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鉄道懐かし
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とき,はくたか,新雪,白根,鳥海,佐渡,上越線を語れ1
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181系朱鷺の赤字はガキの頃なんて読むか読めなかった人も多いはず
165系急行佐渡、ゆけむり、その前は80系が使用された。
183系1000番台は上越線用に181系置き換えの目的で開発され、あさま・ときに使用された
485系はくたかは一時期489系も使用された、
此等の各特急・急行列車は最盛期には、食堂車やグリーン車2両を従えた堂々とした編成だった。
そんな上越線の特急・急行列車の黄金時代を語ろうではないか。
北陸や能登・鳥海などの夜行客車列車の話題も歓迎します。 - コメントを投稿する
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鳥海は夜行客車急行だったが、485系特急列車に格上げ、JR化後も残った。
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上野→高崎で特急に乗るとき、“いなほ”“はくたか”“白山”はオーラと言うか、格上の貫禄みたいなのがあり、
畏れ多くて、専ら“とき”“あさま”でしたなぁ…。 -
関東地方こんなに大雪だと冬の上越線を思い出すなぁ
水上機関区があった頃が懐かしい。
EF1628が駅前に保存されてるんでしたかな?
水上からEF58とEF16重連北陸、
今でも水上機関区があれば冬場の除雪作業も効率が良いでしょう。 -
急行佐渡がサハシを2両も連結してたのは今から考えると驚きだ。
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181系末期の凸凹編成
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黄門様…はくたか、北陸
助さん…いなほ、白山
格さん…とき、あさま
弥 七…佐渡、よねやま、信州…
八兵衛…普通列車 -
1日に1本だけあった湯檜曽に停車する急行佐渡
今の駅の雰囲気からは急行が停車していたとは信じられない -
上越新幹線開業前は六日町に住んでいて、村上の祖父母の家に遊びに
行くのに新潟までよく「とき」を使った。
六日町から乗ってすぐ座れたことは一度もなかったなぁ。
母親が車掌に尋ねると、決まって「長岡で多分座れる」の返答。
実際長岡で大量下車して座れた。
でも「佐渡」なら最初から座れる確率が高かったから、その方が
いいのになぁと子供心に思ったものだった。
「いなほ」に長岡から乗るという手もあったのに、母親は何故か
一度もプランニングしなかったっけ。 -
そりゃ、いなほは新潟を経由してなかったし・・・
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長岡はすっかり寂れちまったなぁ
長岡は第一機関区と第二機関区があって賑やかだったが廃止orz
転車台も無くなってしまった、
水上も機関区がなくなり、東新潟機関区も無くなったなorz -
小学生当時、新潟へ行くのに「とき」に乗った時、よく揺れる181系に乗るのが嫌で183系だと喜んだものだが、今はあの揺れが懐かしい
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>>2
鳥海がDCだったときもありますね。
生まれて初めてのスキーに越後湯沢へ日帰りで連れて行かれた帰りにDC鳥海に乗った記憶があるんだが、
近い時期のデータ調べると、時間的にちょっと合わない気もする。
行きは165系佐渡。
>>5
自分がビュッフェという言葉を知ったのは佐渡のビュッフェのおかげ。
何かすごくいいものだと思った。
>>3
とき、あさまは他の3つより距離が短いのと本数が多くて有難味が薄れてたってことかな?
それとある時期までは、ときは10両編成、あさまは8両ってのもあったか。
あさまは食堂車もなかったし。
あさまはともかく実際はときは東海道・山陽筋以外では初の電車特急で、特急としての歴史はその中で一番古いんだが。 -
六日町の山奥の母の実家に遊びに行くのに上野駅から乗車するのは『佐渡』だった
子供心にカボチャ色の車体の佐渡より朱鷺の方がかっこよいし、金持ちっぽく見えて
柏崎が田舎の友人がいつも朱鷺に乗るのが羨ましくて堪らなかった
朱鷺に乗らずに終わったせいか、列車の思い出というとカボチャ色の佐渡の車体と佐渡の中で食べた冷凍みかんやアイスクリームとかばかり
…ひょっとしたら自分は朱鷺に憧れ佐渡を馬鹿にしながらもカボチャ色の佐渡に愛着を持っていたのかもしれない
なんて思う今日この頃 -
現在ではムーライトえちごが特急ときの名残り?
大宮までなら完全にときだよな。
使用車両も似てるし。
国鉄時代新宿発のときってどうして無かったんだろ?
使用車両は181系の共通運用だったのに、新宿発のときがあっても良かろうに。
車両運良も効率がいいだろうしな。 -
東北貨物線に定期旅客列車が設定されたのは、ときの廃止後です。
とき存命中にそれを企画したら、組合に猛反対されてボツになるに
決まってます。 -
佐渡の深夜便によく乗ってた。
いつも満席で寝れなくて辛かった。 -
>>12
新潟経由しないといけない理由が見当たらない -
昔の上越線は撮影ポイントに1時間も居ればEF12の渋川貨物、
吾妻線のEF12・15貨物、上越線の貨物、ゴハチ牽引の夜行列車、
現在でも変わらないのが115系の普通電車だけだな。 -
>>17
若造(というかバカ造)はこなくていい。 -
新宿発の大宮方面定期優等列車というと、157系の準急日光くらいか?
一日一本くらい、新宿発の「とき」や「ひばり」があったら便利だなと思ったことがあるが、JRになる前は貨物の輸送量が減っても貨物専用線のままだったからなあ。
新宿では中央線の列車ホーム使い、山手貨物線経由で大宮までノンストップということになる。できなくはなかったと思うけどね。 -
>>17 上越線用の181系って、中央線では高尾までしか入ることができなかったんだっけ?
小仏トンネル通れないんだよね。 -
>>26 山用改造し、パンタグラフ折りたたみ高さを40mm低くしとかないと、狭小トンネルでの安全性に問題があるんではなかったっけ?
上越線に山用改造車って入ってたか? -
>>29
181系の車高見てみて、その後の183系でも車両限界引っかかってないと思うけど。 -
それにそんなこと言ったらEF64 0番台なんて早急にPS22Bに取り替えられてたろうしな、
晩年EF6441が両パンともPS22Bに交換されたけど、
交換された後、早々と廃車されてしまった。 -
補足しとくけど、EF6441は茶色に成ってからまた元のPS17に両方共戻したんだよな。
そしてしばらくして廃車、
同様なことはEF6241もPS22B(こちらは片パンだけ)
EF651052とパンタを振り替えて解消した。 -
>>30 車高ってのは、屋根の上までの高さだろ。181や183の場合、運転台の屋根までの高さ。
トンネル内の架線とパンタとの高さ調整の関係とは、それと異なる話。 -
>>34 ポケット時刻表というものがあった。特急、急行の時刻だったら全部乗っている。
携帯なくても不便ではなかった。新宿発作るにしても、臨時又は季節運行にするか、毎時の上野発とは別に一日1本程度設定するかというところだろう。
「新宿ひばり」とか「新宿とき」として、上野行きと間違えないようにするのかも・・
「新宿いなほ」なってあったらなあ・・? -
交通案内社の「ポケット全国時刻表」って10年前に廃刊されてたのか・・
スマホ世代が知らないのも仕方ないか・・スマホ位のサイズで出張にはこれで事足りたんだけどな。 -
>>35
そんなもん作っても乗客増期待できないもの
日光準急は東武との競争があって国鉄が有利なのは運賃と東京側ターミナルの優位性だけだから
今、NEXが色々なところから出てるのと同じ理由
あさまとかあずさとかはまかいじなんかも同じような理由だわな
ときとかひばりの時代だと上野行くの不便だからといって代替交通機関が無いからね -
でも需要はあるだろ、
昔も上野から大宮までひばり・ときはノンストップ(一部のひばりは大宮駅も通過)
だったんだから、新宿〜大宮間ノンストップでも構わない。
貨物ダイヤの合間なら可能だしな。
唯、あの時代貨物は最高時速75km制限があったから、限定解除しないといけないかもしれないけど。 -
>>40 昭和50年代なら需要あるんでは?東北・上越新幹線が当初計画で1976年開通予定、起点を新宿にすることも検討されていたことを考えると。
昭和50年頃には、西口副都心ビル群が結構できていたんだけどね。
山手・東北貨物線の時速制限や、労使問題といった面倒なことが多かったから、実現しなかったのだろうけど。 -
>>40-41
新宿高層ビル営業開始年月日
京王プラザホテル 179.55m 昭和46年03月 新宿区西新宿二丁目
KDD本社 164.7m 昭和49年06月 新宿区西新宿二丁目
新宿三井ビルディング 223.6m 昭和49年09月 新宿区西新宿二丁目
安田火災ビル 200.00m 昭和51年04月 新宿区西新宿一丁目
新宿野村ビル 209.90m 昭和53年05月 新宿区西新宿一丁目
新宿センタービル 222.95m 昭和54年10月 新宿区西新宿一丁目
スタジオアルタ 昭和55年03月 新宿区新宿三丁目
ハイアット リージェンシー 東京 昭和55年08月 新宿区西新宿二丁目
京王プラザホテル・南館 138.65m 昭和55年09月 新宿区西新宿二丁目
新宿NSビル 133.65m 昭和57年09月 新宿区西新宿二丁目
参考:サンシャイン60239.7m 昭和53年03月 豊島区東池袋三丁目
>>41さんが正論。 -
水上の奥利根館が廃業してた。
戦前からある旅館だったが…
列車が見える露天風呂というのがなぜもっと評価されなかったんだろう。
もっとも、あのあたりを通る列車は上越新幹線いらい激減してしまったが…
宿が無くなる半年前に風呂から見たのはその頃すでに本数を減らしてたEF64 1000の重連だった… -
電車特急から食堂車が消える頃、下り鳥海に乗りに行った。
大宮から長岡まで自由席を利用したが、高崎までは結構混んでいた。
高崎を過ぎると指定席自由席ともガラガラ、おめあての食堂車は誰も
利用者がいなかった。帆立弁当のような物を頼んで食べた。
この頃は、女性従業員は乗車していなくて男性従業員のみが接客に
あたっていた。この状態では食堂車が廃止されるのもやむを得ない
と思ったのを覚えている。 -
>>44
電車特急時代の鳥海だね、俺が鳥海って聞いて思い出すのは、
長岡のEF58が牽引してた客車急行鳥海、
だから一瞬、あれ鳥海ってオシ17連結してた時期ってあったっけ?
と思ってしまった。
しかしオール10系寝台で組編されていた客車鳥海は見ていてかっこよかったな。
1度も乗る機会はなかったんで、乗り心地はどうだったのかな? -
>>46さん
ありがとうございます、古本屋で探してみます。 -
夜行の佐渡って寝台車付いていたのでしょうか?
またどのくらいの乗車率だったのでしょうか? -
>此等の各特急・急行列車は最盛期には、食堂車やグリーン車2両を従えた堂々とした編成だった
ビュッフェ車はあったんだぞ・・急行「信州」、食堂車つけて急坂登ったんだ・・特急「白山」
碓氷峠さえなかったら・・という信越線特急、急行の恨み節が聞こえてくるような・・ -
>>50
白山は急行時代は食堂車なかったけど、特急になって食堂車付いただろ -
おまいら当然「光り輝く特急「とき」の時代」は買ったよな?
俺は買ってないんだ。誰か背中押してくれ… -
昔はそんなの当たり前
165系はましな方で、近郊型の115系で運用された急行もあった -
佐渡の時代は急行に14系が入る方が特殊だったわな
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んだな。当初14系は特急型とか言われてた気がする。
大垣夜行が件のボックスシートなのに、急行型で贅沢だなーって
思ったくらいだし。 -
>>59 それでも自由席急行料金取られるんだよな・・今の夜行バス並みか、それより少し高い位の値段で着席保証がない。
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>>52
間違っただけとは思うが、長岡夜行鈍行は下りだけだからな。 -
>>62
確か60-3改正で、通常新前橋行・シーズンのみ長岡延長になったんだったっけ、その733M。
長野→上諏訪夜行や大垣夜行と違って、途中での長時間停車がなくて長岡に4時過ぎに着いた記憶。
改正直前に乗って、長岡でどこも店が開いてなくて途方にくれた思い出がある。結局待合室で時間潰したな。 -
>>63
俺は宮内で米原行きに乗り換えたな。数分で接続。
乗り通したわけじゃないけど、米原着は13時間後の1745。笑うしかない。
中坊だったから親同伴だったけど、すげー時代にギリギリ乗れてよかった。 -
>>62
昔はちゃんと上下あったんだよ
734Mだったかな、水上を過ぎると主要駅にしか停まらなかったが種別は普通
岡山開業か博多開業の頃に廃止されて、その利用者救済のために、佐渡が沼田や本庄に停まるようになったんだ -
ゴーサントオより前は知らんかった。勘弁してけろ。
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>>65
俺は佐渡が本庄に停ることも知らんかった。
現在の本庄じゃなく70年代の本庄って栄えてたのかね?
その当時の行田なんて駅前は何も無いし道路も整地されてなく畦道だった。
勿論マンションなんて何もなかったよ。 -
>>68
坂東大橋を渡るとすぐ伊勢崎なんですよ。
伊勢崎中心部から東京に出るには高崎をまわるより本庄に出た方が早いし便利なんですよ。
当時、伊勢崎から前橋や高崎に向かう両毛線の本数より、本庄に行くバスの本数の方が多いくらいなんですから。 -
>>68 政治的圧力で急行が深谷に停車するのなら本庄にも1本位停めるべきだろ、という地元からの要望があったのでは?
国鉄が大臣の鶴の一声に屈したという批判を回避するには、本庄にも停めてバランスを保つのが合理的なんでは。
2012年だと、深谷と本庄の乗降客数はほとんど変わらないんだな。70年代当時はどうだったのだろうか?
本庄では、80年頃まで列車別改札が行われていたというし・・ -
追加。深谷と本庄、どちらも昭和30年頃に市になってるんだな。人口規模は同じくらいということか。
かつて、深谷に急行停めたことに対する反省で、本庄早稲田を造ったということではないだろうな・・ -
今でも上越線には幹線っぽい雰囲気があるね
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あ、ここのスレタイは「・・上越線を語れ」だな。
高崎線で語るに、鈍行が、これらの特急、急行通過待ち合わせのための停車を余儀なくされるものでしかなかった。
上尾事件の翌年、高崎からの上野行き普通に乗ったら、途中駅で何度も優等列車通過のための停車でじれったかった。上尾事件起きるのも仕方ないと思った。 -
太陽にほえろ!サブタイ:「噂」で新潟へ行く181系とき号が出てきたけど、
6両目が食堂車だった、
編成はTc+MM'+MM+MM'+MM+TD+Ts+Ts+MM+MM'+MM+MM'+Tcの13連だった。
これっていつの時代なんだろう?ときに乗車してる山さんが格好よかったな、
昔の新潟駅前(新幹線開業前の)が出てきてとても懐かしくて感動した。 -
>>75
モハの表記は「MM」ではなくて「M」もしくは「M'」だよ。
よく「MM'」とかで表記してあるのも見るけど、あれはモハが2両1ユニットの車両が多いからであって、
本来「MM'」と書かれたらそれだけでモハ2両ということになる。
せっかくこれだけネットが発達している世の中なんだから、もうちょっと勉強しようね。 -
RFにはMMって書いてあったけど・・・・・
天下のRFが間違えるかねぇ? -
>>77
具体的にどこにその記述があるの? -
俺も昨夜太陽にほえろの181系見たぞ!
ЯF誌?やめてくれよ、クモヤ143を電気機関車と書いたり10系気動車は17mと書いたりさぁw
たとえそれがMM云々て、書いてあったって自分でおかしいと思わないか? -
>>79
あれ上野方の運転席後方窓から撮ってるんだよな、
あんな撮影当時の国鉄平気で許してたんだから凄いもんだ。
俺、国鉄末期銀河の車掌室から撮らせてくれって夜頼んだんけど、
カレチ氏に「車掌室の窓から身を乗り出して撮りたいんだろ?」「それならダメ」言われたな。
勿論危険だからだろうけど、それ以外ならOKだった。レチ氏に感謝。 -
そもそも、TcやらMやらという記号は、国鉄→JRの運用表でも使われてる記号。
中間車で普通座席車だったらTまたはM、運転台がついている普通座席車だったらTcまたはMc、運転台がついている
グリーン車だったらTscまたはMsc、とかな。TとMの違いは、トレーラーかモーター付きか。
ちなみに、二文字目以降は小文字ではなくて、小文字サイズの大文字なので間違えないように。
ただし、荷物車や二階建車など、一部に小文字が使われることもある。
なので、>>75が書いた編成は、実際には
Tc+M'+M+M'+M+TD+Ts+Ts+M'+M+M'+M+Tc
が正解(サハシのDは小文字サイズの大文字)。 -
寝台特急電車581/583系では、
クハネがTnc、モハネユニットがMn+Mn’、サハネがTn。
上野発着の、東北常盤線系統の特急はつかり、はくつる、ゆうづる等の、583系使用の列車には、最盛期には、最大13両編成があったそうだ。
一方、同じく上野発着で、上越系統のとき使用の181系及び183系は、最大12両編成までだったはずで、13両はなかったはずだが。
東北系統の583系を上越系統の181系と勘違いし、581/583系の編成のMn+Mn’をMM'+MMと勘違いして、書き込む人がいても別におかしくはない。 -
私はTDが抜けて最大12両編成だと思っていました。
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>>82
それはないな。サロが編成真ん中という時期がないし、そもそもサロ2両があり得ない。 -
太陽にほえろの「噂」が75年の9月放送なら当時の181系「とき」の編成はこれじゃないのか?
←上野
クハ181-モハ180-モハ181-サハ180-モロ181-モロ180-サシ181-モハ180-モハ181-モハ180-モハ181-クハ181 -
モハは主制御器が付いてる方がMで、ない方がM’ だっけか?
183は0番台と1000番台でパンタが付いてるのが逆なんだよな? -
モハとかTCとか難しいことはわからん
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>>88
「鉄道の」懐かし板なのに。 -
難しいか?
おれ小2からRFを購読してたけど、当時からある程度は知ってたぞ。 -
新雪とか白根とか難しいことは知らね
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佐渡といえば1977年の落石事故
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一度でいいから、新雪(12〜3月運転)とそよかぜ(4〜11月運転)が並んでいるところが見たかった
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豪雪の上越線にはEF58と12系客車が一番合っていた…
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>>95
川端康成の雪国での一説「国境(トンネル)を抜けるとそこは雪国だった、」
にもあるように、水上から先の湯檜曽方面へ行くと雪が降っていて、
水上から先の後閑方面は全く雪なんて降ってない現象だったね。
昔の上越線は良い光景が沢山あったなぁ、
深夜の水上駅EF16+EF58重連北陸とか。
能登とか鳥海なんてEF58にオール10系寝台車に旧客の美しい編成だったな。
上越タイプのゴハチが1両も残って無いのは残念でならないorz -
新清水トンネルを抜けて豪雪の土樽駅に到着すると、辺りがしんと静まり返っててな
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上越でたっぷりの雪を機関車の前面に着けた列車で都会入りするのが、なんか誇らしい気分だったなぁ、自分は。
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モーター音が鳴り響くデッキのゴミ箱に入りきらず、デッキにまで堆く積まれ
た鶏めし、だるま弁当の空容器だが、いい匂いでなぁw
ちょっと便所の循環汚物の匂いもプラスされることもあるのだが…。 -
そんなのあったっけな
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