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鉄道懐かし
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旧型客車総合スレ3
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參
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今回も読売の社説で結構きつめにNHKに物申してたが
なぜかスクラムブル化しろとは絶対に言わないんだな。 -
SCHOOL RUMBLE MATTER? 10/03 00:15
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来週だっけ?高崎のイベント
Twitterに上がる画像でも見るか -
マニ車といえばマニ30
(荷物車ではあるが用途が少々特殊で、実際の運用は非公表のときが多かった)
マニー車といえばナマのおカネを運ぶ車
(鉄道車両としては日本には存在しない) -
桜降る蒲田?
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川崎市の生田緑地にD51とスハ43が保存されている。
スハの中に入れる。165系と違って座席の下は何もないのか。 -
↑和田岬線、サンテレビ撮影の当時映像。
同じく尼崎港線↓
https://www.youtube..../watch?v=r2n_k2TRTUg
プロ用機材なので、同年代の他の映像群より恐ろしく画質が良い。
入って行けそう -
そして、でっかい竹籠のゴミ箱をおばちゃんが引きづって車内清掃するんよね。
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上野発着の常磐線の客車普通列車
(1980/03時刻表から)
555発:221レ、仙台行
1236発:223レ、仙台行
1513発:425レ、平行
1136着:422レ、浪江発
1600着:424レ、平発
2145着:426レ、平発 -
>>16
その頃には既に、夜行の仙台行きや成田線直通の客車普通列車もないのね -
時刻表1971/07から、上野発の黒磯を超える普通列車
530発:121レ、郡山行
1117発:123レ、一ノ関行
1554発:125レ、福島行
2241発:421レ、奥羽本線経由青森行
もう少し後かもしれませんが、一ノ関行をガキの頃に上野で見た記憶があります
とんでもなく遠くに行く普通列車だと勝手に思っていました
福島行はもう少し後まで残っていて、学生の時に大宮まで乗りに行きました
大混雑で、大宮で降りて発車を見送っていましたが、デッキまで人であふれていました
青森行の記憶はゼロです
ご参考 -
時刻表1971/07から、上野発の常磐線列車
549発:221レ、仙台行
1040発:825レ、成田行き
1233発:225レ、仙台行
1405発:425レ、平行
2054発:829レ、成田行き
乗った/記憶にある客レは、末期の425レと426レです(1977〜1982頃)
成田線の客レは、見た記憶がないですね
2220発:227レ、仙台行 -
>>19
成田線の客レはDE11牽引だったと記憶している。
昭和48年、電化すると聞いて今度はどのELが牽引するか楽しみにしていたら、まさかの103系。
あのときのショックは生涯忘れることが出来ない。 -
715系が導入される直前の長崎本線・佐世保線普通列車って
どんな感じだったんですか? -
子どもの頃に京都発草津線直通の旧客に乗った記憶がある
うわ外線走ってる!ドア開きっぱなしで危ないやん!っとかいろいろ思っていたけど
ほどなくレッドトレイン化されちゃったな -
>>24
レッドトレイン時代はそう長くなかったね。 -
現在の基準だと各デッキに監視員を配置しないと危険だろうな
北海道と東日本では走行中に開けられないよう電磁ロックとドアクローザーを増設してる
電磁ロックによる鎖状は20系客車みたい -
最後尾車両の鎖だけのオープンデッキはもう味わえないよねぇ。
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>>27
無理でしょうね
自分も何回か経験しましたが、怖いことは間違いなく怖いです
コンプライアンス上、極めて厳しいとしか言いようがないです
ちなみに、必ずしも簡単ではないですよ
・最後部に荷物車などが連結ないこと(これで上りか下りのどちらかが難しくなる可能性)
・最後部の客車が
ハであること
(ローカル線の客車でハフが1両しか連結ない場合、日中線等)
ハフで、車掌室が最後部でないこと
(車掌室が2両目寄りにあることは、結構普通にあり)
ハフで、車掌室が後部の場合、最後部ドアの内側に車掌室がること
(スハフ32や、オハフ33、その他ハからの改造ハフの場合)
ただし、車掌さんのいる場所が近いため、注意を受けることもありました
ハフがオープンデッキであること(別府鉄道ハフ7など)
などなどです
なお、単純走行でも、
高速の走行は危険
橋やトンネルもなかなか迫力がります
中でも一番の押し?スイッチバック、
風を全部受けるため、減速走行でも凄いです
米沢→福島、の上りがお薦め?危ないです(下りは荷物車連結に注意)
夜行では、札幌→函館の46列車でも経験しました
下り寄りの2-3両の客車の最後部のスハフなどの連結状況によりますので、運次第
ちなみに、客車が2両の場合、まともにであれば車掌室は両端と思いますが、
2両とも中間に車掌室、という編成もありました
車掌室の位置は、あまり気にしていなかったのでしょうか?
36年ほど前の記憶です
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>>27
公には無理だろうけど
非公式ゴニョゴニョを含むなら完全にゼロではない
(ただし正規依頼では許可は出ないと思う)
もっとも、それの可能性のある線区は現在不通になったままだが。
和田岬線でスハフ42 2254が代車に入ったとき
貫通扉が閉まってたが、走行中に自分であけて楽しんだ記憶がある
旧客ってフランジの摩る音が特徴的だよね
20系寝台に乗ったときもデッキで同じ音がしてた(客室内はすごく静か)
デッキ馬乗りも含めて、セルフ展望車体験は和田岬線が最初で最後。 -
>>30
和田岬線のラッシュ時の姿はとても日本とは思えず、
映像でしか知りませんが、
東南アジアのどこかの国の通勤列車を想像していしまいました
よく事故が起こらないものだと、正直感心してしまいました
帰りはガラガラ、落差がすごいです -
>>31さん
反応どうもです。
デッキ鈴なりの平日朝ラッシュ時間帯は私も乗ってないです。
乗りに行ったのは基本的に休日の夕刻便でした。
ほどほどな混雑は記憶してますので一度くらいは平日夕も行ったかも
全国どこでも同じですが日本では退勤時刻って朝みたいな定時ではないので
今でもそうですが平成初頭ですから余計に。 -
>>32
デッキ鈴なり乗車も危険ですが、まだ完全に停止前の下車も思ったより危険
早すぎると、マジで足が定まらず、転倒寸前も経験しました
今なら年取ったためもありますが、仮に後ろからせかされても止まるまで待ちますね
それ以前に、デッキ鈴なり乗車にならないように、早く乗るか最悪1本待つと思います
若い健脚の男限定?(それでも危ないですが)
海外ならまだ経験できる国もあるでしょうが、全くお勧めできないです -
完全停止前のデッキから降りるときは、
進行方向ホーム側の脚を順当にホームに降ろす「のではなく」、
「車体側の脚から降ろす」のがデフォだよな
自転車の「ケンケン乗り」の逆をやるような感じで。
バランス崩しにくい -
何言ってんだ
近くに降りようとするから足が縺れるんだろ
踏ん切りよくポーンと遠目に跳ね降りるんだよ -
スキー場のリフトの要領と同じだな
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今はもう誰も~~~
当時のようには飛べないさ -
慣性の法則というのがあって、デッキから降りたら、進行方向に軽く歩いて行くもんだと思っていたが。
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客車のゆったりした発車は歌の題材になってた ドアが閉まってしまう時代になって歌にならなくなった
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マイテ49も後年展望デッキの手すりを嵩上げしてる
以前は腰の高さ位だったのが肩の高さくらいになった
梯子代わりに上らないようアクリルパネルも付けられた
昔は安全基準がおおらかだったな -
逆ですよ
安全基準がおおらかだったんじゃなくて
昔はバカが居ないってだけだよ -
そのとおり
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1985年から1986年頃の山陰のネガやポジをデジタル化中ですが、
オハフ33_627やオハフ33_1517のコダクロームでのコマが出てきました
青でしたね
オハフ33は基本茶色と思い、違和感があったため撮ったように思えました
オハフ33_1011は、BWネガしかありませんでした
ということは茶色だった?
事故改造車の様ですが、知ったのは最近です
もっと客車は勉強しておけばよかったと後悔ですね -
後悔先に立たず ( ^ω^)・・・
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>>46
マジレス、本当にその通りです
とくに普段の状態が一番実は貴重だとか、全盛期の貴重な記録、とか
そう言われても、あっちもこっちも行きたいし、なんて思っているうちに、普段の状況が一変してしまうとか
まあ、いろいろです -
手動ドア、後方デッキ開放あたりまえだし慣れていた
いちいち詰まらないことで訴えない
地方では列車を降りた客が線路歩いて平気で帰宅出来た時代
今とはいろいろ違った
>>34-39
飛び降りてみたら、見た感じより速くて焦ったというのはあったな
周りに誰もいなかったし、なんとかなったけど -
都電の専用軌道傍を歩いたりしたな
今は大事になりそう -
マスク警察みたいな線路警察もおるんだろうな
どんどんつまらん奴らが増えてく -
ps://www.youtube.com/watch?v=tiCZdFeCqxM
これたまらんな
九州ベル、今はほぼ絶滅した出発合図扱いのブザ、それに呼応する汽笛、
停車するときビヨーンと行ったり来たりする旧客特有の挙動のなかを乗降する旅客、
カネ積んでも二度とムリ -
念のためですが
「出発合図」は、「出発指示合図」とは異なります。
指示合図のほうは各地でまだ幾らか残ってます -
貴重な映像
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昔、名古屋から長野に行く夜行急行はがら空きで、2つのボックスの座布団4つを
床に並べてその上で寝て行った。
今では眉を顰められるような行儀の悪い乗り方だが、検札・巡回に来る車掌氏も
ニヤリと見ていく程度で咎められたりしなかった。
そうでなくてもあの頃昭和40年代後半の日本人の民度・マナーはお世辞意にも良い
といえるものではなく、終点に着いた急行なんかは車内も座席周りも弁当空きカス・
みかんの皮・ワンカップの空き瓶・新聞紙とゴミだらけだった。
まぁ、ところ構わずタバコが吸えて、開け放った窓からは黄害が吹き込むようなのが
日常だったしね。。。 -
大昔の絵本には「食った後の弁当箱は座席の下に捨てましょう」って書いてあった。
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そういや、窓開放と黄害はセットだったな
余り気にしてなかったが -
マナー厨こそ平成令和のゴミ
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マナーがどうたらと小五月蠅いのが増えたよな
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潔癖は一種の病気
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ゴミは床に、は大井川鐵道でも言われるが
7両のSL客が皆弁当箱捨てに駅のゴミ箱に持っていったら入る訳無いしw
引き上げ線で清掃時に一気に回収してたね -
マナーといいつつセルフサービスに誘導されてるだけ
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座席が板張りの旧客ってありました?
お尻が痛くなりそう… -
座面まで板?
国鉄なら、おそらく1950年代で消滅してるかと -
>>66
保線が行き届いてなく揺れだけでなく突き上げ衝撃も避けられなかったから割と早々に消えたと思う。
今時の保線技術では突き上げなんてまずなくトロッコ車両とか観光鉄道で結構総板張り座面あるな。
昔みたいなアンコてんこ盛り座面も、今や発泡ウレタン形成の薄っぺらい座面に変わって、座り方が
悪い人は結構腰やケツが痛くなるみたいだけど。 -
戦災復旧客車の座席は、板張りでしょうかね
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座席が板張りの時代、貸座布団があったそうで。あるいは自分で座布団持参するか。
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正座していた人も多かっただろう
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戦災復旧客車で思い出したのですが、リストを見ると緩急車が電車改造のオハフ71のたった2両しかありません。
(17m級の「オハフ70」や客車改造のオハフ71は存在しない)
この2両は運転台を車掌室にそのまま流用しただけで、手間も少なそうなのに量産されてないという事は、
素体がそこまで少なかったのか、それとも緩急車の需要が皆無だったのかどっちなんでしょうか? -
EF57+オユ10+旧客
オユは冷房化
さて、このオユの冷房電源は57のEGから給電していたのでしょうか?
乗客も乗務員も郵便局員をさぞ羨ましく見えただろう -
床下DG
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オユにディーゼル発電機付いたのか
㌧ -
そういや逆に10系寝台車末期の天の川とかなんてエンジンが各車についてた贅沢編成なわけか
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床下EGなんざ五月蝿くて寝れるか!
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現代の基準だと各デッキに見張り付けないと危険で国土交通省に怒られそうだな
北海道や東日本は電磁ロックとドアクローザーを増設する工事してる
20系客車は最初の頃各デッキにドアボーイが付いてたがいつのまにか付かなくなって車掌がドアを閉めに回ってた -
各車付きで居たのはドア専用員ではなく
列車ボーイだよ -
平成初期に寝台列車から修学旅行の生徒が転落なんて事故があったらしいが、20系だろうなと思った。
更に昔大阪から銀河に乗ったときにドアの開閉は手動だったのは当時中坊の自分には驚きだった。
スレ違いすまん。 -
>>71
座席に正座して座るおばあちゃん見なくなったね -
冷凍ミカンも見なくなった気がするけど、俺が気づいていないだけ・・・?
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>>80
転落と言えば宮城道雄だな -
阿房列車に凄い不気味な記述があったな
宮城道雄が銀河号のテールマークが綺麗に感じたと言うので内田百?閧ェヒマラヤ山系と一緒に見に行ったら無かったとか
予知か?予知なのか?? -
バックサインと呼んでね。
で、その銀河のバックサイン掲出、
一週間くらい(だっけ?)ですぐ中止されたんよ
だから、そのタイミング -
>>88
まずは先生の原作を読もうや -
>>89
資本は従来通りという指摘だろ -
単に資本の意味を理解していないアホかと
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客車から転落?!
怖い -
急にどうした?
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郵便車は窓を開けると郵便物が飛散する恐れがあるから締切にせざるを得ず、いち早く冷房化されたんだよね
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理由はそれだけ?
組合の力?
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