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鉄道懐かし
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昔の総武流山電鉄・流山鉄道
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いまの流鉄 - コメントを投稿する
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西武から501系を譲り受けて1編成ごとに愛称をつけた。
「流星」 「流馬」 「銀河」 「若葉」 までは格好良かったが
最後に「なの花」でコケたw -
流馬は造語だろ
(竜馬なら分かるが) -
それまでオンボロしかいなかったからイメチェンとしては大成功
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増税メガネって言われたのがムカついたからって理由で減税しますって
なんか情けなくないと思わんか? -
武蔵野線開業の日、新松戸の駅前から総武流山鉄道の赤い電車が見えた。
常磐緩行線を行く当時最新型だった営団6000系と、戦前製の吊りかけ電車、かなりの格差を感じた。
今も年代的には40年位の格差があるか? -
名鉄築港線のと同じ、元西武で東濃鉄道走っていた車両もあったな。他にも色々あったが、こういう古い車両を撮影しておくべきだった。それよりも営団6000や583等の特急型車両を撮影していたあの頃。
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1980年前後は京急の中古を改造したやつがよく働いていた
顔はお直しされまくって京急の面影のかけらもないが
側窓が大きいことが京急生まれの証しだった
それにしてもなぜ京急から…? -
安く売ってくれたから
電車ではなく鉄屑として買えた -
何故か京急400は伊予鉄や近江などの狭軌ローカルにも売られている
何気に京急は商売上手なのか -
大きさや形が極端に違う車両がペアを組んで走る光景が当たり前だったから
西武から湘南顔が来たときにはまず均整の取れた編成美に驚いたものだ -
南武社形国電が主力格でまとまった台数居た
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>>12 京急に東武小泉線のようなローカル線がないから。加速性能の悪い旧型車は他社に譲渡するかスクラップ。流鉄に行ったのは、西武所沢工場で京急400(初代)の車体に旧型国電の台車等取り付けたものだろ。
昭和30〜40年代前半の西武も車両一台でも多くほしいのに、武蔵野鉄道、旧西武鉄道時代の車両が小型で通勤輸送に向かないため地方私鉄に譲渡し、その代わりに501のような「質より量」の車両を造っていたわけで。で、これが後に総武流山鉄道に譲渡される。 -
68年に京急400改造の車両導入してるわけだが、同時代の秩父、富士急も似たようなものでは。17m旧国あるいはそれに似たような車両を改造して使ってたわけだから。
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京急400初期車は製造経験のない造船会社製で、戦後混乱期でもあるから
出来が悪かったらしい。それでサッサと放出した
近江にいったのは2扉14メートルに模型みたいに短縮されてる -
西武というよりも西武所沢工場ユーザーの地方私鉄。ここもその一つか?
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で、次は西武の新2000が入ってくるのだろうか?VVVFが入るのは15年位先か?
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つくばexに食われて15年先はどうなってるか分からない
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武蔵野線に食われつくばに食われ、発展著しい場所だけど規模小さすぎだしな
大昔のピクトリには野田線江戸川台まで延ばす計画があるとか書いてあったが -
>>22
東京の江戸川区から栃木県の小山まで壮大な計画で事業申請までしていたはず。全て計画倒れに終わっている。 -
延長計画は京成の傘下にいたら上手く行ってたかも
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松戸-流山-江戸川台の京成バスって今でも走っているのか
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ググレ加須
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>>25
そんな単純な話ではないよ -
>>13
車体は綺麗だが台車は古物で騒音大きかった記憶 -
台車が古物なのは社型国電や京急も同じ
でもそんなに喧しさは感じなかった -
旧南武の車とか旧西武の車は自動扉だっけ?
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南武はスタイルは良くないけど頑丈そうな雰囲気はあった
踏切でダンプに体当たりされても跳ね飛ばしてくれそうなw -
川重製の元西武車は全鋼製なのでガチで頑丈
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川重じゃなくて川造
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さすがに1980年代になると車が通れる規模の踏切は一種化されてただろう
ダンプの体当たりはないわ -
流電に元国電みたいなの走ってなかった?
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Hゴム支持改造されると近代的に見えた
元京急と元西武は前面は3枚とも改造 -
クルマが踏切で遮断機をへし折って線路に侵入して電車と激突する事故は今も後を絶ちません
踏切が1種対応に格上げされてもクルマが停まってくれないと意味がないのです -
ここって一度も大手の系列下に入ったことないな
子供の頃は西武から多量に車を買い込んでるので単純に西武系と思いこんでいた
いまでもICカード非対応、他社との連携を拒んでいる孤高の存在にさえ感じられる -
それが地元の誇り
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それが地元の誇り
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それが地元の誇り
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カードが使えるようになると客は便利になるが会社としては加盟料・負担金・手数料を取られて実入りが目減りする。便利さを犠牲にしてでもコスト負担を避けた決断じゃないかな?
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>>39
「平和台駅」にその名を残している平和相互銀行の支配が長く続いて大手私鉄が支配下に置くインセンティブが働かなかった -
平和台といやぁ地元民以外日本国民全員福岡県と思う
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切符オンリー?
スゲえな -
>>45
今は福岡人でも平和台を知らないと思う。平和相銀も消滅してから久しい。 -
孤高の存在なんて良いように書いてるがその実はハブられてるんじゃないか
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兼業もほとんどやらず都会の片隅でこぢんまり続けるのも一つの生き方
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直営喫茶店とタクシーがあった、今は知らない
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>>39
>>44
平和相銀を中心とした小宮山グループの流れを組む会社だね
同グループのゴルフ場運営会社、総武都市開発にM&Aされた際に社名変更してるし
親会社だった総武都市開発が経営破綻した際にも社名変更してたり
1971(S46).1.20.
【商号変更】流山電鉄→総武流山電鉄
2008(H20).8.1.
【商号変更】総武流山電鉄→流鉄
https://ja.wikipedia...i/%E6%B5%81%E9%89%84
https://ja.wikipedia...81%E5%B1%B1%E7%B7%9A -
ここ、501以降の元西武車両で前面切妻、三枚窓の411や451を導入してないが、上信や一畑とは対照的だな。別にそれを入れた方がよかったというわけではないが。
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>>52
まあ、深い意味は無くタイミングの問題でしょう
2連の導入時期がもう少し早ければ、車種は551系ではなく451系になっていただろうし
401系の時は全車売約済みで、4連を2連化して導入せざるを得なかったのだろうし -
馬橋のホームの近くにあった貨車はずっと流鉄所有のものだと思ってた
いつの間にかなくなってた -
食パン顔より湘南顔の方がカッコイイ
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平和台って昔は赤城台だったよな
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編成毎にニックネームを付けたのは誰アイデアなんだろ
それまでの野暮ったい田舎電車のイメージを一新する効果は大きかったと思う -
色を変えたのが良かった
オレンジ白帯のままだったらたとえ西武のスマートな車体でも
イモっぽさは残ってた -
HMは味気なかった
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ヘッドマークになるのか?
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鉄道の兼業というとタクシーかバスか不動産が思い浮かぶが、観光バスあたりはやっていてもおかしくないけどやったことないな
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阪急や西武の影響で鉄道業は多角化が前提みたいに言われるが
それで利益が出せるのは大手だけで
地方中小は多角化する資金さえないから
本業で地道に細々とやるしかないってことだよね
決して経営の怠慢ではないと思う -
タクシーやバスは鉄道と同じ運輸だから多角化とは言わんだろ
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昔は社員旅行などが盛んで団体客が多くて観光バスも儲かる商売だったのに
それでも手を出せなかったんだね -
運転手とバスを集められなかったから?
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>>68
昭和末期〜平成初期は乗客がどんどん増えて朝は3連で満員、日中でも2連でそこそこ乗っていた
そんな時期に収容力のないモハ1101が、組む相手のクハも全部廃車されてしまっては活躍のチャンスなどなかっただろう -
こんなに分かりやすく客の減った路線も珍しくない?
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建設時に馬橋駅から上野へ行けなくなるとは誰も考えまい。
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ほかには大聖寺・動橋・粟津駅から短い鉄道が出ていたけれど
三つとも急行列車が止まらなくなるとは考えなかっただろうし -
>>74
通してもいいけ流鉄テリトリー内には駅を造るな、だろ -
戦前に筑波高速度鉄道が流山辺りまで開通してたら・・?
そもそもTXの計画、路線は80年代には具体化していたし。 -
戦前に筑波高速度鉄道が流山辺りまで開通してたら・・?
そもそもTXの計画、路線は80年代には具体化していたし。 -
小中学校の遠足で使う観光バスは
市が保有するみどり号が1台、後に2台
それに野田市にある観光バス会社から数台をチャーターだったよ
東武や京成ではなかった
タクシーは流鉄タクシーが緑、流山タクシーが白ボディにエンジ色のライン
台数は流山タクシーの方が多かった
1970-80年代の話ね -
そうだった!よく覚えてるね!
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増結は電車を買わなきゃできないしホームの土地も買わなきゃならない
それよりもスピードアップして車両の回転を早くすれば電車や土地の費用をかけることなく輸送力を上げられる、よ -
こんな短い路線でスピードアップの効果などたかだか知れてる
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実際、ツリカケ車から新性能車に置き換わって表定速度は上がった?
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>>84
鉄道ピクトリアル臨時増刊7月186号で画像検索したら該当ページが出てきたわ -
四連で走ったこともあったのね
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活気があった時代に乗ってみたかった…
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2連になのはながあったがいっときコマツに改名していた
元がなのはなだから、コマツは小松菜にでも因んだと思いきや小松製作所の広告車だった -
数年前に信号系統の故障のため暫定的にタブレット交換を復活させて話題になった
調べたところ昭和57年までタブレット交換を実施していたようだ
既に西武の新車に置き換わっていた時代だが意外に遅かった -
>>84-86
全線1閉塞時代はそうだった(1967年7月小金城趾の列車交換開始以前)
当時流山線在籍7両による4連では、15mと17mの混結だから輸送力は低い
そのころの鶴見線17m級国電4連よりも短い -
小金城趾の交換が出来てからは2連や3連の2編成で運行かな
常磐線沿線民だけど4連は見たことなかったな
朝方に3連だったのは覚えている、それ以外の時間帯は2連 -
平和台から鰭ヶ崎に向かう方の途中に味醂工場への引き込み線があった
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小学館か学研あたりが出版していた鉄道の子供向け入門書で、ここの説明文が「長い社名に短い路線、最初は味醂輸送からスタート」となっていたのが忘れられない
総武流山電鉄の時代 -
二代目総武鉄道(いまの東武野田線)は設立目論見書に醤油輸送で身を立てると書いていた
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みりんやしょうゆみたいな液体の輸送は当時の鉄道で対応できてたのかな
安全に輸送できるタキみたいな貨車が実用できるようになったのは戦後 -
単一産品の輸送に依存した一本足打法的な鉄道経営は危ない
北海道や福岡の炭鉱路線がそれ
閉山したらたちまち干上がってしまう
流鉄も東武野田線も東京近郊のため宅地化が進んだおかげで旅客輸送に軸足を移すことができた -
>>95 樽に入れて有蓋貨車で運んでいたのでは。野田線の昔の写真だと有蓋貨車ばかり出てくるし。
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そう、液体は樽に入れる
地酒を樽に入れて無蓋貨車に積み込み幌をかけて運んでいる西鉄大川線の写真を見たことがある
量は満タンにすると線路の継ぎ目通過時に揺れてこぼれるから樽の半分程度に抑えていたという -
長方形の台枠の上に円筒状の樽を置くとデッドスペースが多く発生してもったいないね
樽ではなく升ならば隅々まで無駄なく詰め込めるから良さげ
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