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鉄道懐かし
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懐かしの京葉線 [無断転載禁止]©2ch.net
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懐かしい京葉線の思い出話を語り合おう - コメントを投稿する
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特別列車 千葉県民の日号
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スカイブルーの非冷房103系4連がのんびり走ってたのが京葉線の印象
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たしかにのんびりしてたな
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案内放送で千葉みなとを「千葉みな〜と」と変なフシを付けて言う乗務員がおった
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耳障りな放送は願い下げだな
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>>5
昔の車内放送は本当にやる気無かったな -
>やる気無い
それは労組が強かったから? -
態度の悪い奴は属してる組合に関わらずいたらしい
昔は少々のことがあってもクビにされなかったからな -
元々の計画は貨物線
千葉みなと〜蘇我間で買っての信号場の辺りから
旧川鉄構内へ分岐する専用線跡はまだ残ってるのかな?
もちろんレールは無いが高架線から地平の工場構内へ向かう鉄橋が
しばらく残ってた気がするが。 -
千葉みなーとー
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東京駅京葉線ホームで初めて動く歩道を体験
子供が面白半分に逆走したりしてっけな -
赤い手すりのやつな
安全面を重視してスピードは激遅。
歩いた方が速いと揶揄されたものだ
海外では時速30〜40キロの速さで動くのも
珍しくないらしい -
ケチなスクーターよりも速いぞw
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子供の頃、有楽町線と相直しないものかと妄想を膨らませてたよ
武蔵野線じゃツマンナイ -
103系や201系をピンク一色にする検討はされたのであろうか
播但線みたいになってたかな -
それは初耳です
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>>15
営団と国鉄の組み合わせは東西線千代田線で実績あるし、考えてもよかった -
>>13
ムービングウォークといえば阪急梅田コンコースやな -
>>18
そして爆走するピンク帯203 -
当時は海を走るからスカイブルーにした、と吹き込まれてたね。
単に京浜東北線のお下がりだ、とうのを隠すために。 -
ピンク帯203系いいねえ
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>>21
いや、まぁでもあの時点だとベストチョイスでは有るんじゃないか?
当時の国電色は基本的に5色しか無かった訳で、千葉県内で考えるとあの時点で
まだ使っていない残りの色は黄緑と青だった訳だから、2択なら青でしょ -
自分も幼きころは、青い電車ばっかりなのになんでラインカラーが赤いのかしっくり来なかったな
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鉄道業では赤色は赤字を連想するとして
あまり好まれなかったらしいね。
ラインカラーの選定も赤は最後まで残されてしたとか。 -
中央線の101系、最初の頃は今よりも赤みが強い色だったというが、播但103と今の中央快速色の中間位の色合いだったのかな?
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京葉線103をスカイブルーにしたのは、西船橋での武蔵野線車両との誤乗防止もあったのではないか?
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なるほどね
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>>29
じゃあ、ウグイスかエメラルドグリーンでもよかったんじゃない? -
>>26
ゲン担ぎですかい -
>>31 誤乗防止、それに塗り直さなくて済む、ということなんでは?
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103系と営団7000系と東武9000系との顔合わせなんか萌えるわあ
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平成2年2月終わり頃、南船橋にあったららぽーとでの話
3.11
東京駅直通記念バーゲン
とか縁起でないのぼりがあった。トレーナーが311円。
なぜ開業日でなく、翌日の日曜日だったのか?
あれから一回りで来年の3月10日が開業した日と同じ曜日になる。 -
新木場が終点だった時期って短かったよね。
北朝霞駅で見た武蔵野線の新木場行きにすごい違和感を感じたあのころ。
JR化して間もなかったな。 -
1988年12月1日木曜日〜 1990年3月9日金曜日
新木場止まり -
京葉線に205系がデビューしたら、横浜線の前例からして、
おそらくスカイブルーと濃い青色の、2色の帯ラインになる
(仙石線205系や、E231系800台のような)と予想していたが、
濃いピンクの帯と知った時は、あまりの奇抜さに驚いたなあ。 -
開業当時、西船橋から乗ったが、工場と埋立地しかない単調な風景だった。
周囲に住宅や店はあまり無かった。海浜幕張の辺りも空き地ばかりだったような -
京葉線にEF15やEF58といった旧式電気機関車が入ったことはあるんだろうか?
75年、蘇我から千葉みなとまで貨物線として開業した頃はともかくとして。
新型のATSに対応できないから無理なのか? -
>>43
SLコニカ号… -
有楽町線と京葉線の直通計画はあった。
国鉄がJRになって頓挫したはず。
有楽町線の新木場方に、京葉線に向けてのスロープが名残で残っている。 -
新木場駅のミルクスタンド
今のニューデイズとベックスどっちの位置だったかな -
新浦安駅ホーム、KIOSKもあったね
母屋そのままで、いきなり自販機になったときはびびった。 -
やはり有楽町線乗り入れ計画はあったんだね
実現して欲しかったなあ -
一ノ宮発飯能行き小川町行き快速急行、てか.
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東京駅の乗り換えが糞なだけに
有楽町線経由、利用しやすそう -
>>48 京葉線のダイヤ乱れが東横線にも影響するようになるから、鉄オタが京葉乗入れ止めろと大合唱
房総特急は有楽町線内の駅で降り返すことが難しい、新木場発着では不便過ぎて駄目。
東京地下駅総武線ホーム発着のままとなるが、NEXの筋を確保しなくてはならないので、房総特急の縮小が早くから進む。
武蔵野線からの乗り入れも新木場折り返しでかえって不便。 -
その場合は103通常形ではなく103-1000が転入してきそうだな
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MSEか東上ライナーみたいな車が走ってるだろう
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西船橋〜千葉みなと開業直後に乗りに行ったらガラガラの
103系スカイブルーの4連。途中で6両増結したので更にガラガラに
なった。 -
>>51
東京にも乗り入れて新木場が中目黒や代々木上原や和光市みたいな駅になるというパターンでも良かったのでは? -
シャトル舞浜
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開業当時千葉みなと駅は全部漢字表記だったよね。
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ちばこうと読んでしまった
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朝でも余裕で座れると評判だった
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総武線が酷かったからあ
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新木場止まりだった頃、検査時や幕張メッセでイベントがあった時、臨時で総武線の黄色い103系が走ってた。
実際、黄色い103系に乗って、モーターショーに行ったことがある。 -
ピンクの205系は、ウーパールーパーに見えた。
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今となってはウーパールーパーを知ってるというとかなりトシだわ
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>>2
なつかしい -
蘇我駅前に『笑笑』という屋号の鉄板焼屋があった
もちろん、あの居酒屋チェーンができるもっと前の時代 -
飲食店に有りがちな名前やね
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>>69
蘇我といえばイルカなんだよなあ、俺としては -
ツマンネ
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1986年の部分開業時、短編成で運転する際は6両でしたが、
同年9月から4両に減車されました。
当初から予定通りだったのか、
利用状況を鑑みての変更だったのか、
わかりませんでした。 -
前の方でも誰かが書いてるように朝の混雑が起きずに
みんな快適着席乗車。
輸送力過剰と判断されたのではないかな。 -
長いホームに短い編成が停まってると貧相に見えたものだ
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マリンちゃんにはお世話になりました
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ロッテの新チーム名にも係ってたのかな
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あの頃の高橋留美子は勢いあった
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>>5
一頃話題になったスーパーノベルみたいなやつか -
部分開業日に千葉港−西船橋を往復しました。
千葉港駅が自動改札機だった事に感心しました。
千葉市内だと、当時既に自動改札機を導入していたのは
京成千葉駅(現千葉中央駅)のみだったはずです。
京成千葉駅(当時)は70年代中頃には導入済みでした。
千葉港駅か稲毛海岸駅の初代の自動改札機が
後に成東駅に移設されたそうです。 -
二俣新町で車窓から津覇車輌の工場を見たときは
こんな場所にあったのかと驚いた当時は東武のヘビーユーザーでした -
>>80
おれはめぞん一刻で目覚めた -
良かったなw
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東京開業時、ケト線で中間に押し込められていた低運先頭車が
大目玉を煌々と照らして爆走する姿に萌えたよ -
>>82
稲毛海岸駅と言えば忠実屋とジャスコ -
線路は新しいけど電車はボロ、などと
小学生のころは容赦なくこき下ろしてた -
間違ってないよ
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クーラーが付いたのは良いが梅雨時には匂いがあった
手入れできてなかったんだろうな -
続き
先住の忠実屋が新参のジャスコに対抗して高級店になったりディスカウント店になったり
思い切り迷走してたんだな
ダイエー提携後、店のエントランスでまだ弱かった頃のダイエーホークスのFC入会勧誘やってたが
当時は巨人&西武の全盛時代だから全く見向きもされてなかった -
たしかに駅前で睨み合っていた忠実屋とジャスコ
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91年3月のダイヤ改正時、
朝9:30より前に東京駅を発車する下り特急のための送り込み回送のスジが4本あり、
東京駅で折り返し、さざなみ1号、3号、わかしお1号、5号に充当されていました。
京葉線内の上りの特急列車は蘇我駅を8:30過ぎに蘇我を発車するさざなみ2号でした。
(総武線経由時代から踏襲)
4本あった回送列車はスジを動かした上で営業列車化されましたが、
今や2本は東京駅到着後、回送で下るというのは当時は予想だにしませんでした。
少し大げさですが。
ちなみに当時、下りの特急列車の最終は東京駅19:30発のさざなみで
19:30より後に東京駅に到着した上り特急列車はすべて回送で下って行きました。 -
>>96
比べるつもりなかったけど駅と言えば船橋と幕張くらいしか知らんかったから・・・ -
そりゃ京浜東北のお下がりばかりじゃ新鮮味もないだろ
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