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武道・武芸
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世界最強の男
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衝破論とは、何か。
衝破は衝の関係であるならば、
そのぶつかり合いは軽くて済み、
破の関係ならば、その破り合いは重いとする。 -
達人の考えは難しい。
漆膠(しつこう)が大事であるという。
読んで字の如く、
うるしとにかわのことである。ともに付着力と粘着力がある。
宮本武蔵が語る。
漆膠とは、身を入るるに能く付きてはなれぬ心也。
つまり、全身を漆膠の如くに我身を相手の身に密着させろ、と言っているのである。
恐怖心のあまりにからだは前に出ないのに、手がさきに出る、ということはよくあることである。
手を出す前に全身を相手によせつけ、それから突く。
これだと、相手がどれほど強い相手でも、五分の勝ちを占めることが出来る。
達人は、ものすごいパンチが相手がくりだしてきても、実は、相手の体は恐怖で前に出てきていないと
いうことをわかっているのである。体がこわがっているから、パンチを打ってくるらしい。
そうではなく、パンチを出さずに、体をパンチみたいに前進してくる場合、体はこわがっていないから、
突きもすごいぞと語っている。 -
急所を乗りきるのを、剣術では渡(と)を越すという。
宮本武蔵は五輪書で説明する。
兵法戦の内にも、とをこす事肝要なり。
よき船頭の海路(うなぢ)を越と同じ。
急所とはピンチのことだろうと思う。
戦いとは、船頭が、舵を握るようなものであると武蔵は言っている。
佐々木小次郎と戦った後、
武蔵は、心の中で、よき船頭の海路(うなぢ)を越と同じとつぶやいたのだろう。 -
陰経は、人間が四つん這いの姿勢をとったとき、太陽の光があたらない体表面を
走行し、陽経は光があたる体表面を走行する。
陰経を支配するエネルギーはマイナスイオンであり、
陽経を支配するエネルギーはプラスイオンである。
陰経に対してはマイナスイオンの補給、マイナスイオンの奪取、
陽経に対しては、プラスイオンの補給、プラスイオンの奪取を行なうことで、
秘孔をつく構えをなして、秘孔をつく。
秘孔をつくことでマイナスイオンを補給しているのではなく、
秘孔をつきながら、マイナスイオンを奪取しているのである。
経絡をつきながら、陽経に対しては、プラスイオンを奪取しているのである。 -
横綱には、神道的儀式である手数入(てずいり)を遂行する権能が与えられているのである。
そのことによって、横綱は神に仕える者=神に通じる者=神の関係者であることになる。 -
宮本武蔵は言う。
ねばるというのは、敵の太刀にこちらの太刀をピッタリつけてはなれないように
する力の自在感(力の拍子)である。力まかせに押しつけているようではいけない。
ねばるというのと、もつれるというのがあるが、ねばるは強く、もつれるのは弱い。
宮本武蔵が、戦いを見ていたとしたら、
その二人が、ねばっているのか、もつれているのか、一瞬で見抜くことができるという
ことなのだろう。
もしわれわれが武蔵が戦うところを見た場合、武蔵と相手がもつれあっていると試合が見えていたとしても、
実は、それは武蔵がねばり剣を奥義を見せているということになる。
武蔵の試合には、もつれの試合なし。相手の剣にピッタリつけてはなれない戦いというねばるの剣を
見せているのである。 -
大成太極拳
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太極拳...
これは、気になる。
太極とは、、太極には立体の太極と平面の太極の両儀があり、
前者は陰陽を逆転変換する主、後者は陰陽対称させて完全調和とその突きを共存させる、調和、
複雑、混沌、ゆらぎの主である。
宇宙空間に星を誕生させるのは前者、星の表面のあらゆる働きを司るのは後者、
前者と後者は常に相補して宇宙全体を動かす。
核「5」は演出家で、左腕、陽の芽「8」と右腕、陰の芽「2」をまず作る。
陽の芽「8」陰の芽「2」を誕生させたと同時に、
その8、2を使って、3-7、1-9、4-6を誕生させる。
9数の理法から一歩も出るものではないが、極めて自由闊達に動き廻る。
核5は両腕8-2と孫4-6、3-7、1-9が出揃った所で、初めてそのすべてに関与する。
3-7、1-9、4-6の自由運動は、即ち8-2、究極5自身の為す業であるが、5は同時に別の仕事を開始している。
4-6、3-7、1-9が、即ち8、2に吸収される。一瞬に吞み込んでしまう。
元の核5自身に帰る。ここで核5は時間さえも呑みこむことになる。
過去を復活させ、未来を引き入れる。これも核5の仕事なのである。 -
あの人は強すぎる
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文化的に現象する「最強者」に人は、自己の勁さの極致を
託すことができる。最強者はこうしてこそ、
社会のうちで、文化の所産としてつくりあげられるのである。
それは、男たちの歴史的共同心情の一点八象である。
ベルトは、観衆の視線の束を宙におしもどすことによって、
彼が精神であることを保証するのである。それを締めた者は、すでに
最強者である。最強者とは人びとのなかで最も精神的な者の呼称である。
力のエネルギーを精神のエネルギーへと還元し、力を精神のうちに吸収して
「精神としての身体」を創造する。対手の点穴を最小の動きでかわし、
同時に最小の動きで対手の死角に点穴を与えるような「霊妙な働き」そのものへと
己をつくりあげるのである。理性的=精神的動物としての人間の究極の純化のさきが、
そこにある。哲学的用語を使えば、それこそが「現象学的還元」の
行くつくところなのである。 -
空想する。
空想は思考である。空想は、速度差のよじれである。
物理空間と思考空間のふたつを考えれば、空想は思考空間の範疇にある。
それは思考空間の場の励動である。ヒトの動き、ヒトの武芸は重力に拘束されているが、ヒトの空想は、重力に影響されない。
武芸に対し、真に空想しない状態があるとすれば、つまり武芸に対し真の空想があるとすれば、
それは覚醒した状態の武芸と同じことだ。
零空想、真に空想しない武芸をこなすとき、それは覚醒された達人である。 -
達人は、フラクタル武芸をしているのかもしれない。
九つの自分というフラクタルが存在する。
過去の自分→フラクタル9
現在の自分→フラクタル1
未来の自分→フラクタル2
未来の自分2→フラクタル3...
九つのフラクタルのうちのひとつを自分だと投影する。
自分を外側にフラクタル投影する。
選択と重ね合わせは、常に生じる。
1枚を投影し、2枚目に投影したあとも、それらをまた
重ね合わせて、自分と似たものを作っていく。
フラクタル図形とは、部分の中に全体の形が含まれている。
これがフラクタル構造である。
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△▼△
<フラクタル図形>
達人の点穴の型は、いろいろな形があるが、
足に打つとき、腕に打つとき、横脇に打つとき、
しかし、その点穴は、フラクタル点穴技となっているのだろう。
構える(フラクタル1)→点穴を打つ(フラクタル2)→体勢を整える(フラクタル3) -
気を集中させるということは、
フラクタル的に一点集中することかもしれない。
点穴の一点は、この世界の最小部分ともいうべき一点に、
この宇宙全体が内包されている(=フラクタル)のと同じことになる。
フラクタル武芸とは、自分の中に全体が内包されているがゆえに、
一点をつくことは、全体をつくことになり、全体をつくことは、一点を点穴することになる
といえるだろう。すなわちフラクタル点穴を発揮する。
達人的点穴現象が生じる。フラクタル的武芸は、達人の技を支えるメカニズムである。
また、防御である。
部分と全体が相似形になっているフラクタル図形。
全体の形も部分も三角形になっている。
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部屋の色によって、人間は気分が変わるという。
ホテルなどもリラックスできるように、部屋の色を考えている。
東は青色、太陽が昇る色、西は黄色、夕焼けの色にすると、精神のバランスがとれやすいとのこと。
部屋も、方位によって色をわけると、心身も運気も整う。
自然界の色の気は、太陽光線の異なった波長のエネルギーを、ある方向から受けた状態だと
いわれている。
太陽光線の波長の違い、受けた方向の違いによって自然界の気の色は異なると言っている。
磁力の集中する場所でも気の色は変わる。
ある古い教えでは、破滅の潮、種まきの潮、収穫の潮、計画の潮。
積極的流れは北極から南極へと流れ、消極的流れは南極から北極へ向かって流れる。
星や月から来る光の放射線、結晶体・磁石・生物から発するエネルギーなどの根底にあるパワーである。
達人は、このような感覚で、気の色をみながら、腕の中を力を流すように、相手を倒す色を流して、
点穴を打つのかもしれない。 -
点穴の武芸家の話では、
地震で家屋が倒れ、下敷きになる。
偶然に、命が助かり助けを求める。
救助隊がやって来て、病院に運ばれる。
立ち直ったはずなのに、数日後、命を落とす。
挫滅症候群と呼ぶらしい。
家屋の倒壊の一部が点穴を押したのだろうか。
点穴を受け、ある日数がたってから倒れるのを
何日倒しの点穴として秘された技である。 -
按摩功の目的は気血の流れを助け効能を強め、
竅穴内のエネルギーを活性化させて功訣との和合を促す。
達人は、鼻をこすると言っている。
両手を軽く拳の形に握って、親指の第二節(関節と関節の間)で
鼻柱の両側をこする。鼻の中が熱くなるまでこする。
唾液を出す。歯を噛み合わせると唾液が増えてくる。
唇を閉じて歯を噛み合わせたまま、クチュクチュとうがいの動作を
繰り返す。唾液は3回に分けて注意深く下丹田に送り込む。
その後、静功を始めるか収功をする。唾液は五臓を調和する大事なものである
と達人は言う。 -
北斗神拳=△□神拳
北斗行=七つの形=△□
△+□=3+4=7(北斗七星)。
御用(五葉)は、印し(△□)をおさめに参りました。
地に命を宿ったのは、△□を学ぶためである。 -
どのようにして点穴一点にパワーを加えるか。
プールに飛び込んだときのことを考えて欲しい。
水面に身体が当たったとき自分の質量を感じる。
瞬間的に、この感覚を指先一点に集める感覚なのだろうか。
雪原を歩く。もちろん、自分の質量を感じる。
足にかかる雪の抵抗を感じる。
そこで雪が融けたとしよう。足に質量を感じることは
なくなって、いつもの感覚で普通に歩いて前進ができるようになる。
達人の軸足の回転の速さは、頑丈な土の上を、雪の上で回転するような感覚で、
さらにプールに飛び込む感覚で体感の自分の感じる質量を、指先一点に
瞬間にこめている感覚なのかもしれない。
プールに飛び込み、水面に当たった瞬間の肌で感じる自分自身の質量、雪の上を歩くと
沈む自分の質量を、感じるような武芸の動きを達人はしているのかもしれない。
これは、光の分子に気持ちがあるとすれば、肉体の分子と分子の間を勢いよく通過していく感覚のスピードである。 -
フラクタル点穴とは、
フラクタル図形とは、部分の中に全体の形が含まれている。
これがフラクタル構造である。
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△▼△
<フラクタル図形>
顕微鏡で見るのと天体望遠鏡で見る世界が似ているようなものである。
Aをつきつめて見ていくとBのようにみえる。
Bをつきつめて見ていくとAのようにみえる。
Aをつきつめて見ていくと、よくわかります。よりAに見えます。
Bをつきつめて見ていくと、見えてきました。Bがより見えてきました。
これでは達人の点穴ではないのだろう。
Aを見て行くと、Bとよく似ている感じがします。
Bを見ていくと、なにかAとよく似ている世界です。
A=Bに見える点穴が、フラクタル構造達人点穴なのかもしれない。 -
てす
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あれ
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あれ
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ケンシロウとラオウの戦い。
一番重要なことは、究極、見えない存在である神に対して、
二人は、異なった観念を所持している。
どちらの信じている北斗神拳の神、北斗神拳の技が正しいのかを
判断をするにしても、どうしてもそれぞれに
自分の立場で考えた神に対する考え方の判断が、
己の北斗神拳を決定する。
世界の紛争の元には、この正しさ同士がぶつかって
いる。ケンシロウもラオウもなぜぶつかり合うのか、
それは見えない物のすべての中で究極が神だからである。
世の中には、見えるもの、見えないものがたくさん存在しているが、
その見えないものの中で、究極が人間にとって神なのである。
ケンシロウ、ラオウにとっては、北斗神拳の神が見えない存在であり、
その見えない北斗神拳神が人間の頭の中に現れて、武芸を伝授した。
神直伝北斗神拳なのである。 -
そう考える。
時間も、空間も人間と同じように考えることができる。
人間に向かって時間が飛んでくる。
人間に向かって空間が飛んでくると表現する人間もいる。
人間は、がんじがらめの世界から自由になりたいという心がある。
時空も、かんじがらめの世界から、一歩ずつ自由になりたいという思いを
持っている。時空は、がんじがらめの状態を、楽しいでしょうか。
あるいは、時空は、がんじがらめに一歩ずつなろうとしているのだろうか。
ケンシロウの拳は、時空をがんじがらめから自由にさせようとする突き。
ラオウの拳は、時空を自由からがんじがらめの方向に向かう突き。
二人の北斗の拳法は、時空と拳の対話が、自由→、がんじがらめ←の拳の
ぶつけあいなのかもしれない。二人の拳の想念に時空が引き寄せられているのである。
陰と陽が回転する。 -
イギリスのストーンヘンジはどのようにして巨石を立てて、
石をその上に乗せることができたのか。
ある説明によると、地面に大きな穴を掘り、長い巨石をそこに落とすと、
真っ直ぐに立つ。そして、その周囲の土をかきわけて、石だけにすると立ったままになるらしい。
もしくは盛土を作り、そして穴をほり、そこに長い石を運んできて、落とす。
そして周りの土を掘り出すと、一本のストーンヘンジが作ろうと思えば作れるらしい。
一本の石を人間の手で立てようとすると大変だが、
地面に穴を掘って、そこに石を立てて、まわりの土をかきだせば、石は立っているのである。
そしてそのようにして立てた石は、古代人にとって天文観測の装置になっていた。
このように考えると、点穴という技は、今、考えているような動きの技ではなく、
もっと、自然に考えて、点穴という技を練る時間の尺度をもっと長く考えても
いいのではないかと思えてきた。まわりの土をかきわけるように、
点穴の技の周囲の技をじっくりとかきわけて、かきわけていかなければならない。
盛土を作り、穴を掘り、そこに長い石を落とし、そして土をかきわける。
盛土を作り、そこまで石を運び、そして深く穴を掘って、
そこに石を斜めから落として、突き流し、そしてその石の頭をロープで結び、
大勢の人間が力を合わして、石を垂直にし、そしてまわりの土をかきだす。
点穴の技も、ストーンヘンジ型北斗最終奥義の輪技(ワザ)なのかもしれない。 -
ラオウの北斗神拳は、威によって勝つ神拳である。
ケンシロウの北斗神拳は、道によって勝つ神拳である。
道によって勝つのは難しい。
達人は、道によって勝つ。 -
jyojyo
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ジョナサン・ジョースター(ジョジョ)は、
最初のころ、拳に波動を伝える練習をするところから始まり、
そしてスタンドを使えれるようになる。
このスタンドを出して、戦う方法は、難しいと考える。
シャドーボクシングの場合は、相手が目の前にいると思って、
拳をかざす練習をする。
スタンドは、その逆の形なのである。
逆シャドーボクシングとは、相手がいて、自分がいない状態での
練習をするということである。
自分は部屋の中にいてるのだが、もう一人の幻想の自分は、
公園に行って、相手と格闘技のやり合いをしているという状態なのである。
公園で立っている者は、誰と戦っているのかわからないが、必死で
目の前の敵と戦うことになる。相手は、それがスタンドだったとはわからない。
逆シャドーの練習を繰り返せば、スタンドができるかもしれない。 -
野球とテニス...これらの競技と武芸とは、
どう違うのか。
松井選手も、イチローも、年齢を重ねて、現在のバッティングを見ると、
ほぼ現役時代と同じ、スタイル、型をしている。やや違うところもあるかも
しれないが、ややスタイルは良く似ている。テニス・プレイヤーしかり。
すると武芸の場合は、どうなるか。
円熟が増すと言われる。武芸の場合、他のスポーツとは違い、年齢を重ねるほど、
円形が増すのである。
イチローや松井のバッティングが、歳が増すほど、バッティングの振りが円熟を増すとは
言わない。バッティングの素振りが丸くなってはいけない。
しかし、武芸の場合、円を描くほど、達人的と言われる。
つまり、相手をかわすスピードである。あるいは、勘である。
これが、難しい。映画でも手裏剣が飛んで来たら、達人は、なにも感じていないのに、除けている。そして -
後ろの木の壁に手裏剣が刺さっている。
ふつうの人間は、殺気を感じたから、なんとなく顔を動かしたとなる。達人は、殺気を感じなくても、
除けている。殺気でなくて、なにかが飛んでくる感覚が、直撃的に脳に信号が伝達するのでなくて、
神経自身が、直接、感じて、脳に信号を送る前に、神経の細い網の目が、筋肉に伝えているのである。
この神経自身が、直接、筋肉に伝えるこの技が達人はできるのであろう。
神経と筋肉が一体化している為、その速度は、光速、神速なのだろう。そして点穴を打つ。
イチロー、松井の場合、ボールを待つのである。武芸の場合は、ボールを叩き落とすのである。
はじく必要はない。感覚的に。これを剣に例えると、相手は斬ろうとする。
つまり斬る動作がいる。武芸の場合は、動作はいらない。打つ。それだけである。達人は、不動作の動作。
動作の不動作があるのだろう。 -
北斗、最終奥義、無想転生であるが、
この技は、一瞬にして相手の技を体得してしまう技なのであるが、
もしかして、その逆の夢想転生という技があるのかもしれない。
誰の技でも自分の技として一瞬で体得しない、
あらゆる存在する技を無意識に使わない、
目の前で見た技、過去に対戦した人間の技を潜在意識の地点で、
その技を顕現させず、それ以外の技を突然、戦い中、繰り出す最終中の最終奥義、
北斗神拳というものがあるのかもしれない。
地球上にまだ存在していない技を、その場で繰り出す。点穴を打つ。
この考えでは、無限に技が出てくるのである。 -
本当かどうかわからないけど、
戦国時代に剣豪として名を馳せた塚原ト伝も信玄に招かれて
剣術の教授をしていた。信玄が相当の使い手であったらしい。
伝説なのかもしれないが、興味深い。
信玄は、庭に立っている木の模型の木馬を発見する。
信玄は、その木の木馬に向かって、抜刀する。
すると、その木馬は、動物に戻り、森に逃げて行ったらしい。
動物が、木馬に化けていたのである。化けていることも察知ができる
ほどの信玄の剣術の妙である。
さらに、信玄が、寝ていて、そばにあった刀で天井を突き刺す。
なにもなかったので、また信玄は寝る。
しかし天井では、忍者は、落とされた片腕の切られた側を
口にくわえて、その血潮の滴りが、信玄の顔に落ちないようにしたらしい。
忍者は、自分の血も落とせないらしい。 -
達人の息は踵(かかと)を以てし、
一般人の息は喉を以てす
意を以て気を引く
意を以て気を運ぶ
意到れば即ち気到る
自ら温かくなる
これは、映画でもよくあるシーンなのだが、
体が温まってきたというセリフを言う達人が多い。
達人にとって、実践とは、体を少し温めるほどのものなのであろう。
達人の実践は、自ら温かくなる感覚なのかもしれない。
意到れば即ち北斗神拳点穴到る -
ある説によると、
縄文時代に太陽信仰はなかった。
縄文時代に太陽信仰は存在しなかった。その縄文時代の伝統を
引き継ぐわれわれ日本人の最高神が、なぜ縄文時代に存在しなかった
太陽神なのか。このように疑問を問いかけている。
日本には、太陽を神とする信仰はなかったと言っている。
太陽は太陽だった。
ケンシロウにとって、北斗神拳にとって、北斗七星は、北斗七星は、北斗七星だったのかもしれない。
北斗七星を神として見ていなかった。ただ空にある七つの星と思っていた。
空を見上げれば、そこにあるという感じなのかもしれない。
星を神と意識する以前の意識であった。
北斗点穴も、意識する以前の意識で打つ感覚なのかもしれない。
始源北斗点穴を打つ感覚かもしれない。最高神である北斗神拳の神は、最高神と
思われる以前の最高神であり、その技ということになる。 -
ファイナルとは、一体どういう意味なのか?
ファイナル マーシャルとは一体、どういうことなのか?
いろいろなところを回った末に最終的に自分のところの武芸のところに
やってくる武芸者に、自分の解釈が正しいと認めさせる、
正しい答えだと理解させる。
その意味でファイナルとつけているのかもしれない。
そしてやってくる武芸者に、このような時に、どう対応すればいいのですかと
相談されたら、自分の武芸の技能を証明するためのオプション技を、オプションと
して追加してあげているのであろう。
動画を見ていると、どんどん技が増えていき、複雑になっていくのだが、
これは視聴者がオプションを求めるので、オプションをつけているのだろう。
基本は、北斗点穴なのだが、オプションとしていろいろ北斗最終輪廻点穴とか
いろいろ追加されるのだろう。それらはオプションなのだろう。
北斗のファイナル北斗点穴は、個人の意志にかかわってくる技ではない。
北斗ファイナル点穴は、最終的には、北斗神の意志にかかわってくるのだという立場をとるのが
北斗宗家であろう。最終的に、己の意志にかかわってくると答える武芸は、北斗宗家の点穴ではないだろうと
考えられる。 -
天才とは、研究対象である問題と、自分自身と、その二つが区別がつかないまでに一体になる人だ。
「問題」が「自分」か、「自分」が解かなければならない「問題」かわからないような、
互いに融け合った状態になってはじめて、解決の糸口となる発想をつかんだり、
法則を見つけたりすることができるのである。
北斗神拳の点穴をどうすれば打てるのか、その問題を考え続けると、
自分自身とその問題が融け合うまで、考え続けると、一体になり、
法則を発見することになるという感覚なのかもしれない。
その点穴をどう打とうかと悩んでいる問題と、自分自身がはなれている状態では、
まだ、北斗点穴は打てない。いつのまにかその打とうとする観点が、自分自身となり、
問いが自分となり、自分が問いになる。そして融け合うことで北斗点穴の技が、
少しだけ見えてくるのかもしれない。達人は、こうすればいいのではないかという問いかけと自分自身が一体となり、
融け合った技を打てるのかもしれない。陰と陽が合体するのではなく、融け合う感じで、
点穴を相手に融けるような融点穴北斗神拳を打つ。技の進化の頂点に来て、誰もその頂点の次の頂点に足を進めることができない
状態で、さらに、その頂点を点穴で溶かし、さらに頂点を作り上げる。 -
バーチャル・タイムと周期的時間は、同義語である。
これも北斗神拳で大事だと考える。
周期の波の山と谷。
北斗の戦いは、北斗ジグソーパズルである。北斗神拳の戦いのジグソーパズルの残りのピースは
外的現象である。内的現象のピースと外的現象のピースがバランスを
保っていなければ北斗点穴のジグソーパズルは完成されないと考える。
北斗最終点穴は、内側の現象だけで、相手に対して、打つのではなく、
小さな外的現象の発生を見ながら、外の景色における小さな外的発生を発見しながら、
その小さなピースを当てはめる。
矢が飛んできて、コンクリートの壁に
突き刺さるのと同時に、ケンシロウは、足でステップを踏む。
内側のエネルギーが流動するだけでなく、ケンシロウは外的現象をつかみ、
それを内側の現象と外的現象を周期的時間とバーチャル・タイムとして同義語化点穴を打つ。
外的現象とつながらない拳は、残りのパズルが付加されていない拳といえる。
ラオウとケンシロウの戦いは、この外的現象の隆起だった。北斗神拳ジグソーパズル・ピースの出現である。 -
骨法、堀辺正史を、誰かが発掘して、マスコミに取り上げられるようになった。
当時の著名な武術家たちが、賞讃した。
骨法とは、鎧を身につけた者同士が、鎧をつけたまま、お互いが戦う武芸であったと
堀辺は語っている。鎧の上から、拳で叩いても、効かないから、
鉄の鎧の向こう側にある身体だけに波動を与える拳として、骨法があるとしている。
鎧はたたかない。鎧の向こうにある肉体に、波動を与えるとしている。
なので、骨法では、手のひらの面積を広げるため、手を広げて、頬(ほほ)をはたく感じで、鎧をはたき、
相手を倒す方法みたいなのである。だから練習方法とは、ボクシングみたいに、
相手を殴ることを意図しているのではなく、相手が仮想の鎧を身につけいると想像して、
その上から、波動を通過させる感覚で、練習をするのである。
骨法を学んでいる武芸家の試合は、相手に突きを出しているように見えているが、頭の中では、
鎧の上から、力を波動貫通させている感覚なのだろうと思っている。
杉本錬堂によると「僕のモットーは、痛みを追いかけない」ことです。と言っている。
なんと、秘孔を追いかけないと言っている。痛いところはあまり触らない。
秘孔は、体全体を電車の経路みたいにつながっているから、その秘孔と違う駅というのか、
秘孔を押したほうが、実は効果が上がると教えている。あえて、これだ秘孔だと思った秘孔を
わざと打たない点穴の法みたいなのである。
さらに杉本錬堂は、筋肉を骨から引き離すように「ゆるめる」こと。すると、ジャンプ力が突然、飛躍したり、
腕のスピードがはやくなると言っている。体が痛く感じたり、動きが早くならないのは、
筋肉と骨が密着しているからである。それをゆるめなさいと言っている。
よく動画を見ていると、骨から筋肉をはずす感じで、もんでいることがわかる。
ある意味で、点穴とは、杉本錬堂式骨から筋肉をゆるめる感じで打つという感覚かもしれない。
打つのではなく、骨から筋肉をゆるめる感覚なのかもしれない。 -
わかると思うけど、宮本武蔵がどのような感じで戦っていたのか、
これは、すべての人が、自分の頭の中で、イメージしていると思う。
あるところまでは一致するが、それぞれ異なったイメージを
ふくらませていると思う。
武蔵の時代に、ユーチューブがあれば、見ることができるが、
ある程度のエピソードから、想像するしかない。
多分、こうだったのだろうと。
武蔵が、剣は、こう、腕の力を抜いて、両方の腕をダラリと前に
させるといいよ。そういう感じだよと、ユーチューブで教えるのだろうか。
もう、相手が武蔵ということだけで、前に出れないよ。絶対に。
大山は、常にカラテの構えをして武蔵の前に立っていたのだろう。
武蔵流点穴とは、一体どういう感じになるのだろうか。 -
ブルース・リーには哲学者の側面があるみたいである。
正しいとは、適切な、疑う余地のない、必然的な、論駁できない、絶対的なということである。
アリストテレスの哲学は、「すべて」と「ある」の間の絡み合いと言っている。
すべてのAはBである。
いかなるAもBでない。
あるAはBである。
あるAはBでない。
「いかなるクジラも魚ではない」
ブルース・リーの頭の中だけに、「いかなるクジラも魚ではない」という形式が
入っていて、その形として、ジークンドーができたのかもしれない。
クジラにはいろいろとあるが、そのクジラの種類の中に、魚はいないという感覚の武芸である。
これを道場で、ブルース・リーから教わると、生徒は、難しいと常に悩むのかもしれない。 -
とっさのパンチ。これが、すごいというところもある。
王選手に対して、相手の投手が、マウンドを降りて、
王に向かって走って行った。
それを見たコーチが、ベンチから飛び出し、相手に向かって行って、球界の宝を壊されたらたまらんと
思い、自分より何倍もある相手を殴り、相手の拳が骨折してしまった。
コーチは、野球以外のことをしたことがないのに、たった一回の殴りで、相手の拳を
壊してしまった。日々、練習している格闘家でも、このようなすごいつきは、
なかなかできない。自分のためだと思ったら、こんな拳はとっさに出せない。
自分のためという気持ちが、まったくない一瞬に、この拳が出たのだと思う。
相手に正拳は一回だけでいいのである。その時、700本もホームランを打っている球界の宝を壊されたらたまらんと
いう気持ちで、正拳をだすのだろう。
点穴も、こんな感じで、頭の中が真っ白になった瞬間の点穴なのだろう。 -
喧嘩強いヤツはチビマッチョが多い
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骨法、堀辺正史が、喧嘩芸骨法と言っているのだが、
堀辺正史は、無数にケンカをしていたらしい。
試合ではなく、ケンカなのである。まったく相手が、どのような技を
使うか、まったくわからない状況での戦いなのである。
本当のケンカみたいなのである。
サッカー選手が、ゴール前で、敵の選手がシュートを打つ瞬間に、
猛烈にジャンプして、ヘディングでボールを場外に出す。
そして両者は力があまってぶつかり、グランドに倒れて、立ち上がれなくなる。
この光景は、よくテレビで見ると思う。
あれを瞬間的にアゴにむかってヘディングされたら、かわしようがないらしい。
アゴにヘディングを入れてくるらしい。頭全体が骨だから強烈である。
腕とか足で攻撃してくると思っていたら、頭突きをサッカー流にアゴに入れられるのである。
その頭にカラテの手刀をおろす脳天唐竹割という効果がある技もある。
達人をやっつけようと数十人の男たちが、達人の家の中にはいってきた。
家の中を探しても、達人がいない。そう思った瞬間、家の屋根ごと崩れて家がつぶれ、
下敷きになったらしい。達人は、武芸だけがすごいのではなくて、
自分の家までもすぐに壊れるように仕掛けていたことに驚いた。
達人の話を聞いていると、ここまでというのがないということがよくわかった。 -
陰陽の図は、九星太極図といい、
円周を円で進んでいるのではなくて、
陰は、陰で勾玉のラインに沿って進むらしい。
陽は、円形に進むのでなくて、陽の勾玉のラインに沿って、
途中で、内側に曲がって、勾玉のラインに沿って進むらしい。
陰陽の図みたいに、円周を沿っていき、陽から陰に線が変わるのではなくて、
そのまま陽のラインは内側に入って進み、また陰も同じように内側の中心に沿って
進み、円周に出ると、円周に沿って進むらしい。
陰と陽は交互に進むわけではないらしい。九星太極図式点穴といえる。
北斗星移式点穴ともいえる。 -
宮本武蔵が特別、剣を速く振ることができたというわけでもない
感じなのである。
野球選手でも、サッカーの選手でも、
特別に速いスピードでバットをスイングできる方がヒットをよく打つわけでもないし、
ボールをける足のスピードが特別、速い選手が、よくゴールするわけでもない。
相手も、宮本武蔵の動きを見ているのに、武蔵の剣をさけることができない。
宮本武蔵は相手と目が合っているのに、お互いの剣が振りかぶったとき、
なぜか武蔵の剣だけが相手に当たっている。
武蔵を囲んでいる人間も、武蔵の剣の動きが見えているのに、かわしているはずなのに、
当たっている。間違えるて、中には、自分から武蔵の剣に当たってしまう場合もあるだろう。
武蔵の場合、実は、相手が武蔵の剣の方向に、自ら動いてしまっているのかもしれない。
ケンシロウの場合も、実は、相手から自分の秘孔を当てさしているのかもしれない。 -
「消える動きを求めて」
黒田鉄山が言っている。
自分は特に気にしていなかったのだけど、ある先生が参考にしていたので、
気になってしまった。
鉄山は、じっとしているのが最も速いと
言っている。
動かないのがもっとも速いという理論を初めて聞いた時、
衝撃を受けたと言っている。
これは、相手と戦っていく中で、奥義を探究していく中で、
陰の点穴、陽の点穴の二通りで打ってくる奥義の中で、
第三の消える点穴の打ち方があるということなのである。
陽の点穴、陰の点穴を極めたと思われる中で、それは陽の点穴を追い求め、
陰の点穴を追い求めているのだが、
達人は、消える点穴、消える点穴の打ち方を、目線でとらえる動きができるということなのだろう。
消える点穴を次に、どこに現れるか、想像予象点穴である。 -
強い技を身に付けると、武芸者は、先を見る必要がなくなる。
ケンシロウの場合、敵を前にしても、先を見る必要がない状態なのである。
先を見る必要がない状態まで作り上げた技を持った場合、
それ以上、強い技を考えなくてもいいということになる。
先を見る必要がない、新しい技を感がえる必要もないほどの武芸の技がすでに
あるからである。
この状態で、新しい技を考えることは、普通の人間では無理である。
この先を見る必要がない状態で、さらに新しい技を考え出す場合、
新しい最強の技を編み出すことによって、己をさらに武芸の道を歩むのではなくて、
その新しい最強の技は、最強の自分という人間の後を歩く状態なのである。
新しい技が己を高めるのではなくて、高めている自分に、新しい技がついてくる状態なのである。
普通は、新しい強力な技を発見し、身に付け、そして己が強い領域に高まるのだが、
達人の場合は、点穴という技が、後からついてくる状態なのかもしれない。
技が先ではななく、常に己が先なのである。
一子相伝北斗神拳が先ではなく、実は、ケンシロウという人間が、技の先に存在しているのであろう。
強い技を身に付けると、武芸者は、先を見る必要がなくなる。 -
天心が、相手のパンチをもらって、
後ろに引きさがり、スリップして、倒れそうになって、誰もが、
そのまま倒れると思ったら、その体勢から持ち直して、すぐに攻撃に戻った。
コメントを読むと、あのまま倒れていたらポイントを取られるところ、
持ち直すバランス力があった。ボクシングだけでなくキックもしていた天心の強さになっていると
言っていて、そうだなと思った。
すもうでは、力士は、俵を見ていなくても、感覚的に俵の位置を認識している。土俵際まで行くと、
自然と体がわかるのである。これを、足の裏に目がついていると言うらしい。
天心の頭は、一瞬、パンチをもらっていて、真っ白になっていたのだが、
足の裏に目があったのだろう。リングの床まで0.1ミリだ!って教えてくれたのだろう。
武芸家は、足の裏に目がついているのである。 -
魂の武芸。
魂と魄 の両方があるとある武芸家は言う。
表に魂が現れ、魄は裏になる。
魂の継承、魄の継承。魂魄の継承者。
ケンシロウは、北斗一子相伝、一子魂魄の継承者だったのか。 -
武芸には、
なになに流、うちはなになに流と、なぜ流がつくのか。
水の流れには流れる床の束縛があるが、風の流れには何らの束縛はない。
他面では、一旦建設され充実された内容が習慣の法則に従って集団性を
獲得してきて流に定型化される。
流を生涯のはかりごととなすものには誠をせめるという真剣さがなくてはならぬ。
北斗神拳一子相伝となると、ケンシロウにとって、生涯のはかりごととなすものといえるのだろう。
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