないや
昭和2年にはもう盛られた話が載ってる本があったそうだけど、司馬の「世に棲む日日」で広まった
明治維新は関ヶ原の恨みって見方は昔からチラホラあるけど、長々と語る人が増えてきたのは戦国ブームの後だね
関ヶ原までしか詳しくない人が幕末関係の会話に加わりたくて、無理やりこじつけてくる感じ -
普通にこじつけだよな
毛利も島津も長曾我部も関ヶ原の合戦で何にもしてないんだから どこに徳川を恨む筋があると言う理屈になるのか
どっちかといえば、上杉、佐竹、立花に恨まれる側
関ヶ原で奮戦した東西両軍の子孫から見ると、毛利も島津も小早川と五十歩百歩に見られるんじゃなかろうか -
耐え難きを耐え、恭順していれば犠牲は最小限で済んだだろう
という事例は、歴史に幾つもあると思われる
我が国では、豊臣秀吉に対する後北条氏の例 日米交渉不成立による大東亜戦争開戦あたりだろうか -
会津は無能ゲス
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>>21
それ具体的にどこにあるの? -
逆賊
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売国会津
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逆賊史観
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>>82
毛利家中では関ヶ原をどう語ってたんだろう
黒田、細川、浅野といった外様や、井伊、本多など譜代の家中では血湧き肉躍る合戦模様を語れるわけだ
その時それがしの御先祖様が、敵兵をバッタバッタ時薙ぎ倒し、と大久保彦左衛門のように口角泡を飛ばして
一方毛利家中は語るべきことが全くない 南宮山でお弁当食べてみんなで無事に国に帰りました って遠足かよと
島津も合戦終了後に大奮戦しました、とか漫画とかではさもかっこいい事のように描かれているけど、全然意味がない
真面目に戦った宇喜田小西石田、大谷や平塚らから見たら何言ってるんだこいつと
島津の代わりに名将立花宗茂が関ヶ原に来ていたらどう転んだか判ったものではない
他家と関ヶ原の昔話になったらちょっと居た堪れないってならないのだろうか -
売国テロリストの会津藩
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そのとおり
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逆賊藩
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会津観光私学の悪影響で石原莞爾とかも異常に持ち上げられすぎた
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会津観光史学の悪影響で石原莞爾とかも異常に持ち上げられすぎた
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意味不明
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会津からすれば天皇から最も信頼され手を汚してきた背景があるからね
長州は天皇に嫌われ御所に発砲し朝敵なのに平然と抗戦したりしてるから
どっちが正義とは言えないよね -
天皇からもっとも信頼されってレトリックだよなあ
孝明天皇としては誰でもいいから御所の警護をしてほしかった
京に兵力を常駐させてて、攘夷は駄目と説得しようとしないのが会津だけだった -
西郷頼母は無能
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明治期に明治天皇に最も信頼されてたのは
三条実美と木戸孝允だから、しょうがない。
即、白旗上げた慶喜のほうが正しい。
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